4月号 希望の巡礼 悔い改めと希望の実現

主任司祭 ウィフリデュス ガッラ

望とは、立ち止まって神の行動を待つことではない。希望とは、働き続けてくださる神に信頼しながら、新しい方法を探し続け、努力し続け、望むことが次第に現実となるように働き続ける私たちの努力と定義される。

私たちは、特に恵まれない兄弟姉妹のために、神の働きに積極的に参加するよう招かれている。人生の現実が必ずしも私たちの望むものと同じでなくても、希望は維持されなければならない。

カトリック教会の指導者である教皇フランシスコは、バチカンでのクリスマス・ミサの中で、この聖年がすべての神の民にとって、救いの 「扉 」であり、希望の源であるキリストに出会う機会となることを願っている。

カトリックの伝統では、聖年は霊的刷新、悔悛、慈善行為の時である。聖年は聖年としても知られている。聖年が特別に祝われるのは、厳粛な聖なる行いで始まり、聖なる行いで記され、聖なる行いで終わるからだけではない。

カトリック信者にとって聖年が特別なのは、人々を聖なる生活へと励ますという目的があるからである。聖年祭は本来、信仰を強め、慈善のわざを奨励し、教会と社会における友愛の交わりを深めるために行われる。

カトリック信者は、唯一の救い主であるキリストへの信仰生活において、より誠実で首尾一貫したものとなるよう求められています。そして、教皇フランシスコは、象徴的に聖なる扉(Porta Sancta)を開き、慈愛に満ちた巡礼の年の始まりを告げました。

この四旬節において、悔い改めは自己改善の手段です。悔い改めは、自分の罪や過ちを悟り、嘆くことにとどまらず、それ以上のものです。私たちは、自分の人生を繁栄させ、実を結ぶように努力することによって、自分自身を向上させたいと願っている。

悔い改めることによって、私たちの人生が善の種を育てる肥沃な土壌となり、善の実を他の人々に与えることができるように努力するのです。私たちが悔い改め続ける姿勢を築くための努力として、園丁の言葉を思い出そう。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(ルカ13:8-9)