十字架の道行き

聖堂の中にある「十字架の道行き」の陶板レリーフです。(ルイ・フランセン師によるデザイン制作)
 

聖堂に、はめ込まれている十字架の道行きの壁画は、ルイ・フランセン師が昭和43年夏、九州の有田市の岩尾陶芸会社で製作したもので、他の十字架の道行き と少し違います。第1留:最後の晩餐から始まり、14留:ご復活で終わります。十字架の道行きは、最後の晩餐・ご受難・ご復活の記念であるミサの要約とい われます。この十字架の道行きの各留の場面の解説が、祈りの手引きに役立てば幸いです。
(解説文:カトリック松原教会 献堂25年「一つの心 一つの霊」より)
 

 

第1留 「最後の晩餐」

人びとがいっしょに集まる喜びと平和を、白い色で表しています。そしてキリストが現れて愛のことばが交わされます。生命は聖化されることを意味します。

第2留「イエス、死刑の判決を受ける」

ピラトが手を洗います。事なかれ主義の態度が描かれています。この世で出世するには、他人が犠牲になってもよい。形式的な行いによって責任を逃れる、罪から逃れる、自分の良心の声が聞こえなくなるのです。

第3留「イエス、十字架を担う」

イエスは十字架を受けます。この画を見ると、イエスは十字架を担うというよりも、イエスと十字架と苦しみとは同一視されて
います。今、やイエスと十字架と苦しみとは切り離すことはできません。

第4留「イエス、はじめて倒れる」

(普通の十字架の道行きではイエスは3回倒れられましたが、この道行きは最後の晩餐と復活とがあるので、第7留と第9留は省略されています。) 上半部に描かれている歯車などのメカニズムはモダンなテクニックを示します。人間は、このモダンなテクニックに心を奪われてキリストを捨てます。

第5留「イエス、聖母と会う」

人は成人すると、母の手を離れてわが道を一人で進むこととなります。ここではイエスと聖母とならべて描かれていますが、二人は離れて、もはや互いに接触することなく、愛によって結ばれてはいても、それぞれ自分で苦難の道を一人で耐えて行かねばならないのです。

第6留「イエス、キレネのシモンの助力を受ける」

キレネのシモンは、皆の代表となってキリストの十字架を担う手伝いをします。キリストとともに十字架を担うことは私たちの
名誉であり、救いのみ業に協力することは、私たちの光栄と喜びでもあります。

第7留「イエス、ヴェロニカより布を受け顔を拭う」

顔だけが見えます。平和そのもののような顔です。私たちにとっては、この世のものはすべてなく、このキリストの平和な顔だけが永遠の価値をもっています。

第8留「イエス、エルサレムの婦人を慰める」

主のご受難に同情し、涙にむせぶ婦人たちを、かえってイエスが慰められました。私たちは、主のご受難を本当に身にしみて感じてるでしょうか?私たちの同情は、ややもすると表面だけで、内心は何でもないという危険があります。私たちが示す同情は、その相手に近づくためのチケット、すなわち苦しみ悩める人の心の中に立ちるための入場券に過ぎないということに
なりかねません。この点に深く思いを致し、真の同情とは何かを常に反省する必要があります。

第9留「イエス、衣服をはがされる」

イエスは赤裸々の姿において、その本当の価値を示されました。神の御ひとり子は、私たちの救いのために私たちとまったく同じ位置にまでへりくたり、人間の本当の価値をお示しになりました。美しい着物、立派な邸宅、豪華な調度、名誉、地位、財産などに私たちは目を奪われています。イエスが衣服をはぎ取られたように、私たちは、このみせかけのアクセサリーをすべて
脱ぎ捨てて、人間の真の価値を手に入れなければなりません。

第10留「イエス、十字架にかけられる」

この場面は、十字架につけられるため、まず地面の上に横になっているイエスが示されています。したがって十字架は描かれて
いません。イエスは、この地上のものすべてを愛して、そのために自分の生命までも捨てられました。そして、この大地と一致するため、直接の身体からしたたり流れる血は地中にしみ込み、イエスと大地は完全に一致しました。イエスの身体を受けとめた大地は、かえってイエスによって温かく抱かれるのです。

第11留「イエス、十字架の上で死す」

十字架はなくて、イエスの身体だけが十字架の形のままに描かれています。イエスと十字架は一体となり、イエスは苦しみその
ものとなってあられます。この時、「わが神、わが神、なせわたしをお見捨ててになったのですか」といわれます。あのイエスの悲痛な叫び声が地の果てまで届くかのように聞こえてきます。

第12留「イエス、十字架から降ろされる」

聖母マリアは最愛の御子イエスを再び自分の手に取りもどされました。しかし、それは死体となられたイエスでした。私たち人間は、他人を完全に自分のものとして所有することはできません。たとえ自分のものとすることができたと思っても、いつかは死がやってきてそれを奪い去ってしまいます。しかし、本当の愛をもっていれば、死んだ後にも再び永遠にいっしょに結び
合わされます。

第13留「イエス、墓に納められる」

聖母マリアも墓のそばに立っておられます。まだ希望を失わず信じておられます。「成し遂げられた」と十字架上のイエスのことばを聞いても、すべての終わりはまたそのはじめであると信じて希望を失わない聖母マリアは、女として弱いもので
ありましたが、愛と希望に生きたがゆえ、かえって最も強いものとなられました。男は自分の力の強さを誇り、何にでも
挑戦して、それを獲得できると考えますが、かえってその強さのためにすべてを失ってしまう。信、望、愛をもって忍耐すると
ころに復活は訪れます。

第14留「イエス、復活する」

復活を本当に描いて人に見せることは不可能です。復活がすべてでなくてはなりません。わたしたちの生命の最終の意味を示すものが復活です。十字架の道行きも、この復活を目指して苦難の道をたどりつつ進み、復活を頂点として終わりを告げます。
「イエス・キリストの復活がなければ、我々の宣教もむなしい」との聖パウロのことばが、私たちの胸に響いてくるでしょう。