主日福音メッセージ

年間第18主日(A年)

「小さなものを、イエス様の手に」

今日の福音で、弟子たちはイエス様に言います。

「ここには、五つのパンと二匹の魚しかありません。」

これでは足りない。これでは何もできない。弟子たちはそう思ったのでしょう。しかし、イエス様は言われます。

「それをここに持って来なさい。」

奇跡が始まったのは、十分なものがそろった時ではありません。ほんのわずかなものが、イエス様の手に差し出された時でした。

私たちも神様に、病気を癒やしてください、家族を守ってください、問題を解決してください、心に平安を与えてください、と祈ります。それは大切な祈りです。

しかし、今日の福音は、私たちにも問いかけています。

「あなたは、何を私に差し出しますか。」

もちろん、何かを犠牲にすれば、その代わりに神様の祝福をいただける、という意味ではありません。神様の恵みは、私たちの努力に対する報酬ではなく、いつも無償で与えられる贈り物です。

けれども、自分の時間や考え、プライドを固く握り締めたままでは、すでに与えられている恵みに気づけないことがあります。少し手放して心を開く時、私たちは神様の恵みを受け取り、その働きに協力できるようになります。

今の社会では、損をしないこと、無駄をなくすこと、効率よく生きることが大切にされます。しかし、愛は効率だけでは測れません。

忙しい中で、寂しい人の話を聞くこと。疲れていても、家族に優しい言葉をかけること。自分も苦しい時に、誰かのために祈ること。腹を立てていても、プライドを手放し、謝ったり、赦そうとしたりすること。どれも簡単ではありませんが、五つのパンと二匹の魚のような、小さくても大切なささげものです。

また、この教会共同体のために、自分のできる小さな奉仕をささげることもできます。自分一人では何も変わらないと思うかもしれません。しかし、イエス様の手に差し出された愛や奉仕は、決して無駄にはなりません。誰かを支え、慰め、希望を与える恵みへと変えられていきます。

ミサの中で、私たちはパンとぶどう酒だけでなく、喜びも、苦しみも、失敗も、不安も、家族への思いも、誰にも言えない悲しみも、すべてイエス様に差し出します。

たくさんでなくてもよいのです。立派なものでなくてもよいのです。小さな親切、短い祈り、少しの忍耐でよいのです。そして、悲しみや弱さしか差し出せない日があってもよいのです。

私たちの小さな愛も、奉仕も、涙も、悲しみも、イエス様の手の中で、誰かを生かす祝福へと変えられていきますように。

ガル神父


本当の宝は何でしょうか

年間第17主日(マタイ13・44-46)で、イエス様は「畑に隠された宝」と「高価な真珠」のたとえを話してくださいました。

皆さんにとって、一番の宝物は何でしょうか。お金、健康、家族、仕事、生きがい、人とのつながりなど、人それぞれ大切にしているものがあるでしょう。どれも神様からいただいた恵みであり、決して悪いものではありません。

しかし、イエス様は今日、私たちに静かに問いかけておられます。「あなたの人生で、一番大切な宝は何ですか。」

当時は銀行や金庫がなかったため、人々は大切な財産を土の中に埋めて守っていました。戦争や争いで故郷を離れ、そのまま帰ることができず、埋められた宝が何年も後になって偶然見つかることもありました。ですから、このたとえは当時の人々にとって、とても身近な話だったのです。

宝を見つけた人は、持っているものを全部売ってその畑を買いました。ここで大切なのは、「全部売ったこと」ではなく、「喜んで売った」ということです。もっと価値のあるものを見つけたからです。

私たちも人生を振り返ると、「これが一番大切だ」と思っていたものが、実はそうではなかったと気づくことがあります。年を重ねるにつれ、本当に大切なのは、支えてくれる人、家族、健康、そして何より神様がいつも共にいてくださることだと分かってくるのではないでしょうか。

あるおばあさんは、「若いころは神様にお願いばかりしていました。でも今は、『神様、今日も一緒にいてくだされば、それで十分です』と祈っています」と話していました。この言葉には、信仰の深い喜びが表れています。年齢を重ねると、体力や若さ、大切な人との別れなど、失うものもあります。しかし、神様だけは決して私たちを離れることはありません。その確かな愛が、私たちの希望の源です。

第二朗読で聖パウロは、「神を愛する者には、万事が益となるように共に働く」と語ります。喜びだけでなく、悲しみや病気、失敗さえも、神様は救いへ導くために用いてくださいます。

今週、一つだけ心に留めて過ごしたいと思います。「もし今日、イエス様が私の心をご覧になったら、私が本当に大切にしているものは何だとご覧になるだろうか。」その問いを胸に、神様という本当の宝を大切にしながら歩んでいきましょう。

ガル神父


年間第16主日

マタイ13:24−43

今日の福音で、イエス様は「麦」と「毒麦」のたとえを語られます。しもべたちは、「すぐに毒麦を抜きましょう」と言いますが、主人は「収穫まで待ちなさい」と答えます。なぜでしょうか。それは、私たちには人を完全に見分けることができないからです。

私たちも日々の生活の中で、「あの人はこういう人だ」と、つい早く決めつけてしまうことがあります。でも、本当の姿や、その人が抱えている苦しみ、歩んできた道は、私たちには見えません。聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネも、若い頃は勉強が苦手で、「司祭には向いていない」と思われていました。しかし神様は、その人の今だけではなく、将来どのように実を結ぶかをご覧になっておられました。そして彼は、多くの人を神様へ導く偉大な司祭となったのです。

では、人を裁きたくなったとき、どうしたらよいでしょうか。そのとき思い出したいことがあります。それは、「その人も、私と同じ神様に愛されている」ということです。イエス様は、その人のためにも十字架にかかってくださいました。私たちには良いところが見えなくても、神様は決してその人を見捨てておられません。このことを思い出すだけで、私たちの心は少しやさしくなり、裁く代わりに祈ることができるようになります。

そして今日の福音は、「他人の毒麦を探す前に、自分の心を見つめなさい」とも教えています。私たちの心にも、怒り、ねたみ、ゆるせない思いなど、小さな毒麦があります。それを取り除く力は、自分だけではありません。毎日の祈り、聖書、ミサ、そしてゆるしの秘跡を通して、神様ご自身が少しずつ私たちの心を耕し、良い麦へと育ててくださいます。

だから今日、誰かを裁きたくなったら、この一つのことを思い出しましょう。「この人も、私と同じ神様に愛され、同じキリストによって救われ、今も神様の恵みによって育てられている。」そう信じるとき、私たちもまた、神様のように希望をもって人を見ることができるようになるでしょう。

ガル神父


年間第15主日

「神様は、どんな心にも種を蒔いてくださる」

教会に来ることのできない皆さんにも、今日の福音の恵みが届きますように。

今日の福音で、イエス様は「種を蒔く人」のたとえを語られます。種を蒔く人は、良い土地だけを選んで種を蒔いたのではありません。種は、道端にも、石だらけの所にも、茨の中にも、そして良い土地にも落ちました。

畑仕事をしたことのある人なら、「そんな所に蒔くのは、もったいない」と思うかもしれません。しかし、この種を蒔く人は、蒔き方が下手なのではありません。むしろ、ここに神様の心が表れています。神様は、初めから人を選び、「この人には希望がある」「この人はもう無理だ」と決めつける方ではありません。人の目には実を結びそうに見えない場所にも、神様は惜しみなく御言葉の種を蒔いてくださいます。どのような人の中にも、まだ新しく変わり、実を結ぶ可能性を見ていてくださるのです。

私たちは時々、「何ができるか」「どれほど役に立つか」で、自分や人の価値を測ってしまいます。年を重ね、以前のように体が動かなくなったり、忘れることが増えたりすると、「自分はもう十分な実を結べない」と感じることもあるでしょう。

けれども、神様はそうは見ておられません。神様は、今の私たちの心にも、静かに種を蒔き続けてくださいます。その種が生み出す実りは、大きな成功や目立つ働きだけではありません。以前より少し優しくなったこと、人をゆるせるようになったこと、苦しみの中でも祈り続けたこと、思い通りにならなくても神様を信頼しようとしたこと。それらも、神様が喜ばれる大切な実りです。

私たちの心には、道端のように固くなっている部分も、石だらけで深く根を張れない部分も、心配や不安という茨に覆われている部分もあります。それでも神様は、種を蒔くことをやめられません。私たちをあきらめず、待ち続け、少しずつ心を耕してくださいます。

ですから、「自分はもうだめだ」「もう遅すぎる」と思わなくてよいのです。神様の目には、もう遅い人も、実を結ぶことのできない人もいません。大切なのは、たくさんのことができるかではなく、今日もう一度、神様に心を開くことです。

教会に来られない時にも、神様の御言葉は皆さんのもとに届きます。今日もその種を心に受け取り、神様の恵みによって、少しずつイエス様に似た者へと変えられていきましょう。

ガル神父


年間第14主日

マタイ11:25−30

今の医学は本当に進歩し、人間の寿命は昔よりもずっと長くなりました。それは大きな恵みです。しかし、ただ長く生きるだけで、本当に幸せと言えるでしょうか。体の命と同じように、心の命も大切です。人は「何のために生きるのか」という意味を失うと、心の力を失ってしまいます。

今日の福音で、イエス様は私たちに「私に従いなさい」と呼びかけておられます。信仰を持っていても、苦しみがなくなるわけではありません。病気、疲れ、不安、孤独、別れ、思い通りにいかないことなど、私たちの人生にはさまざまな十字架があります。しかし、イエス様はその十字架をただの苦しみのままにはなさいません。そこに意味と希望を与えてくださいます。

イエス様は遠くから命令する方ではありません。いつも私たちの前を歩いてくださる方です。私たちが通る苦しみの道を、主はすでに歩まれました。だから、私たちが重荷を背負うとき、見るべきなのは自分の苦しみだけではなく、私たちの前を歩いておられるイエス様です。

また、イエス様は「私の軛を負いなさい」と言われます。軛は、一頭ではなく二頭で一緒に負うものです。つまり、私たちの重荷は一人で背負うものではありません。イエス様は「私があなたと一緒に担う」と言ってくださるのです。主は私たちの前におられ、同時に私たちの横にもおられます。

同じ十字架でも、そこに愛と意味が与えられるとき、それはただの重荷ではなくなります。神様のため、家族のため、誰かのために生きる道へと変えられていきます。重荷が消えなくても、主が共に担ってくださるなら、私たちは希望を失わず歩み続けることができます。

教会に来られる方も、今は来ることが難しい方も、イエス様の言葉を通して主とつながることができます。そして、また教会に来られる日には、ぜひ共に祈り、共に御言葉に耳を傾けましょう。私たちは一人ではありません。私たちの十字架を共に担ってくださる主を信頼しながら、今日も一歩ずつ歩んでいきましょう。

ガル神父

 


年間第12主日

マタイ10:26−33

皆さん、福音書の箇所は、互いに関連し合う二つのこと、すなわち「誠実さ」と「神への恐れ」について語っています。

第一に、誠実さについてです。イエスは、隠されているもので、明らかにされないものは何一つないと述べられました。すべてが明らかにされるのです。イエスはこれを別の表現でも示されました。すなわち、「暗闇の中で語られたことは、光の中で語りなさい。耳元でささやかれたことは、家の屋根やベランダから宣言しなさい」と。このようにして、イエスは私たちにありのままに生き、他者に対して心を開くよう教えておられます。正直な人は、たとえ中傷されたり迫害されたりしても、心は安らかです。それに対して、不正直な生活を送る人は、常に恐怖の中にいます。その人は、不正直さや嘘を、新たな嘘で覆い隠そうとします。自分の嘘がばれないかという恐怖から、その人の生活は安らぎを失ってしまいます。正直さは、人生をシンプルにしてくれるのです。まずは自分自身から、そして家族の中から始めましょう。それこそが、神の御心にかなうことです。

第二に、神を恐れること。イエスは、魂を滅ぼすことのできるのは神だけであるから、神を恐れるよう私たちに呼びかけています。この言葉は、私たちが神の御心に従って生きるよう促すものです。神は私たちの滅びを望んでおられません。むしろ、イエスは、私たちが雀よりも尊い存在であるとさえおっしゃっています。神は常に、私たちが救われることを望んでおられます。この目的のために、私たちもまた、生活の中で神の戒めに従うよう求められています。ですから、まず第一に、私たちは常に神のもとへ近づき、神の戒めを学ぶよう努めるべきです。現代において、「神を恐れる」という呼びかけは、多くの人々からあまり注目されていないようです。時には、人々が神の御前に出る時間を割くことよりも、自分の望みが叶わないことに対して、より大きな恐れや不安、あるいは不幸を感じているのを見かけることがあります。あるいは、友人や知人からの間違った要求や提案に直面した、正しく誠実に行動するという戒めを十分に守れていない人もいます。さあ、私たちの家庭から始め、神を恐れる心を再び育んでいきましょう。ささやかな一例として、私たちは生活における誠実さを養い、大切にするべきです。それぞれの家庭の中で、互いに誠実かつ率直に生きられる空間を築けることを願います。不誠実な生き方を恐れると同時に、誠実さを示すことを誇りに思いましょう。なぜなら、不誠実さは人を滅ぼす一方で、誠実さは人を救うからです。

ウィル神父


年間第11主日

マタイ9:36−10:8

身の回りの状況を見て、疲れを感じたことはありませんか。不公正、苦しみ、あるいは人生の道を見失っているように見える人々。今日の朗読では、イエスがそのような状況をどのように見ていたかが描かれています。羊飼いのいない羊のように疲れ果て、見捨てられた群衆を見たとき、イエズは深く憐れまれた。

「深く憐れまれた」という言葉は、原語では、人の心の奥底を揺さぶるような深い憐れみを指しています。イエスは単に憐れみを感じて通り過ぎただけではありません。イエスの憐れみは能動的であり、人を変える力を持っています。イエスは、「収穫は多いが、働き手は少ない」という現実を見抜いていたのです。

興味深いことに、弟子たちに父なる神に働き手を送ってくださるよう祈るよう求めた後、イエスはすぐに弟子たち自身を遣わされました。当初はただ見守り、祈るよう招かれていた彼らが、今や解決の一翼を担う者として召され、遣わされたのです。イエスは彼らに癒やしと悪霊を追い出す力を与え、次のようなメッセージと共に彼らを遣わしました。「行って、『天の御国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」

この箇所の最後にある一節が、私たちの奉仕全体の基礎となっています。「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

カトリック信徒として、私たちはイエスの憐れみを称賛することが多いですが、私たちが今この世においてイエスの御手の延長であることを忘れてしまいがちです。私たちの周りには、まだ多くの収穫があります。多くの人々が、愛の触れ合い、希望の言葉、あるいはただ話を聞いてもらうことさえを切望しています。私たちはよく、自分には能力がない、あるいは時間がないと理由をつけてしまいます。しかし、イエスは、私たちが持っているもの―命、信仰、才能、そして愛―は、すべて神からの無償の賜物であることを思い出させてくださいます。

神の畑で働く者になるということは、必ずしも牧師や修道者になることを意味するわけではありません。家族の中、職場、そして地域社会において、私たちは平和と癒やしをもたらす天の御国の臨在を現すよう召されています。見返りを求めずに愛し、報いを求めずに仕えるとき、私たちはまさに神の召しに応えているのです。奉仕するために、自分が完璧になるのを待つ必要はありません。イエスのように、憐れみに心を動かされることから始めましょう。

ウィル神父


キリストの聖体の主日

ヨハネ6:51−58

キリストの聖体の主日に、私たちは、イエスが御自身の教会に残された最大の愛の神秘、すなわち聖体秘跡について、改めて深く思いを巡らすよう招かれています。今日のヨハネによる福音書において、イエスはご自身の正体を断固として次のように宣言されました。「わたしは、天から下ってきた生けるパンである。このパンを食べる者は、永遠に生きる。」当時のユダヤ人にとって、この言葉は衝撃的で受け入れがたいものでした。しかし、私たち信者にとって、この御言葉は、神と人間との間に切れることのない愛の絆があることの保証なのです。

キリストの聖体の主日を祝い私たちがしばしば「コーパス・クリスティ」と呼ぶこの祝日は、単なる過去の出来事を記念するだけのものではありません。私たちが聖体拝領を受けるたびに、驚くべき霊的な奇跡が起こります。私たちは単にイエスを記念するだけでなく、イエスと「一体」となるのです。イエスご自身がこう言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしの中に住み、わたしもその人の中に住む。」そこには、親密で個人的な一致があるのです。

物質、権力、デジタル上の承認に至るまで、一時の野心を満たすためのあらゆるものを提供しているこの世の中で、人間の魂はしばしば、真の平安を渇望し続けています。私たちは、決して満腹にさせてくれない「この世のパン」で人生を埋め尽くすことに忙殺されています。この祝日を通して、イエスは、私たちの魂の渇きを癒やす唯一の存在は、御自身であることを思い出させてくださいます。聖体拝領は、困難に満ちた人生の巡礼の旅に立ち向かう力を与えてくれる旅の糧です。

しかし、キリストの御体と御血を受けることは、社会的責任も伴います。パンとぶどう酒の形でキリストと一つになった後、私たちは隣人のために「分かち合うパン」となるよう遣わされるのです。私たちは、貧しい人々、疎外された人々、苦しむ人々に対して、愛と配慮、そして犠牲を分かち合うよう招かれています。それゆえ、キリストの臨在は聖櫃の中や私たち自身の中にとどまるのではなく、やがて天国で永遠の宴を享受するその日まで、私たちの日々の善行を通して、はっきりと輝き出していくのです。

ウィル神父


三位一体主日

ヨハネ3:16−18

教会は三位一体主日を祝いますが、私たちは皆、全能であるだけでなく、愛に満ちた神について深く考えるよう招かれています。今日聞いた福音書では、主イエスがこう語られたと記されています。「神は、この世をこれほどまでに愛されたので、御独り子をお与えになった。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得るためである。」神の愛は、三位一体の関係の中に現れています。愛する父、救うために遣わされた御子、そして私たちの心の中で信仰を生き生きとさせ続ける聖霊です。三位一体の神は、遠く離れた神ではなく、私たちの日常の中に臨在し、近くにおられ、絶えず働いておられる神です。では、私たちは何を考えればよいのでしょうか。ここでは3つのことを提案します:

  1. 神は私たちを先に愛してくださった。私たちはしばしば、神に愛されるに値するためには、まず自分が完璧でなければならないと感じてしまいます。しかし、今日の福音書では、人間がまだ弱く罪深い状態にあっても、神の愛が先に訪れることが強調されています。神の愛は、私たちが善いから与えられる報酬ではなく、救いをもたらす恵みです。三位一体の祝日は、私たちの命が愛から生まれ、その愛へと立ち返るよう招かれていることを思い出させてくれます。そこで問いかけてみたいのは、「私には弱さや罪があるにもかかわらず、神は変わらず私を愛してくださると、本当に信じているでしょうか?」ということです。
  2. 信仰とは、単に神について知っていることではなく、神を信じることである。主イエスは、御自身を信じる者は永遠の命を得る、と語られた。信じるということは、神の教えを知るだけでなく、自分の人生を神に委ねることである。日々の生活において、私たちはしばしば、自分の力や恐れ、あるいは不安の方を信じてしまいがちである。三位一体の神は、信仰に満ちた心で神に寄りかかることを学ぶよう、私たちを招いておられます。そこで問いたいのは、「今の私の人生の苦闘の中で、私は本当に自分自身を神に委ねているのか、それともまだ自分の力だけで歩んでいるのか」ということです。
  3. 神の愛は、私たちの生活を通して現れなければなりません。三位一体の神の愛は、私たち自身にとどまるものではありません。私たちは、思いやり、赦し、忍耐、そして日々のささやかな気遣いを通して、隣人に対するその愛のしるしとなるよう招かれています。世界が必要としているのは、安易に裁き、傷つける人ではなく、愛に満ちた神の御顔を現す人々です。そこで問われるのは、「私の存在は、周囲の人々にとって、神の愛と慰めのしるしとなっているだろうか?」ということです。

三位一体の主日は、キリスト教徒の生活が神の愛に根ざしていることを、私たちにさらに自覚させてくれます。私たちは愛から生まれ、愛の中で生き、その愛を世界に分かち合うよう召されています。私たちが三位一体の神に心を開くとき、私たちの生活は徐々に、より平和に満ち、より謙虚に、そして隣人への思いやりが深まるものへと変えられていきます。

ウィル神父