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1. 四旬節について

もともとは、復活祭に洗礼を受ける志願者たちの準備の期間として起こったようですが、洗礼志願者だけでなく、教会をあげて復活祭をふさわしく迎えることができるように、祈りと断食をする習慣もごく初期からはじまりました。

キリストの荒れ野の40日にならって、4世紀頃にはその期間が、現在と同じ40日になっていたようです。日曜日は四旬節中でも復活の記念日として断食をしない習慣だったので、実際に断食をする40日になるよう46日前の灰の水曜日から始めるようになりました。

ただし、第2バチカン公会議以降、聖木曜日の主の晩餐の夕べのミサから始まる「過越の三日間」が、教会暦1年の頂点である事を示すために、四旬節はその前で終わります。

2. 灰の水曜日について
この日から四旬節が始まります。古くから悔い改めや深い嘆きのしるしとして「荒布をまとい、灰をかぶる」ことは宗教行事として用いられてきました。現在のように、灰の水曜日に回心のしるしとして灰を受けることは、11世紀の終わり頃から始まったようです。

灰は命のはかなさ、死すべき命を連想させます。司祭が灰を頭にかける時の言葉の一つに「あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです」という言葉がありま す。また灰を祝福する時には「全能の神よ、あなたは罪人の死ではなく回心を望まれます。土から出て土に返って行く私たちが罪の赦しを受けて新しいいのちを 得、復活された御子の姿にあやかることができますように」と祈ります。

このように、四旬節の始めに受ける灰は回心を表すと同時に、新しいいのちに生まれる希望を抱かせるしるしともいえます。
3. 共同回心式について

そもそも罪を犯すということは、決してただ自分一人だけ の問題ではありません。主の祈りの中で「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」と祈ります。つまり、私たちが互いにゆるし合うことの中 に、神のゆるしが働くのだ、ということを信じています。だから、告解の時にも、互いにゆるし合う心というものが前提になっています。互いにゆるし合い、そ のゆるし合いの中に神のゆるしが与えられているということを、一人ひとりが共同回心式に参加することによって、目に見える姿で表現します。
(「キリストとその教会」百瀬文晃著より)

告白自体は、伝統的な「個別告白」の形で行いますが、告白の準備と告白後の感謝と賛美などを共同で行うので、共同回心式といいます。この共同回心式は、待降節や四旬節によく行われています。

4. 枝の主日

ガリラヤ地方を中心に活動したイエスが、死を覚悟してエルサレムに入った時、群集はしゅろの枝を手にとって、イエスを救い主として迎えました。これを記念として信者は、教会で祝別された枝を家にもって帰ります。翌年、教会ではその枝を焼いて、灰の水曜日に使います。

5. 聖週間と主の過越の聖なる三日間

教会の典礼は、キリストの生涯の主な出来事を記念するこ とによって、私たちがキリストの救いの恵みに与えるようにしています。キリストは、受難と死を通して復活の栄光に移られました。これを「主の過越」といい ます。そして旧約の「過越祭」に代わって、新約の民であるキリスト者にとっては、「主の過越」を記念する祭りが年に1度、最も盛大に祝われる祭りになりま した。これが復活祭です。

この祭りは本来、受難・死・復活という主の過越の出来事全体を記念するものです。しかし、4世紀の後半から、できるだけ出来事の経過に忠実に祝おうという ことから、まず「主の過越の聖なる三日間」が重要なものになり、やがて復活祭の前日の主日、つまり受難の主日(枝の主日)からの1週間全体が「聖週間」と して大切にされるようになりました。

さて、聖なる三日間は、ふつう第1日目は聖木曜日、第2日目は聖金曜日、第3日目が聖土曜日あるいは復活徹夜祭というふうに考えられていますが、実は日没が1日の境目であるという当時のユダヤ暦の考えがもとになって、次のようになります。
 

  • 第1日(ユダヤ暦の週の第6日目)


木曜日の日没から金曜日の日没まで。すなわち、最後の晩餐からイエスの死、そして墓に葬られるまで。教会の典礼上は、聖木曜日「主の晩さんの夕べのミサ」から聖金曜日「主の受難」まで。

  • 第2日目(ユダヤ暦の安息日)


金曜日の日没から土曜日の日没まで。主の受難と死を思うという意味で、祭壇の飾りを取り除きミサも捧げません。

  • 第3日目(ユダヤ暦の週の初めの日)


土曜日の日没から日曜日の日没まで。教会はこの夜を復活徹夜祭で盛大に祝い、翌朝復活の主日のミサを行い、そして復活の主日の晩の祈りで締めくくります。 このような暦なので「三日目に復活した」といいます。

6. ミサの福音朗読の前の三つの十字について

ミサで福音が読まれる前に「額」と「口」と「胸」に小さい十字を切るという習慣があります。
額に十字を切るとは、これから聞く聖書の言葉をよく理解できるようにと願う意味です。口にするのは、聖書のメッセージを、他の人にも伝えることができるように。胸にするのは、胸が心を意味しますので、聖書のメッセージを心に留め、なるべくそれを実行できるように。

十字を切ることによって、この三つの事ができるように、その力が与えられるよう願うのです。

7. 聖水について

司祭、あるいは助祭によって祝福された水のことを、「聖水」と呼んでいます。
この聖水は、洗礼の約束の更新のときに注がれたり、また教会堂に入ってこれから(ミサ・ゆるしの秘跡などの)典礼に参加したり、個人的な信心業を始めると きに用いられます。それは、既に受けた洗礼の秘跡を思い起こさせ、その恵みに生きていこうとする心構えを信者の中で強め、またこれから行われる典礼や信心 業などを通して豊かな恵みを受けることができるよう、信者の内面的な態度をよりよく準備させたいと願う教会の祈りの手段なのです。

また聖水は、教会堂、自動車、祭器具、信心用具などの祝別(祝福)式の時にも用いられます。このような祝別式は、与えていただいたこれらのものを神に感 謝し、神の国の発展のためによりよく用いていこうとする心構えを、信者の中で準備させたいと願う教会の祈りの方法と理解することができるのです。
(カト リック新聞「典礼をやさしく学ぼう」より抜粋)

8. 子供の洗礼

親が自分の子供たちも早くキリストと結び付けたいと願うのはごく自然で、幼児洗礼は古代教会において一般的に行われていました。

現代においても、カトリック教会は、子どもの信仰教育が保証されている場合、幼児に洗礼を授けています。その場合、幼児が自分で洗礼を望んだり信仰を告 白したりすることができませんから、幼児に代わって、両親や代父母が信仰を告白し、子どもは教会の信仰に包まれながら洗礼を受けるのです。そして、両親に 連れられて教会に行ったり、神様やイエス様のお話を聞いたりするうちに、心の中で信仰、希望、愛を育てていくことが大切です。

なお、松原教会では、幼児洗礼は年に1回あるいは2回にまとめて行われています。
(「神の言葉と秘跡」ペトロ・ネメシェギ著 参照)

9. 緊急洗礼

まだ洗礼を受けていない人が臨終を前にして洗礼を望む場 合、洗礼を受けることができます。その時、イエス・キリストは神であり救い主であることを信じることを表明する必要があります。もし自分で受洗の意思表示 ができなくても、日頃から洗礼を受けたいと望んでいたと推測できるなら、条件付きで受洗できます。幼児が死の危険に陥った場合には、直ちに洗礼を受けるこ とができます。

司祭を呼ぶことが事情によって困難な場合には誰でも(信者でも未信者でも)授けることはできますが、授ける人は「私は、父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」と唱えながら、自然の水を顔に注ぎます。その後、洗礼の事実を主任司祭に報告してください。
(聖イグナチオ教会 信徒のしおり参照)

10. 病者の塗油の秘跡

ヤコブの手紙に見られる「塗油を伴う病者のための祈り」 は、12~13世紀ごろから「終油の秘跡」と呼ばれ、トレント公会議(1545~1563年)において「『病人』に、特に死に直面していると考えられる重 病人に授けられるべきである」と規定されました。そのため長い間、臨終の人のための秘跡と考えられていましたが、第二バチカン公会議は、病者に対するイエ スの特別な心遣いを思い、この秘跡を「病者の塗油」というふうに呼ぶことにしました。すなわち、この秘跡を臨終のときのものではなく、重い病気や老衰のた めに弱った人のためのものにしたのです。

この秘跡は、病気に伴う試練と誘惑に打ち勝つように助ける秘跡です。軽い病気の時には授けませんが、死ぬほどではないにしても重い病気、あるいは高齢でいつ死ぬか分からない時には、授けるべきです。それにより 心に平和が訪れ、本人もまわりもあかるくなるのです。

ヤコブの手紙にあるように、この秘跡には、罪をゆるすという効果もあります。

また、同じ手紙で、「主がその人を起き上がらせる」とも書いていますから、場合によって、この秘跡によって身体的にいやされることもあり、また常に、気落ちした状態から精神的に立ち上がらせることもあります。

私たちが病気にかかった時、この秘跡を進んで受けて、キリストと共に病苦をささげていく恵みを願いましょう。また、自分の周りにこのような状況にある兄弟姉妹がいる時、その人が所属している教会の司祭に連絡を取り、この秘跡を授けていただけるように配慮しましょう。
(カトリック新聞「典礼をやさしく学ぼう」「愛と永遠」ペトロ・ネメシュギ著より抜粋)

 

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