8・9月号 平和の源である神
主任司祭 ウィフリデュス ガッラ
国に平和がなければ、国と国との間に平和はありえない。国民に平和がなければ、国家に平和はない。国民が『平和の皇太子』に命を預けなければ、国民に平和はない。塩と光の著者、ヘイデン・ロビンソンはそう言う。
真の平和はキリスト・イエスにおいてのみ得られるというのは、本当にその通りだ。平和を達成するための人間の最善の努力も、イエスのうちになければ、決して真の平和に到達することはない。
平和は、イエスに従うすべての人の権利であり、責任である。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。そして感謝しなさい」(コロサイ3:15)。平和は、外見や隣人との交流ではなく、心の中から始まる。実際に平和に満たされることなく平和を示そうとする人は、とても疲れているに違いない。平和は決して個人的な消費のためにあるのではなく、共に生きるためにあるのです。
ぶどう園のたとえ(マタイ21:33-43)は、エジプトからの脱出の際、神の命令に従うようイスラエルの民を教育した神の願いを表しているが、彼らはそのすべてを拒否し従わなかった。神はついに相続人でない国民を受け入れた。
罪の中に生きる人々は平安を得ることができず、惑わされ、サタンの奴隷となり、神から離れている。その時は神の敵であり、神に反逆している。この混沌を想像してみてほしい。平和などあるはずがない。
だからキリストが来て、私たちの反逆の代価を払って、私たちを神と和解させてくださった。そこに平和への扉がある。平和と喜びは肉欲的な手段では得られない。神、そしてキリストに近づき、聖書を読み、主の目に正しく生きることによってのみ、私たちの心はそれを経験することができる。私たちの人生に絶え間ない喜びがあるのは、イエスにある神の恵みによるのです。 イエスの死と復活は、二つの結果をもたらす。拒む者は滅び、受け入れる者は改革され、新たにされる(マタイ21:42-44)。
神は私たちが平和のうちに生きることを常に望み、願っておられる。私たちは皆、平和を必要としている。争い、戦い、傷つけられ続けること、緊張と怒りの中で生き続けることを誰も望んでいない。そんな生活は人を苛立たせ、鬱にさえさせる。今日の人間生活の現実はどうだろう。家庭生活はどうだろうか。日々の仕事の雰囲気はどうだろうか。キャリア、勉強、家族や友人との関係、聖職生活はどのように発展しているだろうか。私たちの生活に平和はあるだろうか。もし私たちの生活に平和があれば、私たちは何を経験するだろうか。
まず、第一に、平和は喜びをもたらし、自分自身や他人との関係を活性化させる。私たちの心、行動の内側から喜びや嬉しさが溢れ輝きだし、それは他の人たちにも伝染する。私たちの内側にある喜びは、周囲の人たちも感じることができるため、多大な影響力をもつ。もしあなたが明日の朝、暗い顔で起き、皮肉っぽく不機嫌になっていたとしたら、私たちが出会う人々も同じ反応を示すだろう。朝起きた後、友好的な態度、笑顔いっぱいの顔、温かく愛情に満ちた目を見せるなら話は別だ。きっと、私たちを見る人は、笑顔と親しみをもって迎えてくれるだろう。
第二に、平和は私たちに高い生活意欲と仕事への熱意を与えてくれる。もし周囲の人々が不機嫌で怪訝な目をし、相互の信頼関係がなければ私たちは不安になる。反対に、職場の雰囲気が喜びに満ちていれば、私たちは幸せで働く意欲が高まる。パウロは、神は平和の源だという。神が私たちとともにいてくださるのだ! 別の訳では、「わたしの平和をあなたがたに与える!」とある。神は私たちにとって基本的に必要なもの、すなわち平和を知っておられる! 神の平安とともに、この人生を生きなさい。アーメン。