12月号 真の希望の源を待ち望む
主任司祭 ウィフリデュス ガッラ
待降節は、真の希望の源であるキリストの到来を待ち望む中で、私たちの心を開く聖なる招きです。ルカによる福音書21・25-36、天と地を揺るがす終末の兆しについて警告しています。しかし、この緊張感に満ちた描写の背後で、イエスは力強いメッセージを語られます。「顔を上げなさい。あなたの救いは近づいているから」。この約束の中に、私たちは世界の混乱を超えた希望を見出すのです。
キリスト教の希望は単なる人間的な楽観主義ではなく、神の愛に根ざした神学的な本質です。使徒パウロはローマ人への手紙5章5節で「希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と断言しています。この希望に心を向けることで、私たちは人生のあらゆる試練を神の約束の成就へと至る道としてみるように招かれているのです。
待降節はまた、私たちの信仰の歩みをふりかえる時でもあります。イスラエルの民がメシアの到来を待ち望んだように、私たちは栄光のうちに来られるキリストを待ち望みます。しかし、この待ち望みは受動的な態度ではありません。私たちは、灯火を絶やさず、平和の王への道を照らすように、警戒し備えるよう招かれています。
教皇フランシスコの2025年聖年に関する文書『希望は欺かない』は、神の愛と憐れみに根ざした希望の重要性を私たちに思い出させます。神が与えてくださる赦しは、たとえ過去が傷をもたらしたとしても、信仰をもって未来を見据えることを可能にします。待降節は、憎しみや後悔から解放され、希望に満ちた未来を築くための時なのです。
絶望と不確実性に覆われがちなこの世界において、私たちは希望の証人となるよう招かれています。この待降節に、私たちは貧しい者、抑圧された者、絶望した者たちに手を差し伸べるよう招かれています。真の希望とは、私たちを神の憐れみの道具としてこの世に遣わし、神の臨在のための空間を創り出す希望なのです。
私たちの待ち望みは、感謝の機会ともなるべきです。来たるべきキリストは、神の世界への愛の確かな証しです。様々な困難の中でも、感謝の心は人生のあらゆる出来事の中に神の御業を見出すことができます。感謝をもって、私たちはただ待ち望むだけでなく、喜びに満ちてキリストを迎え入れるのです。
2025年青年の象徴が連帯と兄弟愛を呼びかけるように、待降節は私たちを隣人との一致の中で生きるよう招きます。真の希望は決して個人主義的ではありません。それは常に私たちを、互いに支え合い、キリストの愛を分かち合う共同体を築くように導きます。
待降節はまた祈りの時です。祈りの中で、私たちはすべての渇望、不安、必要を真の希望の源である方へ委ねるよう招かれます。祈りは単なる言葉ではなく、神の計画に私たちを近づける信仰の行為です。
最後に、待降節は成就への旅路です。キリストは既に来られ、今この瞬間にも私たちの生活の中に現存し、やがて栄光のうちに来られます。この待ち望みは、人類の歴史の終着点が永遠の神の愛との出会いであることを知りながら、希望の中で耐え忍ぶ力を私たちに与えてくれます。
待降節を、準備の整った心、感謝に満ちた心、そして希望に満たされた心で始めましょう。この待ち望む時、私たちはただ待つだけでなく、地上の神の王国、すなわち平和と愛と喜びの王国を築いていきます。この待降節が、私たちを真の希望の源である御方を、心を開き、その愛に委ねる準備へと導きますように。
