11月号 敬老の主福についての一考察
福祉委員会 朝日文子
人生百年という言葉を聞いて、皆様、率直にどう感じていらっしゃいますか?喜ばしいことであると同時に、果たして自分は何歳まで元気でいられるだろうか?超高齢化社会になってしまって大変…と不安や心配を持たれていらっしゃるのではないでしょうか。世の中では75歳になると後期高齢者という括りに入れられ、否が応でも老年を意識せざるを得ないという現実もあります。年齢はただの数字という人もいますが、いつまでも若々しくありたいという強い願望に私たちは捉われているような気もいたします。老年をテーマにした映画やドラマや親の老いを目の当たりにし理解できているように思っても、実際にいざ自分がその年齢に達しようという時、複雑な思いに捉われるのだと想像します。その微妙な時期を越えると、達観の域に到達できるのでしょうか。
なぜこんなことを言いだすのかと不思議に思われることと思います。実は今年、敬老の祝福の対象年齢を75歳から80歳にしてはどうかというご意見をいただきました。福祉委員会が対象年齢を決めるのではありませんが、皆様がどう感じていらっしゃるのか、この場をお借りして一緒に考えていただけたら…と思ったのです。以前70歳だった年齢を75歳に引き上げた経緯は、平均寿命も健康寿命も延びて、70歳は老年ではない、まだまだ働ける、ご奉仕ができるという意識が主流となり、受け入れられたのではないかと考えます。ここで忘れてはならないのが、皆が皆、健康で年を重ねていけるのではありません。望んで病気になるわけではなく、口にしなくても様々な不調を抱えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。年齢はひとつの目安であり、定年のような意味はありません。家事に定年がないのと同じように思います。
松原教会には、七五三の祝福と成人の祝福もあります。この世において、未来ある子どもや青年と老年は違うと言えば違いますが、永遠の命を信じている私たちは、老いていく先に確かな希望があることを認識しているのではないでしょうか。このことに改めて気づかせていただいたのは、敬老の祝福のウィル神父様とガル神父様のメッセージです。敬老の祝福を受けられる方々のこれまでの人生の豊かな経験や存在そのものが、私たち様々な世代に安心感、未来への希望をもたらしてくれるのです。敬老の祝福は、いつものミサの中での祝福とは違う意味が込められており、神父様の按手を通して神様からいただく特別なお恵みなのです。しかも、ある年齢から何度かまたは何度も受けることができます。私事ですが、私の父は該当する年齢になった時には既に寝たきりの状態のため、一度も敬老の祝福を受けることができませんでした。その場合には病者の塗油という秘跡を受けることができますが、年齢を上げると、そういうケースは増えると思われます。敬老の祝福は秘跡ではなくても、大いに力づけられるのではないでしょうか。教会に普段からいらしている方だけではなく、いらしていない方の諸事情にもお心を向けていただき、その上で、75歳のままがよいのか、健康寿命を願って80歳がよいのか、間を取って喜寿の77歳がよいのか等、対象年齢を一緒に考えていただければ…と思います。年齢は定年ではありませんし、私たちはいつか未来に永遠の命をいただけることを常に心に抱いています。敬老の祝福を受ける喜びに順々に与れますように。
そして、ひとつお願いがあります。私たちは、家族全員または子どもが信徒である家庭ばかりではありません。これから益々単身世帯も増えます。どうか皆様、ともに歩むために、教会のどなたかと繋がりを持ってください。持ち続けてください。
最後に、該当される方にお届けしている一口羊羹は、毎年神父様に祝福していただいていることを申し添えます。
