クリスチャン神父のQ&A

 


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クリスチャン神父のQ&A 1ページ

Q1. 二つのたとえ話

Q. ルカ5:33-39*の意味を教えてください。

A. 5:33人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは 飲んだり食べたりしています。」34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」36そして、イエスはたとえを話された。「だれも新しい服から布切れを破り 取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。37また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。38新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。39また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

1. 予備知識

もうすでにご存知のとおり、四人の福音史家はイエスの伝記を書いたのではなく、それぞれの教会の信者の、イエスに対する信仰を深める目的で書いたのです。したがって、その福音書の間には、当然いろいろな違いが存在します。

たとえばマタイは、主にユダヤ教出身の信者のためにその福音を書いたので、イエスが旧約聖書に予言されたメシアであると強調します。

ルカは、ユダヤ教出身でない人、つまりギリシャ文化出身の人に宛てて書いているので、イエスが<すべての人>の救い主であることにアクセントを置いています。さらにそのすべての人の中には、特に、貧しい人、弱い人、罪人、女性と子ども等に関心が向けられています。なぜ女性と子どもが貧しい人と並べられて いるかといえば、当時の女性と子どもには、あまり社会的地位がなかったからです。

そういう意味合いで、ルカはイエスの教えが男だけのためではなく、女性のためでもあるという理由から、ときどき同じテーマを二つのたとえ話で説明します。一つは女のため、一つは男のために。

たまたま質問されたこの箇所は、まさにその例に当たります。ルカ13:18-21,15:4-10も同様です。イエスがとにかく女性に対して特別な配慮を示していらっしゃることは、ルカ福音書の一つの特徴です。

2. たとえの具体的な説明

「36だれも新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。」

当時の女性によく分かる例です。昔の布は、初めて洗うと必ず縮んだものです。古い布は洗っても縮みませんから、新しい布切れを付けられた古い服を洗うと、継ぎ当てた新しい布切れだけが縮んで、服は破れてしまうのです。

第二の例は男性のためです。
「37だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。38新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」

イエスの当時のユダヤ人は、自分の家の近くにぶどう園があって、そこで家族のために一年分のぶどう酒を作っていました。そして山羊の革を用意して(丸いまま継ぎ目のない袋にして)ぶどう酒の容れ物として使ったのです。新しいぶどう酒は、必ず新しい革袋に入れました。なぜなら、新しいぶどう酒はまだしばら く発酵を続けて嵩が増えるので、古い革袋では爆発するおそれがあるからです。新しい革袋ならまだ弾力性があって、その心配がありません。

3. 深い意味

33節で当時の人々は、ヨハネの弟子とイエスの弟子のやり方の違いを挙げて、イエスを非難します。 5:33人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは 飲んだり食べたりしています。」

イエスはこのような批判を度々受けられました。即ちイエスは、当時のユダヤ人がとても大切にしていた習慣、特に律法を軽んじているような印象を与えたのです。

ここでの具体的な食い違いは、断食と祈りについてです。分かり易く言えば、ヨハネの弟子とファリサイ派は苦行と禁欲を重んじ、長い祈りを唱えるようなこ ともたいへん好みました。それに対して、イエスご自身も(マタイ11:19)大食漢・大酒飲みと言われたほどです。まさかそこまではいかないでしょうが、 イエスは、神様からいただいたこの世の“良いもの”を、心から楽しんでいいと思われたようです。そして花婿(イエス)と一緒にいる間は喜ぶしかないわけで す。

イエスの模範に従って、キリスト教は、禁欲主義的でも苦行的宗教でもありません。もちろんキリストは、度々厳しさも示されます。すべてを捨てるようにと か、お金に執着しないとか、独身を勧めるとかありますが、その“捨てる”とは目的ではなく、あくまで手段にすぎません。そしてその“捨て”られるものは、 悪いものだから捨てられるのでなく、もっと大切なもののために犠牲にするのであります。

皆さんに分かり易い例として「独身」を取り上げます。マタイ19:12で、神の国のために独身を選ぶ人がいると、イエスがおっしゃいました。それは、結 婚生活が悪いとか独身生活が結婚生活に優るとかでなく、逆に結婚生活はとても尊いものなので、神の国の建設のために選ばれた人はそれを犠牲にするの であります。

断食も同じです。古い信者が覚えていらっしゃるように、昔は金曜日に肉を食べてはいけませんでした。これを、やはりキリスト教でも肉は食べない方がいい からだと思った人がいたかもしれませんが、逆に肉はすごく美味しいものなので、イエスの亡くなった金曜日には、それを犠牲にしたわけです。 このように、断食・長い祈りのような苦行があってもいいのですが、それは、より高い目的のための手段にすぎません。キリスト教では、苦行それ自体をいい ものであると思っているわけではないのです。

そういう意味で、35節を考えなければなりません。「花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」 場合によって、断食もいい ことになります。あくまでも“手段”として。教会はそういう意味においてだけ、断食や修道生活等々を勧めてきたわけです。

くどいようですが、もう一度繰り返します。神がすべてのものをお造りになったのですから、我々信者は、それを“良いもの”として評価し、楽しむことがで きるのです。ところが現実には、人間の罪の結果、“悪いこと”がこの世に入りました。その悪いことを改め、神がお望みになった世界を再び取り戻すために、 場合によっては良いものまでも犠牲にする必要があります。しかし、その犠牲・苦行は目的ではなく手段にすぎないことを忘れてはいけません。それが、ヨハネ の弟子やファリサイ派の見解と、イエスの見方の間の重大な違いです。つまりイエスの新しい考え方は、古いユダヤ人の考え方に合いません。ですから、新しい ぶどう酒は新しい革袋に入れるべきだと言うのです。古いぶどう酒に慣れた人は、なかなかその考え方を変えることは出来ないだろうと39節に書いてありま す。

Q2. ユダヤ人の迫害 (1)

Q. 次のことに関して解説をお願いいたします。聖書にあるイスラエル民族と現代のユダヤ人の関係

A. イスラエルとはヤコブの別名で、創世記32・29にあるように、ヤコブが神と闘ったので、そのときからイスラエルと呼ばれるようになりました。イスラエルとは「神と闘う」という意味です。
聖書によるとヤコブの12人の息子は、イスラエルの12部族の祖先です。その12部族を合わせて、イスラエル民族と名付けられました。ところが、ソロモ ン王の後にイスラエルは二つの国に別れ、北の方がイスラエルという名を、南の国はユダという名をもらいました。ヤコブの息子の一人であるユダの子孫が住ん でいたからです。

まず紀元前七百年ごろに、北王国イスラエルはアッシリア帝国によって滅亡し、国民の大部分は虜としてアッシリアの首都ニネベに連れて行かれまし た。(アッシリア捕囚) 百年後の紀元前六百年ごろ、ユダ王国もまたバビロニア帝国によって滅亡し、国民の大部分がバビロンに連れ去られたのです。(バビ ロン捕囚) 

七十年後に、このバビロンにいたユダ王国の民だけがエルサレムに戻り、神殿とその付近を再建することになりました。ユダの子孫が中心となったので、その ときから「ユダヤ人」の名称が生まれました。少しずつ戻った他部族の子孫も皆、まとめてユダヤ人と呼ばれ、その時代から、聖書の中で「イスラエル人」と 「ユダヤ人」は同じ人たちを指しています。
西暦70年に、イスラエル人は再びイスラエルの地から追われたのですが、主にヨーロッパに離散したイスラエル民族は、ユダヤ人とだけ呼ばれるようになりました。

ところで第二次大戦後、再びイスラエルという国が出来て、今そこに住んでいるすべての人は「イスラエリ」と呼ばれます。その中にはイスラム教徒、キリス ト教徒もいますが、ユダヤ教を信じるイスラエリだけは「ユダヤ人」と呼ばれています。結局、今日「ユダヤ人」と呼ばれている人は「ユダヤ教徒」です。二千 年の間世界中に離散、現地の人との結婚により、その外見は多種多様になっています。

Q3. ユダヤ人の迫害 (2)

Q. 何故、ユダヤ人は過去長年にわたり、世界中の人々から嫌われてきたのか。特に、キリスト教徒が嫌う理由が、聖書にうたわれている史実に基づいているのであれば、その内容。

A.  ご質問の中には日本も含まれているようですが、どうして日本人がユダヤ人を嫌っているかについて特別勉強したことがないので、ご満足のいく返事は出来ま せん。でも日本でも反ユダヤ的な本が出版されているところをみると、ユダヤ人の牛耳るアメリカ経済に、日本の経済が脅かされていると感じているためかもし れません。

しかし、確かにユダヤ人はキリスト教の始めから、その信者に嫌われてきた民族です。その理由は明らかです。確かに初代教会のときに、ユダヤ教もキリスト 教を迫害した記録があります。そのほか、イエス・キリストを十字架に架けた民族と思われていたからです。第二バチカン公会議で、そうではないという宣言が 出されましたが、それまで全世界のキリスト教徒は、ユダヤ教徒を嫌ってきました。

国々の政府も度々それに加わってきましたが、ユダヤ人は何らかの形で迫害され、ゲットー(ユダヤ人居住地)に住まわされ、場合によっては殺されたこともありました。その極めて残酷な例として、ヒトラーの手によるホロコースト(ユダヤ人虐殺)が挙げられます。

 

Q4. ユダヤ人の迫害 (3)

Q. イエス・キリストは「隣人を愛せよ」と教えているが、キリスト教徒が、聖書の史実をもとに、ユダヤ人を嫌悪、迫害することは、宗教的に許されることなのか。

A. ユダヤ教迫害は、イエス・キリストの愛の教えに逆行するものです。ですから、ヨハネパウロII世が最近なさったように、私たちに出来るのはお詫びすることだけです。そして、将来その過ちを絶対に繰り返さないよう約束することです。

おそらくご質問の中に、もう一つ深い疑問があると、何となく感じています。つまり何故キリスト信者は、イエスの愛の教えを度々無視するのでしょうか。

まず第一に私たち一人ひとり、自分の心の中を見つめる必要があると思います。隣人愛の大切さを頭で認めながらも、私たちの行動はどうでしょうか。どんな 共同体、グループ、たとえば教会も、そのメンバーから出来あがっています。そのメンバー、信者の心に悪がある限り、共同体も悪くなる危険から逃れられませ ん。

もう一つ付け加えたいことがあります。フランス革命まで、キリスト教は政治と深い関わりをもってきました。(政教一致) 実際の、イスラエル人に対する 迫害は、たいてい政治家によって行われたのですが、教会はそれを注意するどころか、協力したことも事実です。その問題をもっと詳しく知りたいとお考えでし たら、信濃町の真生会館での、私の教会史の講義を受けてはいかがでしょう。 

Q5. ペットにも葬式ができるか

Q. 日本では、動物も、人間と同じではないにしても霊魂を持っていると考えられているが、昔の公教要理や西洋哲学では、動物には霊魂がないと説いていると思う が、コヘレトの言葉3:21「人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」とあり、グリーンピースの活動とも考え合わせてどう考えたらよいか。また最近のペットの葬儀、墓など、キリスト教の立場はどうなのか。

A. ご質問の中に「霊魂」という言葉がありますが、日本語にはその他に「魂」とか「霊」という言葉もあります。お出しになった問題の解決にはまずその言葉の意味を考えなければなりません。

日本語の霊、霊魂、魂は、私には同じような意味に思われますが、微妙なニュアンスがあるのかもしれません。英語ではSOULとSPIRITに当たりま す。キリスト教では、動物にもSOUL(魂)はあると思われていますが、人間だけにSPIRIT(霊)があると信じられています。したがって私の意見とし ては、動物に霊魂があるという言い方はしない方がいいと思います。

そういう用語はともかくとして、キリスト教では、人間だけが神の似姿として造られたということです(創1・26)。他の被造物に比べて、人間には特別な 価値があります。もちろん人間は他の動物と同じような体を持っていますが、その魂には根本的、質的な違いがあります。人間だけに「知恵」と「自由意志」が 与えられました。この言い方に注意してください。知恵+自由意志です。
他の動物にも知恵があります。場合により、ある方面においては人間よりも賢いことさえあります。しかしその知恵の範囲は限られています。生き残るため、 もしくは子孫を残すためだけの知恵です。その「知恵」の他に、人間には「自由意志」があります。もし人間の特徴は何であるかときかれたら、知恵よりも自由 意志だと言った方がいいと思います。

自由意志とは、想像と創造ができる能力です。そこは神に似ています。常に新しいものを造る能力です。日本語の「自由」が示すとおり、自らすすんで選択す ることができるし、自分の行動について責任をとることもあります。ここで人間論を詳しく説明するつもりはありませんので、ここまでにしておきます。

ご質問の中にグリーンピースの話も出ましたが、その運動には行き過ぎの傾向があるのではないかと思います。彼らの中の一部によりますと、人間と動物の違いは程度の問題だけだという印象があります。我々信者は、質的な違いもあると主張してきました。

たとえばイルカは人間に近い知恵があるとよく言われるのですが、先ほど言ったような、人間に似た知恵と自由意志はまったく無いのです。イルカの声が優れているといっても、イルカがコーラスを作ったためしはないでしょう。

だからといって我々は、他の被造物、特に動物を勝手に自分の都合だけのために使っていいわけではありません。

同じく創世記第一章で、神様がすべてのものを造った後、良いものだと宣言されたのですから、私たちはすべてのもの、特に動物を尊重しなければなりませ ん。創世記には人間がすべての被造物を支配するように言われていますが(創1・26)、その支配は独裁者のようなものでなく、被造物の独特な価値、その権 利などを常に尊重しなければなりません。汚染、また、ある動物の種類を絶滅させるような支配は、すべてのものの主である神に対する罪なのです。また、食べ るために動物を殺すことは赦されますが、苦しめることは赦されません。キリスト様の、支配は奉仕であるという言葉を忘れてはいけません。いつも弱いものを 特に愛するようにおっしゃいましたが、その中に動物も入っていると思います。詩編104・29-30によると、神の霊はすべてのものにひそんでいるという ことです。これを「神の内在」といいます。詩編148に描写されている神の動物に対する愛を、私たちもまねなければなりません。

世の完成のときに、被造物もなんらかの意味で復活するはずです。ミサの第四奉献文にこう書いてあります。「その国(世の完成の後の神の国)で、罪と死の腐敗から解放された宇宙万物とともに、キリストによってあなたの栄光をたたえることができますように。」

その宇宙万物の中に動物も、そして特に愛されているペットも含まれるはずです。もちろん人間のような個的な存在としてではなく、別な形になるでしょう。その形のあり方について聖書は何も教えていませんが、それは愛する神に任せましょう。

今まで述べたことの意味合いから考えますと、ペットの葬式もできると思います。その式のときに、神様にそのペットとの長い付き合いを感謝するとともに、宇宙万物の一部としての復活を願うことができるでしょう。

しかし、お願いします。その葬式は教会にお願いするのでなく、ご自分でするように。人間の世話だけで神父は手いっぱいです。

Q6. 旧約と新約の関係

Q. 旧約では神は律法を課する(ないし契約の履行を迫る)方であり、かつユダヤ人だけを相手にされたのに対して、新約における神は愛と赦しの神であり、そのメッセージは全人類に宛てられている、と解釈され易いところがあります。しかし、どうもそんなに簡単なものではない、とも思われます。新約と旧約の関係をどのように理解すればよいのでしょうか。それとも、あまり安易な図式で理解しようとしないのが正しいのでしょうか。

A. (1)まず外国人としてたいへん恐縮ですが、日本語についてひと言いわせていただきます。日本語の歴史を遡りますと、まず「やまとことば」があり、 後に中国から漢語が入ってきました。(今はまた英語から、カタカナの言葉もたくさん入ってきます)やまとことばも漢字で書くようになり、漢語をそのままで も使っています。

私個人の印象かもしれませんが、やまとことばの意味は広いように感じます。たとえて言えば海の波のように、どこまでも広がっていく響きがあります。しかし 漢語、特に熟語の場合、なんとなく専門語的でその範囲が狭いかわりに非常にはっきりした意味をもつような気がします。たぶんそういう意味で、俳句や短 歌など文学的なものには、好んでやまとことばが使われる傾向にあるのではないでしょうか。聖書の翻訳にも、なるべくやまとことばを使う方がいいと、私は思 います。

こういったことが、今回の質問に何の関係があるかと思われるかもしれませんが、大いに関係があります。それは、この質問では「契約」という漢語の熟語が問題になるからです。

私は現在真生会館で、100週間で聖書を通読するグループを指導しているのですが、「契約」という言葉にひっかかる人が少なくありません。契約というと 冷たく、情の通わない印象を受けるそうです。私たちを愛してくださる神様と、その子どもの関係を表すのに、相応しい言葉だとは感じられないということで す。

そこで「契約」と訳された、元のヘブライ語に当って調べてみました。ヘブライ語の「ベリト」という語が使われているのですが、この言葉の語源は「つなが り」、つまり二つのものをつなぐという意味です。ちなみに英語では、契約をコベナント(covenant:comともに,venantくる)といいます。 これにもつながりの響きがあります。ドイツ語でもオランダ語でも、契約は「つながり」といいます。

残念ながら日本語の聖書では、ベリトは「契約」と翻訳されてしまいました。信者は別かもしれませんが、一般の人には法律に基づいた約束のように響きます。商売や、政治上の協定みたいに聞こえるようです。

ところで、ホセア、イザヤ、エゼキエルなどの預言者によると、神とイスラエルのつながりは夫婦の関係にたとえられています。その雰囲気は夫婦愛に通じ、決 して冷たい関係ではありません。ひょっとしたら「契り」という言葉がしっくりくるのでないかと思います。もちろん、聖書の用語を今さら変えるわけにいき ませんが、「契約」という言葉を、神と人間の愛の契り、つながりと考えてください。

(2)したがって、旧約聖書の神とイスラエルの関係と、新約時代の神と我々キリスト信者の関係との間には、それほど大きい隔たりは無いと言っていいの ではないかと思います。質問者がそういう隔たりを感じた理由は、やはり「契約」についての一種の誤解からくるもののような気がします。それを前置きに、ご 質問にお答えします。

まず、旧約はイスラエルとの契約であり、新約は全人類との契約ではないかということです。しかし旧約聖書を初めから読みますと、初めての契約はノアとの 契約です(創9・8-11)。つまり全人類との契約です。次に、アブラハムとの契約(創15)も全人類との契約です。創世記12・3にこう書いてありま す。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

シナイ山の上で、神とイスラエルの間に、初めて特別な契約が結ばれました。そのときイスラエル人は、神の選民となったのです。神はやがて全人類を救う計画 のため、その道具としてイスラエルを選びました。旧約聖書が教えるとおり、イスラエルは相応しい道具となるために、神から厳しい教育と、場合によって贔屓 とも見える優しい護りを受けたのです。

おっしゃるとおり、神はそういう意味でイスラエル人に厳しい律法を課する結果となりましたが、日本語の諺にいう「可愛い子に旅をさせる」ような厳しさでした。そういう意味で、私たちは誤解し勝ちです。旧約の神は厳しく、新約の神は優しいと。

もちろん神は一つで永遠に変わらない方ですが、時代により目的により、その時どきに違った態度とやり方をお選びになるのです。それについてとやかく言う権利は、我々にはありません。神ご自身が、その理由、やり方の是非をよくわきまえていらっしゃるはずです。

(3)旧約と新約の関係をもう少し説明しますと、簡単に言えば、旧約は我々キリスト信者にとって(もちろんユダヤ人には別の考えがあるでしょうが)お もに準備であると思います。先ほどのやまとことばを使いますと、「いづみ」「みなもと」みたいなものと言ったらいいでしょうか。

旧約の準備が無かったら、キリストの来臨は無かったはずです。そういう意味で旧約聖書をよく理解しないと、新約の意味も分かりません。いつか皆さんも、100週間の聖書の講座に参加されるように強くお勧めいたします。 

Q7. 聖書は何語で書かれたか

Q. 新約聖書がギリシャ語で書かれた理由。いつ頃ラテン語に変ったか。主のご昇天後、聖書が書かれるまで長い時間がかかった理由。
(1)ご質問の序に聖書全体の原語についてお話しします。

A.  原則として旧約聖書はヘブライ語で書かれたのですが、ヘブライ語はセム語族に属しており、インド・ヨーロッパ語(ラテン語、ギリシャ語、英語等)とは随 分違う言語です。日本語と英語ほどにも違います。セム語の一つの特徴として、動詞がたいてい三つの子音からなり、その子音の間にいろいろな母音を入れるこ とによって動詞の活用と変化を作ります。対して 日本語の動詞の変化は、膠着によって起ります。また、ヘブライ語の文章の順序も特別です。まず動詞、次に主語、その後に目的語などがきます。(例・造った  神が 世界を)

 

(2)どうして、もっと早く福音書を書かなかったのか。

 

 

(3)ラテン語の聖書

 

 

Q8. この世の悪

Q. せっかくこの世に生を受けながら、食べ物がないために母乳の出ない母の胸にしがみつき、遂には死んでしまう子どもたち、十代になったばかりというのにレイプされたあげく産まれた子どもをかかえている少女たち、国を追われ難民となってさまよう人もし自分がその立場に置かれたとしたら、それでも神を賛美し、感謝することができるでしょうか。自信がありません。どのように考えたらよいのでしょう。

A. 私たち信者だけではなく、すべての人にとって、悪は一番大きな問題だと言えます。もちろん問題でない悪もあります。たとえばある人が自由に悪いこと をす れば、その結果は当然であり、解決のできない問題ではありません。しかし、ご質問にあるような何の罪もない苦しんでいる子どもなど、説明できない悪も多く 存在し、我々信者にとってその問題の解決は難しいものです。なぜなら私たち信者は、全能の神がこの世のことをすべてお計らいになっていると信じているから です。

もちろん悪を完全に理解することはできませんが、それでもできるだけ説明した方がいいと思います。正しい知識をもっていれば、それだけでも悪と苦しみを耐え忍ぶ力になるでしょう。すごく大きな問題ですので、三つの記事に分けて取り上げたいと思います。

第一の記事は、一般の人が悪の原因とその解決などをどう考えているのかを取り上げます。特におとなになってから洗礼を受けた皆さんの心には、そういう考え方がどこかに潜んでいますので、いざ病気、死、苦しみなどに出遭うと、それが自然に表面に出てくるものです。

第二の記事は、キリスト教の考え方による悪の原因、特に神の全能と愛に反するように見える悪の存在の謎を、ある程度まで解きほぐすつもりです。

第三の記事は、我々の悪に対する具体的な態度、心構えを取り上げたいと思います。おそらく皆さん第三の記事を期待しているでしょうが、その前の二つの記 事を読むことによって、第三の記事も、よりよく理解できると思います。第一と第二の記事は抽象的かもしれませんが、がんばってよく読むようにお勧めいたし ます。

 

 

≪第一の記事≫ 

 

キリスト信者でない人にとって、この世の悪はどこからくるのでしょうか。たくさんの宗教家、哲学者、思想家が、昔から悪の原因について考えてきました。彼らの出した主な解決を、ここで紹介します。 
(1)まず、いわゆる原始宗教の解決です。(日本の神道もその中に含まれます)大昔からどの宗教の人も、病気や苦しみ、死があるのは、我々人間が自然の 力(神々、死霊、悪霊)などを怒らせたからだと思っていました。宗教学的にいえば、タブー(禁止法)を知らずに、または知りながら、犯した結果だと思って いました。この場合、悪からの救いは、そういう力をなだめ、その力の起源を前もって抑えるために、生贄、儀式、供え物、呪文などを行うことでした。今日の 日本人の中にも、そういう考えを持つ人は少なくありません。

(2)ヒンズー教によると、すべての悪や苦しみは、前世の結果です。いわゆる輪廻の考え方です。生まれる前に犯した罪を償って、今の人生で良い生活を送 れば、生まれ変わって次の人生は良くなると信じられています。逆に今の人生を悪く生きれば、今度はもっと悪い運命に遭うことになり、場合によって、動物に 生まれ変わることもあります。仏教を通して、わが国にもこの考えが入ってきました。特に文学、お能の劇やホームドラマにもたびたび出てきます。

(3)仏教 これは難しく、ここで説明はしませんが、たいていすべての苦しみは、煩悩の結果だと言っています。煩悩を抑えることによって悪から救われると思われています。言うまでもなくこの考え方は、日本人の間で今も根強いです。

(4)マルクス主義によると、この世のすべての悪は私有の結果だということです。私有をなくせば、すべての問題が解決されると言っています。

(5)次の解決は、宗教と直接の関係はありません。悪や苦しみは、親と祖先の罪の結果だと考えています。特にイスラエルの民には、そういう考え方が強 かったです。ヨハネ9章2節でキリストの弟子たちは、盲人について次の質問をします。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したから ですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

(6)ゾロアステル教・マニ教 どちらもペルシャの宗教ですが、それらの思想によると二つの神があります。善の神と悪の神です。善の神が勝つとすべてが 良く、悪の神が勝つといろいろ悪いことが起ります。ある学者によりますと、この考え方は中国の陰と陽の考え方と関係があります。そうだとすると、わが国に も影響があります。陰と陽のバランスが崩れると悪いことが起るという中国の考え方がわが国にも、特に病気の原因として、あるからです。

(7)多くの人は、悪は運命、宿命の結果と考えています。運が悪いのでひどい目に遭ったといいます。特に古代ギリシャ人は、すべての悪は運命の結果、ま たは神々の勝手な決定だと思っていました。わが国でも、また全世界でも、こういう考え方は多く残っています。劇や文学などには、たびたび運命と宿命が出て きます。

結論として
悪の原因について幾つかの考え方を紹介しましたが、中には一理あるものもあります。確かに仏教がいうように、悪は煩悩の結果であります。また、親の罪の 結果、子どもが苦しむ場合もあります。ただ、キリスト教は前世からくる悪を認めていません。キリスト教には原罪がありますが、それは個人の罪ではありませ ん。前世を認める場合、それは個人の罪に関係します。また、キリスト教は、宿命と運命を認めていません。

 

 

 

≪第二の記事≫ 
悪の原因についてのキリスト教的見解 
 
(1)無神論者による有名な2つの警句・神がすべての物を造り計らっているならば、この世のすべての悪は神のせいである。・悪の原因が神以外にあるなら ば、神は全能ではない。なぜなら神は悪に手が届かないからです。また、全能でない神はありえないので、神は存在しないことになります。

サマセット・モームというイギリスの作家の言葉ですが、神が愛であるならこの世の罪のない人の苦しみを許さないはずです。モームは小さいときにお母さんを亡くしましたので、この理屈で神の存在を否定しました。

質問者は先の2つの哲学的な説明によるよりも、おそらくモームのように自分の周りにある悪や苦しみを見て、一時的に神の存在を疑うこともあるかもしれませ ん。確かに我々キリスト信者は、悪の存在と神の完全な愛との間には、矛盾を感じます。正直にいえば、第一の記事に書いた悪の説明の方が分かり易いと思いま す。つまり、悪は運命とか罰とか、前世の結果であるという説明です。こういう場合には、悪に責任者はありません。私たちの場合には、その責任者は、私たち と同じように知恵と自由意思と感情のある神ではないかと思われます。つまり、聖書に書かれているきわめていつくしみ深い神は、どうしてこの世に行われてい るひどい悪を取り除くことができないのでしょうか。ひょっとしたら神は全能でないのではないかと思ってしまうわけです。

たしかに神の全能は問題です。私の国ベルギーで、最近子どもの宗教教育の担当者に、あまり簡単に神が全能であると言わない方がいいという注意がありまし た。子どもたちは、たやすく神の全能を魔法使い、あるいは操り人形師のように考えてしまうおそれがあります。神は何でもできるから、自分の周りに行われて いる悪を簡単に取り除くことができると思っていますので、そうしないと神の存在、在り方について、子どもの心に知らずに疑問が入り込んで、後にキリスト教 を全部捨てる危険性があります。

(2)では、神の全能とは何でしょうか。まず、たぶん皆さんをドギマギさせることを言わせていただきます。それは、神は3つの悪に対して何もできないということです。

A) 自然の在り方からくる悪、たとえば地震、洪水、台風など。その結果、場合によって人間は苦しむことになります。でも神は、ご自分が造った自然の在り方を変えるわけにはいきません。
余談になりますが地震がなければ地球には陸がなく、人間もいないはずです。
 

B) 人間と自然の有限性の結果としての悪。たとえば人間はいつか死ななければなりませんし、大自然の弱肉強食の中に存在しています。その結果、ウィルスや黴菌、獣などの犠牲になることもあります。やはり人間は神のように無限ではありません。その力には限度があります。

C) 次は人間自身の罪の結果である悪についてです。詳しくは説明しないつもりです。皆さん自身も加害者であり被害者であるから、よく分かっておられるでしょ う。ご質問にある、レイプされて子どもをかかえた少女たちもこの例です。我々にとってこの3番目の悪は一番痛く感じます。人間は共同体ですから、お互いの 悪の結果苦しむことがあります。キリスト教の大切な信仰箇条の原罪と深い関係があります。原罪を短く説明しますと、人類が神に背いた結果、初めからすべて の人の心に罪への傾きがあるということです。聖パウロのロマ書の7章14-25節を読んでください。とにかく人間は個人であるばかりでなく、悪の場合でも 善の場合でも、全人類という共同体の一員として、その共同体の悪の結果苦しむことが多くあります。

D) 以上の悪は、神の責任とするわけにはいきません。それらの悪は全部、自然または人間からくるものです。もちろん神は奇跡をもって悪を取り除くこともできるでしょうが、それはあくまでも例外で、より高い目的のためにだけ行われるのです。

(3)やはり神は全能ではないのでしょうか。我々がいつも信仰宣言で唱える最初の言葉は、全能の神である父を信じますということです。この言葉に気を付 けてください。全能+父です。先に述べた避けられない悪を、やがて我々人間にとって益になるよう父なる神は計らっておられます。これは神の摂理といえま す。やがて私たちは永遠の救いに至り、苦しみも涙もない新しい人生を神からいただきます。

これは信仰宣言の最後の言葉です――体の復活と永遠のいのちを信じます。今我々を悩ましているすべての悪、そして私たち自身で犯した罪の結果である悪を、 神はやがて全体の創造に役立つように働いておられます。たとえて言いますと、神はあたかもものすごく大きくりっぱな壁掛けを織っておられると考えればいい のです。その絵の中の影は悪です。その影のおかげで、まわりの絵がよりきれいに見えるのです。神がその悪を行ったのではないが、結局その悪を使って役立た せていらっしゃいます。

(4)もうひとつ問題があります。神は全能なのですから、悪と苦しみのない世界を造れなかったのでしょうか。もちろん神ご自身がその返事をご存知です。 あくまでも私個人の意見ですが、やはり今の世界が一番いい世界ではないかと思います。先ほどとりあげた人間の罪の結果である悪は、人間の自由意思の結果だ と言わねばなりません。人間は本質的に自由意思をもつ存在です。自由意思がなければ、私たちはロボット、あるいは操り人形にすぎません。また現代的にいえ ば、始めから終りまでプログラムされたコンピューターにすぎません。操り人形師のごとく、神が私たちの人生を始めから終りまで指導するなら、何の罪も過ち も苦しみもないでしょう(動物の本能みたいです)。

しかし、そのような人生は私たちのものではなく、神ご自身だけのものになります。神は我々が自分の人生を自分で築き上げるために、私たちに自由意思をお与 えになりました。神はそれほど私たちを愛しておられたのです。神はやはり独裁者ではなかったのです。もちろん神は前もって、場合によって人間が悪を選ぶこ とができることをよくご存知でした。しかし(3)で説明したように、神は私たちの悪までも役立たせてくださいます。

もう少し自由意思の説明が必要でしょう。自由はたびたびわがままと混同されます。自由とはまず、(a)FREE FROM…つまりいろいろな束縛・障害から(FROM)解放されている状態です。多くの人はこれだけを自由と考えています。しかし同時に自由 は、(b)FREE FORでもあります。いろいろな束縛から解放されて、神から与えられた使命を自ら進んで果たすため(FOR)です。その使命はもちろん自分自身の幸せ、自 己発展などですが、同時に他の人の幸せと発展を促進する義務もあります。やはり自由には責任が伴います。私たちがこの自由意思を正しく使うなら、この世か ら大部分の悪は消えてしまうでしょう。

(5)第一と第二の記事で、だいぶ難しかったかもしれませんが、なぜ悪があるかという問題をとりあげてきました。第三の記事は、どういうふうにして自分 に与えられた苦しみに立ち向かうことができるか、または自分の周りにある悪をどう見ればいいかというということを記したいと思います。たぶん皆さんは、そ ちらの方に興味があるでしょうが、やはり悪の原因を少しでも理解すれば、その悪を忍ぶ手段にもなります。

 

 ≪第三の記事≫
 

(A)第一と第二の記事で、悪の原因とその理由をある程度まで分かっていただいたと思います。でも悪と苦しみは、いつまでも完全に分かることはない問題 だということを忘れてはいけません。しかし、私たちが出遭っている苦しみの原因がある程度まで分かれば、それだけそれに対する私たちの怒り、抵抗、不満な どが少なくなるでしょう。

特に人間の罪の結果である苦しみ、または自然の在り方の結果である苦しみに対して、キリスト信者としても一種の<あきらめ>ができるでしょ う。聖なるあきらめと言った方がいいかもしれません。このあきらめは、旧約聖書のヨブ記によく表現されています。(もう一度読むことをお勧めいたします) ヨブ記を書いた人は、当時の旧約時代の人と同じように、この世のすべての出来事、良いものも悪いものも、その原因は神ご自身であると思っていました。しか し、この世の中で罪のない人も苦しまなければならないと気付いたヨブは、神の正しさを問うようになりました。その上当時のイスラエル人は、天国も地獄の存 在も知らなかったので、あの世に報いがあるとは分りませんでした。でもヨブは苦しみの意味と原因が分らなくても、すべてを神にゆだねますと告白します。

同じようにイエス・キリストご自身も十字架の上から「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と叫んで、ご自分の 苦しみに対して疑問をもっておられたようです。しかし、しばらくして「わたしの霊を御手にゆだねます」と言われました。(ルカ23章46節)

第一の記事では、キリスト信者でない人の中で、ある人が悪と苦しみは宿命あるいは運命の結果だと思っていると書きました。
正直に言えば、私たちも同じような気がすることが度々あります。しかし、その運命の裏に、私たちを愛しておられる神がいらっしゃると信じています。その 信仰は、先ほど言った聖なるあきらめです。神はこの世の苦しみと悪の意味をよくご存知ですから、すべての苦しみを神にゆだねましょう。

(B)第二の記事では、事実上大部分の悪に神の手が届かないと言いました。しかし、それを誤解してはいけません。結局今でも、神は宇宙のすべてのことを 指導しておられると、我々は信じています。ただ、その働きかけがよく分からないだけです。神は聖書によると、人類の歴史と我々個人の人生に、常に働きかけ ておられます。歴史と個人を放っておかずに、愛するお父さんお母さんのように、その子どもである私たちの成長を見守っておられます。やがてすべてが良い目 的に達するように指導しておられます。

旧約聖書と新約聖書を読むと、神はまずその選民であるイスラエル、後に新しい選民である全人類の歴史に、働きかけておられることが分かります。その一番大 切な働きかけは、その御ひとり子をこの世に送って人類と運命をともになさるということです。それ以来、神ご自身が特別に私たちとともにおられるようになり ました。イエスの別名は”インマヌエル”我々とともにおられる神という意味です。その上、御ひとり子イエスは、私たちのためにいろいろな苦しみを受けて、 最後に十字架の上で非常に残酷な死に方をなさいました。どんなに苦しんでも、イエス・キリストが我々と一緒に苦しんでおられます。人に捨てられても、特に 苦しんでいるときに私たちのそばにおられます。

(C)イエス・キリストは、私たちの癒し主・・
福音をよく読めば、イエスは弱い人、罪人を、特に愛しておられたと分かります。そしてそういう人たちを助けるために、たくさんの奇跡を行いました。第二 の記事では奇跡はより高い目的のためにだけ行われると言いましたが、奇跡が行われるかどうかは、私たちが決めることではありません。イエスは奇跡の条件と して信仰だけにしました。

したがって、(A)で言った聖なるあきらめの他、神の愛を信じて、奇跡も願うべきだと思います。自分自身、または周りの人がひどい目に遭うとき、私たちの 第一の義務は奇跡を願うことです。どうせ駄目だろうと思うことこそ、不信仰のしるしです。イエスご自身も死ぬ前の夜、神に奇跡を願って「この杯(十字架の 苦しみ)をわたしから取りのけてください」と祈っておられました。(ルカ22章42節)でもすぐ後に「わたしの願いではなく、御心のままに行ってくださ い」と付け加えられたのです。

マタイ7章7-11節で、イエスは私たちに御父になんでも願いなさいとおっしゃっています。お父さんが子どもの願いをかなえるように、神は常に私たちに良いものを与えてくださるとおっしゃっています。

ところがルカも、11章9-13節で同じイエスのことばを伝えていますが、良いものを与えてくださるという代りに、聖霊を与えてくださると言い直してい ます。おそらくルカは、自分の教会の信者に文句を言われたことでしょう。いくらお願いしても、願いをかなえてくださらないことが多いのではないかと。その ためルカは聖霊ということばに変えたのでしょうと容易に想像できます。
 やはり聖霊は最高の賜物です。それをもう少し具体的に説明するために、ルルドの例をあげます。毎年、何十万人もルルドに行って奇跡を願います。しかし、 実際奇跡が行われる時はわずかです。でもルルドに行って帰った人の話を聞けば、みんな大きな恵みをいただいたと言います。それがルカの言う聖霊です。つま り神の愛のプレゼントです。どんなことがあっても神は私たちを愛されていると、彼らには分かったのです。

(A)で言った聖なるあきらめの他に、積極的に神に癒しを願いましょう。私の国のことば、オランダ語のことばを借りると、祈りで天を攻撃しよう・・・ この場合、他の人に祈りを求めることもたいへん良いことです。イエスは人の信仰を見て中風の人を治しました。(マタイ9章2節)私たち自身の信仰は足りな いかもしれません。

最近は、癒しの典礼が行われるようになりました。病者の秘跡だけでなく、司祭、信者に癒しの式を行うように頼んでいいと思います。しかし、新興宗教のようにへんなやり方にならないように、教会の監督は必要です。

(D)私たちも癒し主でなければなりません
神だけに癒しと赦しをしてもらうわけにはいきません。自分の罪の結果の苦しみはいうまでもなく、他の人の苦しみ、不幸などを和らげ、その原因を取り除くことこそ、キリスト者の愛の表現です。

イエスの模範に従って、教会とその信徒はいろいろな方法、たとえば施設(病院、孤児院など)で病んでいる人、苦しんでいる人を差別なく助けてきました。 しかし最近は、国や町などがその施設を受け持つようになったので、我々信者の癒しの奉仕は、ボランティアのかたちに少しずつ変わってきました。皆さんも一 つだけでいいですから、ボランティア活動に参加した方が良いかもしれません。そういう意味で、私自身も府中刑務所の外人の受刑者の篤志面接員を務めていま す。

ところで最近、我々信者だけでなく、すべての人に新しい癒しの奉仕が出てきました。それは、大自然への癒しの奉仕です。特に科学の進歩の結果、大自然は 著しい害を加えられました。また大自然の汚染の結果、いろいろな事故などがおこってきました。ひょっとしたら、我々が疑問としているそれぞれいろいろな苦 しみの原因が、そこにあるかもしれません。たとえば最近、癌が増えたということも、汚染の結果だといわれています。

私たち信者は、特に汚染の解決に力を入れましょう。

(E)悪に対する神の勝利
今まで取り上げた、悪や苦しみからの救いという問題は、この世に限りました。しかし、私たち信者はこの世がすべてではないと堅く信じています。いずれの ときにか、神はすべてを完成なさいます。ミサの第三奉献文に書いてあるように「そのとき、あなたは、私の目から涙をぬぐいさってくださる」。または黙示録 の終り(黙21章4節)に書いてあるように「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。ロマ書の8章18節 に次のように言っています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

(F)有益なる試練
今まで、苦しみや悪から私たちを救ってくださいという願いが中心でしたが、悪と苦しみは、私たち信者にとって、有益なる試練、訓練でもあります。私自身のことばより、聖パウロのローマの信徒への手紙5章1-6節を引用します。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、 今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているので す、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛 がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心なもののために死んでくださった。」

日本語でも、楽は苦の種、苦は楽の種といいます。試練訓練によって人は強くなり、試練は、悪いことでありながら良いことをもたらす場合もあります。良い苦しみといえます。その反面、苦しみは人に大きな害を加えることもありますし、絶望に追い込むこともあります。

(G)我々の苦しみには、また、とても深い神秘的な意味もあります。
聖パウロのコロサイの信徒への手紙1章24節に「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの 苦しみの<欠けた>ところを身をもって満たしています」とあります。もちろんイエス・キリストの十字架の苦しみ自体には欠けたところがないで しょうが、キリストの神秘体である教会は、世の完成まで、まだまだ苦しみを受けなければなりません。

そういう意味で、今でもキリストは苦しんで死に続けているといえます。誰かが苦しむとキリストは、彼、彼女とともに苦しんでおられます。私たちも聖パウロ と同じように、私たち自身の苦しみをキリストの苦しみと併せて、いけにえとして御父に捧げることができます。皆さんも是非それを実行してください。そうす れば、たびたび無意味と感じられる苦しみも、高い次元まで高められて意義深いものとなります。

結論‥‥皆さんはこれらの3つの記事を読んで、決して苦しみの意味を完全に分かったと思ってはいけません。しかしその中のいくつかのことばが、苦しんでいるときに役立つかもしれません。それだけで満足です。

 

Q9. 悪魔について

Q. 悪魔のことがよく分かりません。もう少し説明してください。

A. 

[1] 悪魔の姿

(A) 日本の場合、だいたい悪魔は「鬼」の姿で出てきますが、それに対してキリスト教世界での悪魔の姿は、人間みたいな格好をし、黒いスーツを着て目 が赤く、頭に角があって長いしっぽがあります。皆さんも、絵や映画などで見たことがあると思います。特にゲーテの『ファウスト』という劇に出てくる悪魔 は、その典型といえましょう。日本語のことわざの「噂をすれば影」と同じような意味で、西洋には「悪魔の噂をすれば、そのしっぽが見える」という表現があ りますが、そこにもしっぽのある悪魔の姿が出てきます。

先ほどキリスト教の世界と言いましたが、正確に言うとそれは聖書の世界ではありません。その悪魔のイメージは、西洋の民族信仰によるものであります。

(B) 聖書では、悪魔の二つの具体的な形があげられています。それは蛇(創3・1)と竜(黙12・3)です。聖書の世界では、竜が東洋と違って悪い獣としてとらえられています。おそらく竜は蛇の変わった形と思われたのでしょう。

(C) イエスはたびたび奇跡を行い、人から悪霊を追い出しています(例えばルカ4・31-37)。こういう場合の悪霊は、悪魔というよりも悪い霊とと らえた方がいいと思います。悪霊が悪魔と同じであるケースもありますが、科学的知識のない時代には、精神的な病も悪霊の仕業と考えられていました。

細菌やウィルスなど医学的知識の乏しい昔の人たちは、病気の原因には超自然的な力が働いていると思っていました。イエスご自身も当時の人間として、同じ 考え方をしていたようです。専門家によるとイエスが追い出した「悪霊」の中には、今日の精神の病と同じではないかと思われるものがあります。もちろん、本 物の悪魔を追い出したこともあります(マルコ1・21-28)。

 

[2] 悪魔とは

旧約聖書と新約聖書には、悪魔について理論的に説明している箇所はありません。

聖パウロだけは、たびたび悪魔の活躍に言及します。エフェソ6章12節にこう書いてあります。「わたしたちの戦い(この世における悪との戦い)は、血肉 (人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天(空中)にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」。聖パウロは、我々人間を常に 脅かしている、いろいろな悪の力が存在していると教えています。その悪魔を、ギリシャ語でいつも複数形を使って指し示します。例えば「支配者たち」や「権 威者たち」と。

後世の教会は悪魔についての教えをさらに深め、悪魔たちはもと天使たちであったが、神に背いた結果、悪魔に変わったと教えています。ここで注意しなければならないことは、教会のいう悪魔は、ゾロアスター教と違って(「この世の悪《第一の記事》」参照)一種の悪い神ではなく、あくまでも神の支配下にいるものです。

 

[3] 悪魔の分類

新約聖書では、主に6つの悪魔の分類をあげています。次のとおりです。

  (1) マンモン
  (2) ベルゼブル
  (3) うその父
  (4) サタン
  (5) ディアボロス
  (6) タナトス

この後、6つの悪魔を説明しながら、私たちに及ぼす影響をとりあげていくつもりです。
この説明は、主にフランスの神学者ジャーク・エルールの教えによるものです。この6つというのは悪魔の数をいうのではなく、悪魔の分類です。この6種の 悪魔は我々の世界に活動している悪の力、悪の化身、悪の固まりです。我々個人も悪いのですが、人間の世界には個人を超えた悪があることを、私たちはよく経 験しています。

もう一回繰り返しますが、我々の中にも悪いところはありますし、いわゆる悪人もいますが、その他に悪魔もこの世に働いていると言わざるを得ないと思いま す。つまり、一人一人はそんなに悪くなくても、国家、社会、××団体、△△宗教などが徹底的に悪くなった事例はかなり多いわけです。例えばヒトラーのナチ ズム、スターリン時代の共産主義等々。また場合によって、個人が悪魔のようになってしまうこともあります。お金のために人を殺すなどです。こういうこと は、悪魔の働きと言うしかありません。

6つの悪魔を説明します。

(1)マンモン(富)

「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6・24)。
富というと、もちろんお金です。マンモンは、お金の化身です。もちろんお金それ自体は悪いものではなく、現代社会で欠かすことはできません。しかし、お 金はあくまでも手段で、人間に奉仕するはずのものです。ところが度々そのお金が人間を支配して、逆に人間がお金に仕えてしまうことが起ります。こうしてお 金が、マンモンという偶像に変わって悪魔的な力になります。お金のために人を殺し、傷つけ、辱め、神のことも忘れてしまうことがあります。今日の資本主義 にも、悪魔的要素は多分にあるといえます。行き過ぎた資本主義の結果、貧しい人が恐ろしいほど増えてきました。

マンモンこそ現代の支配者と言ってもよいと思います。ここで一番最初に、マンモンという悪魔をとりあげたのは、そういう理由です。
マンモンという悪魔に負けないためには、私たちはなるべくケチであることを避け、気前よくなり、貧しい人を助け、お金の使い過ぎを避けるべきです。あま りにも金持ちになる人は、マンモンにも負けがちです。そういう意味で、イエス様の金持ちに対する警戒を理解しなければなりません。(ルカ16・ 13,19-23、12・13-21)

(2)ベルゼブル(支配者)

ヘブライ語で、ベルは主、ゼブルは家を意味します(ルカ11・14-22)。そこから、この世の支配者という意味になったのです。この悪魔は、支配、権 威、支配者の化身です。もちろん、本当のこの世の支配者は神でありますが、この悪魔は、神の支配を自分のものとしようとするのです(ルカ4・6)。この世 の秩序のために、権威が、手段として必要です。パウロはロマ書の13章1-7節で、すべての権威は神からくると言っています。

しかしマンモンと同じように、手段にすぎないはずの権威が、目的にすりかわってしまうことがあります。権力という悪魔を崇拝して、人間はお互いにその権力 を濫用し、人々を圧迫し、自分の利益のために他人を支配するようたくらみます。この悪魔こそ政治家にとって一番危険な存在ですが、私たち一人ひとりも、い やなボスになることによって、周りの人に迷惑をかけることがあります。ここで、イエス様のことばを思い出しましょう。わたしは「仕えられるためではなく仕 えるために」来た。(マタイ20・20-28)

(3)偽りの父(偽者、偽)

ヨハネ8章42-47節には、神は真理であり、すべての真理は神から出ると記されています。悪魔は偽りであり、すべての嘘は悪魔から出る。また『真理はあなたたちを自由にする』(ヨハネ8・32)とイエスは言っておられます。

しかし、真理はしばしばイデオロギー、××主義となってしまいます。主義とは、真理の一部を選んでそれを最高の価値とし、すべての人がその価値に仕えるよ うになることです。最近の例をあげると、ナチズム、共産主義、国家主義です。例えば戦前には、国家を最高の価値として、人々はそれを拝むようになりまし た。こういう主義は、偽りの父である悪魔の仕業であります。

私たち個人にも、偽りの生活を送る危険性があります。ここでは、小さな毎日の嘘の意味ではなく、周りの人に自分自身そのものを偽りにする危険です。自分でないものを被って、周りの人をだましてしまうことです。こういうことを、偽りを生きるといいます。

偽りの父である悪魔の罠にかからないように、正直に謙遜に気取ることなく、自分の本物の姿を人に表わすように努力しましょう。

(4)サタン(批難者)

サタンというのは、すべての悪魔を表わす共通の言い方です。しかしここでサタンというとき、ヨブ記に出てくるサタンを意味します。ヨブ記の1章6節、この悪魔の役目は、人間が悪いことをしたと訴えることです。人を批難するという役割です。

すべての人にとって評判(面子)はとても大切です。評判が悪くなると、人との関係がくるってしまいます。私たちは、お互いの評判を尊重しなければなりま せんし、人の良いところをほめることは愛の大切な表現です。しかし場合によって我々は、人の評判を好んで傷つけることがあります。そうして、その人を壊し てしまうことがあります。そういう癖があるのは、たいてい自分の中に問題があって、他人に当たってしまう人です。場合によってその癖は、衝動脅迫的になっ て悪魔的になるのです。そういう時その人は、批難者であるサタンに取り付かれているといえます。今日のマスメディアも、特定の個人を中傷することがありま す。

そういうサタンの悪魔に取り付かれないように、好んで人の良いところに目を付けてそれを評価し、それを他の人に伝えるよう努力しましょう。

(5)ディアボロス(分離者)

ディアボロスというと、西洋のことばの悪魔(デビル Devil)の語源です。ギリシャ語ではディア「分離させる」、ボロス「投げる」という意味です。そこから、このディアボロスは、人を分離してお互いに切 り離すという役割をします(マタイ4・5-11)。つまり分離することによって人を壊すのです。本来人間と人間との間には違いがありますが、それはとても いいことです。お互いもっているものを補い合って完全な社会を作るのです。しかし、その違いを誇って他の人を軽蔑することもありますし、嫉妬することもあ ります。同様のことは、個人の間だけでなく民族間にも起ります。自分たちの優越を強調して、他の民族を蔑む場合があります。他の民族を差別し、悪魔的な行 動にもなります。こういう差別の結果、たくさんの個人または民族が、ディアボロスによって切り離されて、ひどい扱いを受けることになります。

こういう悪魔に負けないために、私たちは常に自分に与えられた特徴(違い)が、自分のためではなく、人類全体を築くためのものであると考えましょう。

(6)タナトス(死)

聖書の中では、死も悪魔です(キリスト教世界では、この悪魔は、骸骨の姿で暗いマントをまとって手に大鎌を持った死神です)。こういうと、読者の皆さん の中には反論する方があるかもしれません。死は自然現象ではありませんかと。でも聖書では、"生きる"と"死ぬ"という言葉は、自然の生と死を指していま せん。

簡単な例をあげますと、創世記の1章で善悪の実を食べれば死ぬと言われたアダムとエヴァですが、創世記3章でその実を食べても、結局死にませんでした。た だ、永遠のいのち、即ちまことのいのち、神のいのちをなくしただけです。俗っぽくいえば、完全に幸せないのち、完全に満足できるいのちをなくしただけで す。

原罪の結果、そういういのちをなくしましたが、イエス・キリストの救いの業の結果、人間はそれを取り戻すことができるようになりました。私たちはこの世 にいる間、洗礼によってその初穂をもらい、死後初めてそのいのちの完成をいただきます。人がその完成を受けることがないように、タナトスという悪魔がたく らんでいます。黙示録20章6節でいわれているように、私たちが第二の死(自然死は第一の死で、地獄は第二の死です)に到るように、タナトスは一所懸命で す。

もう一つタナトスの仕業があります。今日死の悪魔が一番成功している仕業は、現代の人に、永遠のいのちなど無いと納得させたことだと思います。多くの現代人が、この世のいのちがすべてだと思うようになったのです。

もう一つの死の悪魔の仕業は、いのちそのものにはあまり意味がないという雰囲気を、今の時代に蔓延させていることです。人のいのちを簡単に奪い取ってよ いのだという雰囲気です。今日では映画や小説だけでなく、実際の人間のいのちを粗末に考えるようになったのです。意味のない殺人、暴力、堕胎、虐待等々…

ヨハネ・パウロ二世が言われたように、現代は「死の文化」の時代です。我々自身も、ある程度まで悪魔の死の誘惑に負けてしまう危険があるのです。最近 は、信者の中でも永遠のいのちの信仰は薄らいできたといえます。誰かが亡くなると、葬儀のときに亡くなった人を過去の人のようにだけ扱い、残した業績にア クセントをおいて、その人の永遠のいのちを口にしないのが現状です。ここでも死の悪魔は、成功を収めています。

我々信者は、この死の悪魔の誘惑を退けて、この世において神の恵みをいただくだけでなく、いつか永遠のいのちをいただくという信仰を固めましょう。ま た、ヨハネ・パウロ二世が繰り返し言われるように、私たちは「いのち」(人の"いのち"、動物の"いのち"、大自然の"いのち")を大切にしなければなり ません。黙示録21章4節には、世の完成の時に死という悪魔もなくなるという、慰め多いことばが書かれています。

 

[4] 疑問と結論

おそらく皆さんがうすうす感じてきたであろう疑問は、どうして神は悪をお許しになるのかということだろうと思います。それについては「この世の悪・第二 の記事」を思い起こしてください。キリスト教の悪についての見解は「神はこの世から悪を取り除くわけではない」という考えです。悪魔は神のようなものでは なく、悪の化身、人間の悪の固まりにすぎません。また、悪魔の力は一時的なもので、世の完成の時にその力は破壊されます(黙20・10)。

 結論として、私たちは悪魔の誘惑にさらされていますが、同時に聖霊の力ももらっています。主イエスの模範に従って生きるならば、悪魔は私たちに対して何 もできません。もちろん私たちは弱い人間ですので、悪魔に負けてしまうこともあります。その6種類の悪魔のどの1種にも取り付かれないように、聖霊の力を 願い、努力しましょう。

特に、次の聖書のことばを堅く信じましょう。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一コリ10・13)

 

Q10. 人間としてのイエス

Q. 前号の悪魔についての記事中、イエスが追い出した悪霊の中には、精神の病であるものも含まれるとありました。イエスは神の子なのに、どうしてそれが病気であると分からなかったのですか。

A. ご質問に答える前に、ちょっとだけキリスト論についてお話ししたいと思います。
キリスト教の最初の三世紀の間、一番教会を騒がせた問題は、キリストの意味でした。幾つかの異端がありましたが、主なものは次の二つです。
(1)ドケティズム:(語源はギリシャ語のドケインという動詞で「見える」という意味です)すなわち、イエスは人間に見えたが、本当は神そのものでした。もっと簡単にいえば、イエスは外見は人間であっても、本当は人間ではありませんでした。
(2)アリアニズム:エジプトのアレクサンドリア教会の司祭であったアリウスによると、イエス・キリストはただの人間であって、神から送られた預言者にすぎません。

* これに対して当時の教会は、ニケア・コンスタンチノープルの両会議(325年)で「正統なキリスト教」を決めました。すなわち、主イエス・キリストは、よ ろず世のさきに御父から生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神…また、われらの救いのために天よりくだり、聖霊によって、おとめマ リアから御からだを受け、人となりました。(ニケア・コンスタンチノープル信条)

ご質問に答える前に、私はこの信仰箇条を固く信じていますと前置きするものです。

前号の記事で、イエスは病気、特に精神病は悪霊つきの結果であると、当時の人と同じように思っておられたということを書きました。そうだとすると、イエ スは神であるにもかかわらず、今日のわれわれの立場からみれば間違ったことを考えておられたのではないか、というご質問だと思います。なんでもご存知であ る神であれば、そういう間違いをするはずがないと。結局問題は、イエス様の人間としてのあり方にあります。

まず、幾つかの聖書箇所を参照してください。
 フィリピの信徒への手紙 2・7~8
 ヨハネの手紙一 1・1
 ヨハネ 1・14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

そして、ミサの第四奉献文にこうあります。「時が満ちて、あなたは御ひとり子をわたしたちに、救い主としておつかわしになりました・・・罪を除いては私 たちと同じように人間になりました」と書いてあります。人間であるとすれば、具体的には当時の人間、当時のイスラエル人であったはずです。ですからイエス は当時の人間として、当時の文化・文明の面で、他の人とまったく同じでした。たとえば医学、科学、哲学などの面では、他の人と同じ考え方をもっていまし た。もちろんこの世に送られた使命を果たすために、その使命(神の国の到来)について、当時の人よりもすぐれた考え方、知識をもっておられました。しか し、先に言ったように、その他の知識(たとえば病気の原因など)については、当時の人とまったく変わるところはなかったのです。 以上を以って、あなたの疑問が解かれたでしょうか。

 

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