4月号 損ができる愛の勝ち組

損ができる愛の勝ち組  主任司祭 L・ゴーセンス神父
 

四旬節の回心の歩みがもうすぐ聖週間に入ろうとしているから、私たちの信仰の特徴であるイエスの死と復活の祝いにおいて旅の地平にその目的地が見えてくる。途中で主イエスの世界観、人生観、価値観、生き方と選びに気づかされ、少しずつそれらを身に付けようと努力しつつある。当時の使徒たちのように、私たちもイエスとそのメッセージに驚き、疑問や不安を覚え、又、周りの不理解や浴びている批判を怖がり、現代の社会の中で負け組になっているではないかという信仰の危機に陥っているかもしれない。
神の不在社会の中で祈りを始め、人を大切にする心構え、広報に振り回されず、助けを必要としている人々と節制の陰で分かち合い、孤独の人に傾聴、自分に対して反感をもつ人を許し、仕事の場で良心的な取り組みを忠実に守っているため確かに時間、お金、面目を失ってしまうけれど、こういうような損ができる愛は融和と安らぎをもたらしているようである。「私のために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:24)
無関心関心を破って視野を広めながら、苦しみの様々な原因に関して問題意識と共感を高め、市民運動や署名に参加して啓発を促すことによって、正義と平和全国代表者会議で先月に確認された「死刑、原発、憲改、軍事化」という四つの悪のルーツを取り除く活動家になりうる。例えば、暴力に陥っている現代世界で、力の権利(=武器による抑止の脅威)ではなく、権利の力(=9条の交渉による説得)をもって平和を部分的でも実現しようとする。
ナザレの男は言葉と行いをもってあらゆる悪と戦う存在として福音書に登場する。それゆえあざ笑われ、批判され、捨てられ、追い出され、「ホザンナ」の後「十字架に付けろ」と叫ばれ、不正の裁判を受け、冒涜者として死刑に定められたとき、すべてを成し遂げてその「アッバ」に自分をゆだねた。つまり、十字架上で父と子は損ができる愛の極めを示めした。ゆえに、イエスは自分と私たちの父に復活させられ、命の導き手となった。歴史の完成のとき再臨し、損ができる愛がやはり人類の審判の決定的な基準となるような見通しを与えている(マタイ25章を参照)。この希望が無ければ、パウロが言ったように「私たちはすべての人の中で最も惨めな者」である(1コリント15:19)。
ところで、今月から二年間のために選ばれた標語「活かそう、新しい交わりの場を」の通り、リニューアルされた聖堂とリフォームされる本館によって松原カトリック教会がより大勢の人に役立つ居場所と活動の拠点となり、神が望んでいる家庭、共同体、社会(=神の国)へ導くしるしと道具になるように共に祈りたいのである。「心の貧しい(=自分を低い・小さな者と見なす)人々は幸いである」(マタイ5:3)、つまり、負け組が逆に勝ち組に変わっていくという主イエスの約束は復活祭の深い喜びではないか。勝利の叫びに由来する「ハレルヤ!」が繰り返して響いているから。