6月号 人の心を湖にたとえるとしたら
福祉委員会 朝日 文子
中学生の頃だったと思います。私は、人としてどういう態度を取る人が良いのか、母にこんなことを尋ねたことがあります ― 「この中でどれが一番いいと思う?」。
a 自分に厳しく人にも厳しい
b 自分に厳しく人には優しい
c 自分に甘く(優しく)人には厳しい
d 自分にも人にも甘い(優しい)
私がcを指して、「これは良くないね」と母に言うと、「そうね」と答えてくれました。次に、bを指して、「これが一番いいのかな?」と尋ねると、母は「そうかもしれないわね、でも一番かどうかを決めるのは難しいわね」と。
bがいつも正解とも言い切れない状況もあること、aが必要な時もあること、dは甘いと優しいとでは印象が変わること、cも優しいという言葉にした場合、良くないと百パーセント言い切れない状況もあり得ること等、成長と共に気づきをいただきました。状況に合わせ考えること、自分の中の正しさで決めつけないこと、人を優しい眼差しで見ることの難しさと大切さを、幾度もの失敗を重ねて学ばせていただきました。今も学びの途中です。
また、その頃の私は母にこんなことも尋ねていました―「人の心を湖にたとえるとしたら、広くて大きいけれど濁っている湖と、小さいけれど底まで見えるくらい透き通っている湖だったら、どっちがいいと思う?」。現実に存在する・しないは別として、湖に心の広さと清さを重ねました。これもまた難しい問題で、答えを出すことはできませんでしたが、透き通っているのに狭い心では本人も周りも辛いだろうな、反対に、透明ではなくても心が広いと自分も楽だし人にもおおらかで良いけれど、「何でもかんでもいいよ」はどうなのだろう? と思っていました。
この二つの質問は、物事を多面的に捉えることがまだできなかった幼さ故に出た質問だった、と今にしてみれば思います。私たちは状況によってa~dも持っていて、湖にたとえた心は大きさも透明さも、その都度変化します。人の心にはいろいろな感情が湧き、葛藤し、自分の心の狭さや濁りを認めざるを得ない時があり、それ自体は避けられないことですが、その狭さや濁りのままで居続けることは良くありません。
「互いにゆるし合いなさい」と「互いに愛し合いなさい」のゆるすと愛するは、言葉としては別物のように思えますが、「愛さない・愛せない状態は、ゆるさない・ゆるせない状態 に等しい」との神父様のお言葉に、自分がいつもゆるす側に立っていると思い込んではいないだろうか? と気づかされました。神様にゆるしを乞い、ゆるされたという経験はずっと心に残り、人をゆるすということについては、「全てゆるすということがいかに難しいか」の通り、ようやくゆるせた、ゆるされたという境地に達した時には、かなりの時間を要したということもあるでしょう。それだけ深く心に痛みとして残っていたのです。これは人との関係だけではなく、自分自身との向き合い方にも言えると思います。
神様は人を孤独には創られませんでした。人は人と協力して生きることをお望みになりました。また、人に自由意志をお与えになりました。ということは、人は自分の考えや思いを持ちながらもそれに固執せず、周りの人々と協力して、何が一番良いのか、どうしたら良くなるのかを共に考えていくことをお望みになっているのです。AIが席巻しつつあるこれからの世の中、人が人らしく生きていくためには、真摯な直接の対話が不可欠です。AIは過去のデータから未来の予測やまことしやかに本物そっくりの姿を見せるでしょうが、直接会わなければ分からないことは必ずあります。神様からいただいた自由意志とは、本来争いやいさかいのために使うものではなかったはず。自分の心を映し、神様の御心に叶うことは何かという原点に常に立つことを忘れてはなりません。
人の心を湖にたとえるとしたら、大きさや深さ、透明さを問うのではなく、自分も他者も周りの景色に溶け込み、そっと景色を引き立てる、そんな湖であったらよいなと思います。私たちの祈りの輪に聖霊の働きを願い続けます。
