「鐘」巻頭言 2017年

8・9月号  聖書に基く「正義と平和」考

2017年08月10日

正義と平和委員会 北澤正幸
 

イエスの「十字架上の七つの言葉」を福音書成立年代順に整理すると、その最後の言葉はヨハネ福音書19章30節の「成し遂げられた」であるが、イエスは何が成し遂げられたと言ったのだろうか。聖書を旧約まで遡ると、イザヤ書53章10節に、「主(神)の望まれることは彼(主の僕)の手によって成し遂げられる。」との言葉を見い出すことができる。
この言葉は言うまでもなく“主の僕の苦難と死”、即ち、“主の僕の四つの歌”の最終四歌の中に見いだされるのだが、初代教会から今日に至るまで、この歌はイエスにおいて成就したと多くの人に受け止められていることに異論はないだろう。
それでは「主(神)の望まれること」とはいったい何だろうか。再びヨハネ福音書に眼を転じてみると、その13章34節にイエスの言葉として、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」とあり、同書15章17節にも、「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」と記されている。また、同書14章27節には、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と記されており、さらに、同書20章19節21節及び27節には復活したイエスの言葉として、「あなたがたに平和があるように。」と記されている。
これらの言葉から、イエス―ヨハネ福音書におけるイエス―は、「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい(マルコ福音書12章30-31節参照)。」との旧約の言葉を更新したと言っても過言ではないだろう。ナザレのイエスは神の独り子―神と等しい者―故に、「主(神)の望まれること」とは、イエスが言うように<互いに愛し合うこと>であり<平和を実現しそれを保つこと>なのである。

再び旧約聖書に戻ってみると、その詩編85章9節には、「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。」と記されており、11節には、「慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。」と記されていて、さらに14節には、「正義は御前を行き 主の進まれる道を備えます。」と記されている。また、イザヤ書32章17節には、「正義が造り出すものは平和であり 正義が生み出すものは とこしえに安らかな信頼である。」と記されている。
イエスは、「平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と言われたが、その平和とは正義から造り出されるものであり、正義はとこしえに安らかな信頼―換言すれば平和―を生み出すのである。
では改めて<正義>と<平和>との言葉について考えてみよう。<平和(平安)>との言葉を聞くとき、キリスト者は<シャローム>というヘブライ語を想起するだろう。この<シャローム>とは勿論<平和(平安)>と訳出されるのだが、この語が本来意味するところは<無欠>なのである。<無欠>とは読んで字の如く<欠けることがないこと>である。そして、神こそが正に<完全無欠な存在>なのであるのに対して人間は無欠ではないのであり、そのような状態が達成されたとき初めて<神に似る者>となれるのである。
即ち、<平和とは神の国の有様なのである>と言っても差し支えはあるまい。では<正義>とは何だろうか。<義>との言葉については聖書巻末の用語解説を読んでいただきたいのだが、<義>とは「神の属性」なのであり、<正義>とは人間が神の前で正しいものとされること、換言すれば神との正しい関係を結ぶことなのである。イエスは自身のMission―神の御旨―を成し遂げたのだが、人間はイエスが示した神(正義)の道を歩むことにより、「世」において平和(神の国)を建設しなければならないのである。