7月号 コロナ禍の正義と平和

コロナ禍の正義と平和

正義と平和委員会 北澤 正幸

新型コロナウイルスパンデミックも一年半を経過し、我々の日常生活も大きく様変わりしてしまった。教会の様々な活動も中断を余儀なくされ、ミサさえも通常の状態では行えなくなっている。教会に通うこともままならない人たちも多数おり、信徒間の人間関係にも大きな影響を与えている。そのような折に触れ、否、このような時だからこそ今改めて「正義と平和」について思索してみようと思う。

 “正義が造り出すものは平和であり 正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である”と旧約の預言者イザヤは記した(イザヤ書32章17節)。それでは、同書52章13節~53章に於ける「主の僕の苦難と死」を成就したと云われるイエスは、福音書の中で正義と平和についてどのように語っているだろうか? イエスは「平和」という言葉を数少ないながら語ってはいるが、「正義」という語については全く語っていない(「義」という語は使われてはいるが)。それは何故なのか?「正義」とはある司祭の言葉を借りれば、「神との正しい関係」のことであるが、イエスこそまさに神との正しい関係をもった人間であった。それ故、イエス自身が「正義」であり、イエスの言葉と行いこそがまさに正義であった故イエス自身が正義を語る必要はなかったのだろう。

 さて、イエスは弟子たちへの惜別の説教の中で、“わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない”と語っているのだが(ヨハネ福音書14章27節)、この言葉には注意が必要である。イエスは自分が去って逝くに当たり、「ほら、ここに平和を置いておくよ」と言っているのでは決してないのである。“世が与えるように与えるのではない”という言葉は、「パクスロマーナ(ローマの平和)」のような平和、換言すれば「力(武力や暴力あるいは金や権力)」による平和とは対照的な平和(十字架の死と復活による平和)であるとも考えられるが、それだけではないであろう。即ち、「正義(イエス)」を通して弟子たちが造り上げて行く、或いは造り上げなくてはならない「平和」のことでもあろう―前述したイザヤ書の言葉を想起願いたい―。そのことは復活後のイエスの言葉にも表れている。復活したイエスは弟子たちに対して、“あなたがたに平和があるように”と言われたのであるが(ヨハネ福音書20章19節)、ここで注目すべきは、“あなたがたが平和であるように”とは言わず、“あなたがたに平和があるように”と言われていることである。こう言われた後でイエスは弟子たちを派遣するのだが、弟子たちが平和であればそれでよいのではなく、弟子たちにはイエスを宣べ伝えて行くミッションが科せられるのである。つまり、彼らのみならずイスラエルの人々の間にイエス(正義)を宣べ伝えることによって「平和」をもたらさなければならない使命が科せられているのであるが、わたしたちもまた、弟子たち同様、イエスを宣べ伝え平和を構築して行く使命を負っていることは言うまでもない。

 ここで先ほどのイザヤ書に戻るが続く18節には、“わが民は平和の住みか、安らかな宿 憂いなき休息の場所に住まう”と記されている。今コロナ禍の日々の中にあってはこの言葉が切なく胸を打つ。親しい人と会うこともままならず、分断、隔絶、孤立、の日々を生きなくてはならない人々を思うと、このような時、このような時代の中でこそ必要なものが関係性であろう。イエスはあらゆる人々、なかんずく世から排斥され小さくされた人々のもとに自ら赴いた。わたしたちは、このような困難な日々と暮らしを生き抜かなければならない今こそ、イエスの道をしっかりと歩み続けなければならないであろう。最後に使徒パウロの言葉を今を生き抜く糧としたい。

“わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを”(ローマの信徒への手紙5章3-4節)