4月号 一筋の光が、やがて…

福祉委員会  朝日 文子

私たちが日常よく耳にし口にする「恵まれている」という言葉から連想されるもの―才能、容姿、家庭(愛情や経済的なもの)、良き友人や支援者、チャンス、幸運など―と、聖書やミサの中で説かれる「恵み」のニュアンスの違いに気付かれているのではないでしょうか。

恵みについて考える時、先ず聖母マリアが浮かびます。神のご意志に従い、「そうなりますように」と受け入れる従順さ。我が子でありながら我が子ではないような神の御子の母として、どのような気持ちで過ごされたのだろう…と思わずにはいられない時があります。恵まれた方マリアは、神に選ばれたから「恵まれた」、神の母だから「恵まれた」のは言うまでもないのですが、福音宣教を続ける我が子イエスのことを心配し、絶えず祈っていたことでしょう。そのあまりに残酷な死を見届けなければならなかった深い嘆き。その後の復活の神秘。そこに至るまでの悲しみも苦しみも喜びも全て含めて「恵まれた」と表すことに、言葉では言い表し切れない奥深さを感ぜずにはいられません。

聖書の言葉に忠実ではありませんが「父よ、できることなら、この杯を私から取り除いてください。でもそれが御心に適うことならば、受け入れます」と、主イエスが神に孤独のうちに祈り、心を決める姿。辱めも暴力も全て含めて、その死を受け入れる姿。全てを父である神に委ねる、その従順さと強い信頼。私たちが困難に立ち向かう時に、自分の担っているものと主イエスが担ってくださったものとを俯瞰的に見ることで得られる力強い励まし。神が主イエスを私たちに与えてくださったこと自体が「お恵み」です。苛酷な死を通して、約束通りに勝利の復活の神秘を見せてくださったことが「お恵み」です。

恵みについて考える時、私たちが日々の生活の中で直面する困難、悩ましい問題、理不尽なこと―病気、人間関係、災害や事件・事故に遭遇してしまうこと、様々な不運、大切な人との別れなど―を経験することを「試練」と呼ぶなら、その悲しみや苦しみから完全に癒えることはないとしても、いつか一筋の光が見えてくることが、きっとあるのです。気付かされることがあるのです。経験したからこそ分かる思い、また同じ経験ではなくても、人の痛みを想像できる力を頂くことも「恵み」なのではと思います。なぜなら、その人は誰かのために、たとえわずかでも、無意識のうちに支えとなれる時があるからです。自分のような目に遭う人が二度と出ないように、このような目に遭うのは自分が最後であってほしい、と人は言います。究極のところまで追い込まれた人がこのような言葉を述べている姿に、心打たれます。『朝の祈り』の中の「最悪の時にも、感謝すべきものがあることを悟らせてください」の意味は、暗闇の中に光らしきものが見え、やがて一筋の光となり、その光の導きで何とかトンネルかどん底から抜け出られた安堵感、喜びと感謝が、今度は誰かの力になろうと自分を変えてくださる、につながると思うのです。人は誰しも、人生の中で悲しみや苦しみに遭わないことはまずないのですから。

恵みとは何なのでしょう。試練の時、それは耐える身にとっては果てしなく思われますが、信じて待つ。希望を持って待つ。ただ待つのではなく、祈る。何をどう祈っていいのか分からなくても、自分のためから始めたとしても、それが誰かのためにつながることを信じて、希望を持って祈る。それが愛なのではないでしょうか。反対に、愛があるから、希望を持って信じることができるとも言えるのではないでしょうか。

 今もし困難や失意の内にある方も、きっと雲が晴れて陽が差す時が来ることと思います。主のご復活の喜びを共に味わいながら、光が見えてくることをお祈りいたします。