「鐘」巻頭言 2018

12月   三町物語

2018年12月04日

助任司祭   エドガル・ガクタン
 

それは、ベツレヘム、ナザレと今我々が住んでいる町のことである。
イエスの誕生といえば、ベツレヘムという小さな町の片隅の馬小屋で「母マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2:6)という一場面はよく知られている。イエスが馬小屋で生まれた理由は、あたかも「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」のようである 
馬小屋での出生を理解するのに旧約聖書のある一節を読まなければならぬ、という指摘がある。それは「なぜあなたは、この地に身を寄せている人、宿を求める旅人のようになっておられるのか。主よ、あなたは、我々の中におられます。我々を見捨てないでください」(エレミヤ書14:8)に記されている言葉、不在だと思われる神に対する民の文句。
もう家も宿もいっぱい、でも誰かが馬小屋に場所をあけてくれた、というのはイエスの誕生物語の暗黙の一場面。神様は民の上記の嘆きに応えられた。神様も人の家での定住を望まれる。小屋の一角であっても、人間の用意する場所には、神が住まわれる。これは馬小屋の示す意味、だという。
ナザレという町で育てられたイエスは、ある時から「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と伝え始めた。イエスを信じた人は多かったが、ないがしろにした人も少なくなかった。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」、イエスをからかわれた一句だ。
いうまでもなく、誰もが他人に対する偏見や思い込みをもつ。他人を突然家に迎えるのも難しい。でもベツレヘムであったように、他人のための場所をあけられることもある。これは、神の思いが通じているしるしの一つであろう。小さく微々たる働きが、神の国の礎石を築く。
新聞を開くと連日、人手不足への対策をめぐる記事や投稿が多いことに気付く。ある社説は経験者の得た教訓を引用している。「我々は労働者を呼んだ。だが、やって来たのは人間だ」、と。記事を読み終えると「いつくしみとあいのあるところ、かみともに」、先日松原教会で久々歌われた聖歌が聞こえるような気がする。