「鐘」巻頭言 2018

8・9月号   イエスの再臨(パールシア)と平和

2018年08月09日

正義と平和委員会   北澤 正幸

イエスは最後の晩餐の席上、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない(ヨハネ福音書14章27節)」と弟子たちに告げている。これは多くの人々によって、「パクス・ロマーナ」に替わる「新しいイエスの平和」、換言すれば「力(暴力)による平和」ではなく「非暴力による平和」、しかもイエスがその命を賭けて世に与える―十字架と復活による―平和のことと解釈されている。
さて、現代に目を転じてみると、多くの国は長い間「パクス・アメリカーナ」のもとに平和を享受してきたように思える。しかし、既に皆さんもご存知の通りその平和は終焉を迎えた。換言すれば「パクス・アメリカーナ」は昔日の夢へと変わった。けれども興味深いことに、この構図を未だに引き継ぐ(引きずる)唯一の国がアジアにあるのだがそれは他でもないこの「日本国」である。
自己中心的・排他的なトランプ大統領に対して、G7はじめ他のいわゆる「先進国」といわれる国々が、各々のアイデンティティーを示しながら彼に対応している姿とはまったく異なり、この国は相も変らず「アメリカ従属」にこの国の行方を託しているかに見える。まさに「隷属」であるが、このわが国の「隷属」により「偉大な国家アメリカ」はかろうじてその権威を保つことができている。
ところで「パクス・アメリカーナ」とは何であったのだろうか。それはとりもなおさず、「パクス・ロマーナ」同様、「力(暴力)による支配」であったのではないか。とするならば、われわれ日本国民の多くは、イエスが残し与えた平和を保ち得ていないことにならないだろうか。
さて、私たちキリスト者は「イエスの再臨」を当然起こるべきこととして待っている。しかし、イエスの再臨に何を託そうとしているのだろうか。換言すれば、何故イエスは再臨しなければならないのだろうか。私は前年の「鐘」同月号に、「平和とは神の国の有様なのである」と記したが、「イエスの再臨」とは平和―神の国―の実現のためではないだろうか。しかも、その「再臨(パルーシア)」とは、内村鑑三に言わせれば、「来たらん(未来)ではない、来たりつつあり(現在)である、イエスは今来たりつつあるのである、しかし最後に明白に人として来たりたまうのである。(内村鑑三著「再来の意義」より引用)」ということなのである。
即ち、我々は今「イエスの昇天」と「イエスの再臨の間(の時間)」を生きているということになるだろうし、来たりつつあるイエスと共に今を生きているということにもなるだろう。であるならば、少なくとも我々キリスト者は「パクス・アメリカーナ」の幻影に惑わされることなく―即ち、力(暴力)の奴隷となるのではなく―、イエスが残し与えた平和を、再臨しつつあるイエスと共に実現させるべき―即ち、神の奴隷(ローマ書6章22節)となるべき―ではないだろうか。