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1. 四旬節について

もともとは、復活祭に洗礼を受ける志願者たちの準備の期間として起こったようですが、洗礼志願者だけでなく、教会をあげて復活祭をふさわしく迎えることができるように、祈りと断食をする習慣もごく初期からはじまりました。

キリストの荒れ野の40日にならって、4世紀頃にはその期間が、現在と同じ40日になっていたようです。日曜日は四旬節中でも復活の記念日として断食をしない習慣だったので、実際に断食をする40日になるよう46日前の灰の水曜日から始めるようになりました。

ただし、第2バチカン公会議以降、聖木曜日の主の晩餐の夕べのミサから始まる「過越の三日間」が、教会暦1年の頂点である事を示すために、四旬節はその前で終わります。

2. 灰の水曜日について
この日から四旬節が始まります。古くから悔い改めや深い嘆きのしるしとして「荒布をまとい、灰をかぶる」ことは宗教行事として用いられてきました。現在のように、灰の水曜日に回心のしるしとして灰を受けることは、11世紀の終わり頃から始まったようです。

灰は命のはかなさ、死すべき命を連想させます。司祭が灰を頭にかける時の言葉の一つに「あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです」という言葉がありま す。また灰を祝福する時には「全能の神よ、あなたは罪人の死ではなく回心を望まれます。土から出て土に返って行く私たちが罪の赦しを受けて新しいいのちを 得、復活された御子の姿にあやかることができますように」と祈ります。

このように、四旬節の始めに受ける灰は回心を表すと同時に、新しいいのちに生まれる希望を抱かせるしるしともいえます。
3. 共同回心式について

そもそも罪を犯すということは、決してただ自分一人だけ の問題ではありません。主の祈りの中で「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」と祈ります。つまり、私たちが互いにゆるし合うことの中 に、神のゆるしが働くのだ、ということを信じています。だから、告解の時にも、互いにゆるし合う心というものが前提になっています。互いにゆるし合い、そ のゆるし合いの中に神のゆるしが与えられているということを、一人ひとりが共同回心式に参加することによって、目に見える姿で表現します。
(「キリストとその教会」百瀬文晃著より)

告白自体は、伝統的な「個別告白」の形で行いますが、告白の準備と告白後の感謝と賛美などを共同で行うので、共同回心式といいます。この共同回心式は、待降節や四旬節によく行われています。

4. 枝の主日

ガリラヤ地方を中心に活動したイエスが、死を覚悟してエルサレムに入った時、群集はしゅろの枝を手にとって、イエスを救い主として迎えました。これを記念として信者は、教会で祝別された枝を家にもって帰ります。翌年、教会ではその枝を焼いて、灰の水曜日に使います。

5. 聖週間と主の過越の聖なる三日間

教会の典礼は、キリストの生涯の主な出来事を記念するこ とによって、私たちがキリストの救いの恵みに与えるようにしています。キリストは、受難と死を通して復活の栄光に移られました。これを「主の過越」といい ます。そして旧約の「過越祭」に代わって、新約の民であるキリスト者にとっては、「主の過越」を記念する祭りが年に1度、最も盛大に祝われる祭りになりま した。これが復活祭です。

この祭りは本来、受難・死・復活という主の過越の出来事全体を記念するものです。しかし、4世紀の後半から、できるだけ出来事の経過に忠実に祝おうという ことから、まず「主の過越の聖なる三日間」が重要なものになり、やがて復活祭の前日の主日、つまり受難の主日(枝の主日)からの1週間全体が「聖週間」と して大切にされるようになりました。

さて、聖なる三日間は、ふつう第1日目は聖木曜日、第2日目は聖金曜日、第3日目が聖土曜日あるいは復活徹夜祭というふうに考えられていますが、実は日没が1日の境目であるという当時のユダヤ暦の考えがもとになって、次のようになります。
 

  • 第1日(ユダヤ暦の週の第6日目)


木曜日の日没から金曜日の日没まで。すなわち、最後の晩餐からイエスの死、そして墓に葬られるまで。教会の典礼上は、聖木曜日「主の晩さんの夕べのミサ」から聖金曜日「主の受難」まで。

  • 第2日目(ユダヤ暦の安息日)


金曜日の日没から土曜日の日没まで。主の受難と死を思うという意味で、祭壇の飾りを取り除きミサも捧げません。

  • 第3日目(ユダヤ暦の週の初めの日)


土曜日の日没から日曜日の日没まで。教会はこの夜を復活徹夜祭で盛大に祝い、翌朝復活の主日のミサを行い、そして復活の主日の晩の祈りで締めくくります。 このような暦なので「三日目に復活した」といいます。

6. ミサの福音朗読の前の三つの十字について

ミサで福音が読まれる前に「額」と「口」と「胸」に小さい十字を切るという習慣があります。
額に十字を切るとは、これから聞く聖書の言葉をよく理解できるようにと願う意味です。口にするのは、聖書のメッセージを、他の人にも伝えることができるように。胸にするのは、胸が心を意味しますので、聖書のメッセージを心に留め、なるべくそれを実行できるように。

十字を切ることによって、この三つの事ができるように、その力が与えられるよう願うのです。

7. 聖水について

司祭、あるいは助祭によって祝福された水のことを、「聖水」と呼んでいます。
この聖水は、洗礼の約束の更新のときに注がれたり、また教会堂に入ってこれから(ミサ・ゆるしの秘跡などの)典礼に参加したり、個人的な信心業を始めると きに用いられます。それは、既に受けた洗礼の秘跡を思い起こさせ、その恵みに生きていこうとする心構えを信者の中で強め、またこれから行われる典礼や信心 業などを通して豊かな恵みを受けることができるよう、信者の内面的な態度をよりよく準備させたいと願う教会の祈りの手段なのです。

また聖水は、教会堂、自動車、祭器具、信心用具などの祝別(祝福)式の時にも用いられます。このような祝別式は、与えていただいたこれらのものを神に感 謝し、神の国の発展のためによりよく用いていこうとする心構えを、信者の中で準備させたいと願う教会の祈りの方法と理解することができるのです。
(カト リック新聞「典礼をやさしく学ぼう」より抜粋)

8. 子供の洗礼

親が自分の子供たちも早くキリストと結び付けたいと願うのはごく自然で、幼児洗礼は古代教会において一般的に行われていました。

現代においても、カトリック教会は、子どもの信仰教育が保証されている場合、幼児に洗礼を授けています。その場合、幼児が自分で洗礼を望んだり信仰を告 白したりすることができませんから、幼児に代わって、両親や代父母が信仰を告白し、子どもは教会の信仰に包まれながら洗礼を受けるのです。そして、両親に 連れられて教会に行ったり、神様やイエス様のお話を聞いたりするうちに、心の中で信仰、希望、愛を育てていくことが大切です。

なお、松原教会では、幼児洗礼は年に1回あるいは2回にまとめて行われています。
(「神の言葉と秘跡」ペトロ・ネメシェギ著 参照)

9. 緊急洗礼

まだ洗礼を受けていない人が臨終を前にして洗礼を望む場 合、洗礼を受けることができます。その時、イエス・キリストは神であり救い主であることを信じることを表明する必要があります。もし自分で受洗の意思表示 ができなくても、日頃から洗礼を受けたいと望んでいたと推測できるなら、条件付きで受洗できます。幼児が死の危険に陥った場合には、直ちに洗礼を受けるこ とができます。

司祭を呼ぶことが事情によって困難な場合には誰でも(信者でも未信者でも)授けることはできますが、授ける人は「私は、父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」と唱えながら、自然の水を顔に注ぎます。その後、洗礼の事実を主任司祭に報告してください。
(聖イグナチオ教会 信徒のしおり参照)

10. 病者の塗油の秘跡

ヤコブの手紙に見られる「塗油を伴う病者のための祈り」 は、12~13世紀ごろから「終油の秘跡」と呼ばれ、トレント公会議(1545~1563年)において「『病人』に、特に死に直面していると考えられる重 病人に授けられるべきである」と規定されました。そのため長い間、臨終の人のための秘跡と考えられていましたが、第二バチカン公会議は、病者に対するイエ スの特別な心遣いを思い、この秘跡を「病者の塗油」というふうに呼ぶことにしました。すなわち、この秘跡を臨終のときのものではなく、重い病気や老衰のた めに弱った人のためのものにしたのです。

この秘跡は、病気に伴う試練と誘惑に打ち勝つように助ける秘跡です。軽い病気の時には授けませんが、死ぬほどではないにしても重い病気、あるいは高齢でいつ死ぬか分からない時には、授けるべきです。それにより 心に平和が訪れ、本人もまわりもあかるくなるのです。

ヤコブの手紙にあるように、この秘跡には、罪をゆるすという効果もあります。

また、同じ手紙で、「主がその人を起き上がらせる」とも書いていますから、場合によって、この秘跡によって身体的にいやされることもあり、また常に、気落ちした状態から精神的に立ち上がらせることもあります。

私たちが病気にかかった時、この秘跡を進んで受けて、キリストと共に病苦をささげていく恵みを願いましょう。また、自分の周りにこのような状況にある兄弟姉妹がいる時、その人が所属している教会の司祭に連絡を取り、この秘跡を授けていただけるように配慮しましょう。
(カトリック新聞「典礼をやさしく学ぼう」「愛と永遠」ペトロ・ネメシュギ著より抜粋)


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11. 10月はロザリオの月

ロザリオはカトリック信者にとって、もっとも親しまれて いる信心です。信者がこの祈りによって多くの恵みを受けています。教会も常にロザリオの祈りを信者に勧めてきました。特にヨーロッパの教会の歴史で、教会 が危機にあった時、なお一層ロザリオの祈りを唱えることが求められました。

ロザリオは、聖母マリアにささげる「ばらの輪」という意味で、その信心は聖ドミニコによって始められたと言われています。14世紀のはじめに、ヨーロッ パに強大な勢力を持ったアルビ派という異端が現れました。カトリックの教えを守るために聖ドミニコが、聖母マリアからお告げを受けて、この祈りを始めたと 言われています。

ロザリオの祈りは、キリストの救いのみ業に関する「喜び、苦しみ、栄光」のそれぞれに5つの黙想のテーマが与えられます。喜びは、イエスの誕生から少年 期のころまでの5つの場面、苦しみは、イエスの十字架の苦しみ、栄光は、イエスの復活、昇天、聖母の被昇天などを黙想します。従って、全部で3環が5連ず つ15連で成り立ち、1連は「主の祈り」1回、「聖マリアへの祈り」10回、「栄唱」1回を唱え、繰り返します。手に持って珠をひとつずつつまぐり、口で 唱えながら、キリストとマリアの生涯を黙想します。

ロザリオの祈りは繰り返しなので、誰にでも親しまれています。この単調な繰り返しが信仰生活においても日常生活においても大切なことなのです。

教会の暦では、10月7日は16世紀からロザリオの聖母の記念日となっています。このようなことから10月全体は、ロザリオの月と呼ばれるようになり、ロザリオの祈りは、特にこの時に唱える習慣があります。(「カトリック冠婚葬祭」泉富士男著参照)

12. バチカンについて

バチカン市国
カトリックの総本山であるバチカン市国は、法王を元首とする独立国でローマ市の中心部にあり、その面積は440,000㎡、人口約1,000人という世界で最も小さい国ですが、国際的にも国家として承認されています。

バチカン市国の最高責任者は教皇ですが、現実にはバチカン市国行政委員会によって運営されています。全般的に言って、教会法に従って運営されています が、教会法が適用されない部分については、ローマ市の民法に従います。政治的には中立であって、独立国のすべての権利と義務を持ちます。

従って、教皇庁国務省は、世界の諸国と同様に、諸外国と外交関係を持ち、使節を交換しており、日本とも互いに大使を交換しています。国旗、紋章はもちろ んのこと独自の貨幣、郵便切手を発行し、切手収集家を喜ばせています。放送局、天文台、発電所、新聞社もあり、かのミケランジェロの彫刻や絵画で知られる システィーナ礼拝堂を始め、図書館、博物館、絵画館などは世界によく知られるところです。

バチカンは、世界の諸国とくらべて確かに最小の国ですが、精神的な面からは信者十億人を包含する最大の国家のひとつとも言えます。

バチカン宮殿
聖ペトロ大聖堂の右側の柱廊の向こうに見える、多くの建造物の複合体。現在は、教皇の住居。宮殿には80の荘重な感じを与える階段と数千にのぼる部屋が ありますが、そのうちの数室だけが教皇によって実際に使用されています。博物館、画廊、部屋(たとえばラファエロの間)、開廊なども含めた巨大な建物をバ チカン宮殿と呼んでいます。 
(通信講座キリスト教入門・現代カトリック事典参照)

13. 祝福(祝別)
キリスト教でいう祝福とは、「神の恵みが人に授けられること」を言います。
God bless you(神のお恵みあれ、神の祝福があるように)という言葉が、それを言い尽くしています。

旧約聖書の祝福の概念は、子孫が多いことや仕事が繁栄していることが大事な要素となっており、祝福を受けているかどうかの目安でした。たとえば「必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子どもを増やし繁栄させる」(創世記17:20)。

新約聖書では、1、賛美、2、ある人または物に幸運があるようにという願望、3、ある人または物を神の用に奉献すること(=祝別)を意味しています。神の祝福がイエス・キリストによって地上に実現された、とする考え方で、概念は非常に霊的になっています。

典礼用語としては、資格を与えられた聖職者が、人または物を神の用に奉献するために行う儀式を言います。または聖職者が祝別する人または物の上に神の恩恵を願い求める儀式をさします(=祝別)。

ミサの終わりに派遣の祝福がありますが、これは神が司祭の手を通して私たちを祝福してくださっていることを意味しています。キリストが使徒たちを離れて、 天にお昇りになったとき、彼らに祝福を 与えて、人々にご自分の教えと救いをもたらすように、おつかわしになりました。教会も、私たちを祝福しながら、ミサが私たちに与えたキリストを、他人に与 えるようにつかわしています。主の平和のうちにキリストの証人となるために家庭、社会の中に行きましょう。 (現代カトリック事典、キリスト教を知る事 典、キリストと我らのミサ参照)
14. 他のキリスト教について

東方正教会(オルトドクス)とギリシャ正教会
9世紀から11世紀にかけて、カトリック教会から分離した東方正教会が東ローマ帝国におこり、帝国の滅亡後はロシアに広まり、現在は東欧諸国に伸びています。この正教会にもいくつかの分裂があったようです。

日本には、ロシアのニコライが伝え、東京神田のニコライ堂や函館のハリストス正教会が有名です。香をたくさん炊き、多くのイコンの前でろうそくをともして祈るのが特徴で、たまねぎのような丸い屋根も正教会の特徴です。儀式はたいへん荘厳です。

聖公会(英国国教会)
16世紀、イギリスでヘンリー8世が、政略上の離婚をめぐって、これを認可しないローマ教皇と対立し、イギリス独自の教会を確立しました。彼は修道院の財 産を没収し、王権を強化していったのです。しかし、このようないきさつのため、儀式などは
カトリックと近く、純然たる新教を求める人々は清教徒(ピューリ タン)となりました。

聖公会は、正式には英国国教会といい、立教大学、聖路加看護大学などは聖公会の流れを汲むものです。儀式はカトリックに似ていますが、組織、司祭の妻帯性とか儀式の考え方は少し違います。

プロテスタント
新教徒とよばれ、一般にはマルチン・ルターが1517年に引き起こした宗教改革によって、カトリック教会から分離した人々を称してプロテスタントと呼びま す。カトリック教会の権威に対抗(プロテスタント)することによって、新しい教会制度を確立しました。彼らは個人の信仰を重んじ、儀式を質素にし、位階制 を廃止し、聖書を唯一のものとし、カトリック教会で聖書とともに認めている教会の歴史や殉教録、公文書、聖霊の助けのもとに使徒たちから代々伝えられた聖 伝を否定しました。

その後多くの宗派に分かれましたが、日本では、明治初年から宣教が始まり、明治期の文学者の間にも広まり、文化人にも影響を与えました。ルーテル、ユニテ リアン、カルバン、フレンド、バプチスト、メソジストなどさまざまな派があって、それぞれ礼拝やきまりが違いますが、日本では日本基督教団が最大のもので す。プロテスタントでは教会の指導者を、「牧師」とか、宗派によっては「長老」と呼びます。日曜日には集会を行い、聖書を読んで祈り、賛美歌を歌います が、カトリックのミサのような聖餐式は一般にあまり行なわれないようです。 
(「カトリック冠婚葬祭」泉富士男著、 「キリスト教ハンドブック」遠藤周作編、 「カトリックとプロテスタント」ホセ・ヨンパルト著 参照)

15. 聖体ランプ、聖櫃、聖体訪問

祭壇の奥、またはその左右のいずれかに赤いランプが灯されています。これを「聖体ランプ」と言い、キリストの「聖体」が安置されていることを示すと同時 に、キリストの永続的愛の象徴でもあります。この聖体ランプの近くに、小さな箱のような「聖櫃(せいひつ)」と呼ばれるものが置かれています。その中に、 キリストの聖体であるパンが安置されています。

カトリック教会の伝統では、ミサの中で、聖別されたパン(聖体)をミサに与れない人、特に病気の人や身体の不自由な人の所へ運ぶという習慣があります。また信者は、ミサ以外の時にも聖堂を訪ねて祈りを捧げる、という習慣もあります。これを「聖体訪問」と言います。

なお聖体ランプは、キリストの死を記念する聖金曜日を除いて、いつでも灯されています。
(「カトリック冠婚葬祭」泉富士男著 参照)

16. 聖香油

人間は、生活において「水」と同じように「油」を欠くことができません。食用として料理や食卓にのるだけでなく、医療薬としても、灯火の燃料としても古代 から重宝されていました。儀礼において油を用いる宗教がありますが、それはそこに秘められたこのような力を象徴的に解し、表現しているからです。

イスラエルの民にとっても油は貴重なものでした。地中海の沿岸の地域に実るオリーブから作られた油は、彼らにとって幸いをもたらす源〔いのちの糧・力・豊 穣・多産・祝福〕であり、救いの恵みの象徴として聖書にも扱われています。民に新しい力をもたらし、いのちを再生へと導く油は、神の恵み・聖霊の注ぎを表 すしるしとして塗油の儀式で用いられるようになりました。旧約においては、預言者・祭司・王は神から招かれた者として油を注がれました。そして使徒たち は、イエスこそ待ち望まれた救い主「クリストス(油を注がれた者)」であると宣言しました。弟子たちは、キリストの内に注がれた同じ聖霊に満たされていま す。彼らは病む者のために油を塗って祈り、癒しの霊を与えたの
です。

古代から教会では入信に際して、神の子としての消えない封印を押されたことを表すために塗油が行われていました。また叙階においては、人を聖化するための 塗油も行われていました(3世紀)。4~5世紀になると 、入信に用いる油〔聖香油:堅信と叙階〕と悪霊からの開放をもたらす洗礼志願者の油、そして病か らの回復を願う病者の油が典礼的に確立していました。その当時、聖香油は香料バルサムを混ぜ、司教が聖木曜日に祝福しましたが、他の油は司祭も祝福できま した。10世紀からローマ典礼では、志願者の油も病者の油も聖香油とともに、聖木曜日に司教が祝福するようになりました。
(「家庭の友」なんでも質問箱/ 回答者 南雲正晴神父 参照)

17. 黙想会と黙想の家

黙想とは、考察的な祈りのことをいいます。黙想の対象は、信仰上の神秘、神が自分に何を望んでいるかをいっそうよく知ること、神が黙想している本人からど のように奉仕されることを望んでいるかについて神意を知ることの3つがあげられます。(語源はラテン語の、meditatio「よく考える」)。

黙想会とは、日常の生活環境や仕事から一定の期間離れて、自分の霊的生活に必要な決心をするために、孤独な場所に引きこもり、黙想、反省、祈りのときを過 ごすことをいいます。この慣習は、キリスト教以前からありましたが、キリストが40日間荒野で過ごした模範にならって、キリストに従う者ができるかぎりこ れを見習うべきであることは神からの啓示の一部となりました。

すべての司祭と修道者は、一定期間の黙想会に参加することが義務づけられています。ピウス11世教皇は、次のように書いています。「人々が1ヶ月間、また は8日間、またはそれ以下の期間、完全なキリスト教徒としての生活を送るための修行を行うための黙想の家が数多くいたる所に作られ、大いに利用されること を望む」と。

一般の信者でも休日などを利用して、祈りと思索のうちに、信仰を深めるため、修道院や黙想の家に滞在し、指導を受けたり、修道院の祈りの時間に共に参加す ることができます。教会のグループや修道会が、会を知ってもらうために主催するのもありますが、個人で究明や霊的読書のために日帰り、あるいは泊りがけで 滞在することができます。黙想の家には聖堂もあり、十分に祈ることができます。

黙想の家、祈りの家、瞑想の家の案内「あわただしい日常生活を離れて静かに祈るために」という小冊子がありますので、ご利用ください。
(「現代カトリック事典」、「カトリック冠婚葬祭」泉富士男著 参照)

18. BCとAD

キリスト教起源のことばですが、宗教とは関係なく一般化し、国際化している西暦の表示法。そして、キリスト降誕を起点として、紀元前(BC)と紀元後 (AD)としています。BCが「Before Christ」と英語であるのに対し、ADは「Anno Domini(主の年の意)」とラテン語。現在使われている西洋暦は、ディオニシウス・エクシグウス(550年没)の算定によるキリスト降誕の年を紀元1 年としていますが、現代の学者の間では、キリストの誕生は実際にはこれより数年早かったというのが通説です。紀元前4年のヘロデス大王の死(マタイ 2:19)を根拠に紀元前7年から4年までの間という説があります。クリニウスによる戸籍登録(ルカ2:1~2)を根拠に紀元6年にキリストが生まれたと いう説もあります。

ところで、イスラエル共和国では独自の暦を使用していて、その暦(ユダヤ教に基づく宗教暦)では太陽暦の3~4月ごろを「ニサンの月」といって、これが昔 は正月でした。今はティシレーの月(秋)が正月です。このユダヤ教暦は太陰暦(月の満ち欠けで数えるもの)であり、その紀元は西暦とは違い、たとえば、 1989年9月30日が、ユダヤ暦の紀元5750年1月1日となります。このユダヤ教紀元の起点は、天地創造の時ということのようです。

なお、イスラエル共和国ではBCの代わりにBCE(Before Common Era)を使い、ADではなくCE(Common Era 共通暦)といいます。あのナザレ出身のイエスを、預言者と認めてもキリスト(救い主)とは認めないのがユダヤ教の立場なので、Before Christは使わないわけです。ただし、カレンダーなどには西暦も表示してあるものが多く、つまりユダヤ暦と共通暦の併用にしないと、国際的付き合いに 支障をきたすからです。

19. グレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)

教会、修道院等でローマ典礼(ミサ、聖務日課等)を歌う際に使用されるラテン語単旋律聖歌。基本的に単声、
無伴奏で歌われます。
この聖歌の最初の集大成を指揮したと伝えられる教皇聖グレゴリオ1世(在位590~604)への敬意をこめて、グレゴリオ聖歌と呼ばれています。

現在完全な形で残っているものは、9世紀までさかのぼることができ、その萌芽は4世紀からすでにみられ、さらにギリシャおよびヘブライ(ユダヤ教)起源にまで思いをおよぼすことができます。

作曲は多くの無名の作曲家によってなされており、最盛期は10~13世紀でした。ルネッサンスに入ると古臭い音楽として蔑視され、また多くの改悪が行われ衰退していきました。

19世紀中頃より、フランス・ソレムのベネディクト会修道院を中心として、復興運動がはじまり、古文書の解説による本元的な姿の追求と、歌唱法の研究が精 力的に行われるようになりました。これらの努力は、20世紀に入って実を結び、教皇聖ピオ10世は、教会音楽についての有名な回勅でグレゴリオ聖歌に典礼 聖歌の首位の座を与え、それ以降も全世界の教会、修道院で積極的に使用されるようになりました。

第2バチカン公会議の結果、典礼の国語化が協力に進められるようになりましたが、公会議後出された典礼憲章に於いても、グレゴリオ聖歌をローマ典礼用聖歌の第一のものとして明記してあります。

国語化の進展に伴って、グレゴリオ聖歌は教会でほとんど使用されなくなりました。しかし、不思議なことに多くの人々が、CDによってこの聖歌の魅力に触れ、静かなブームになっています。

この聖歌について、日本におけるグレゴリオ聖歌研究の第一人者水嶋良雄エリザベト音楽大学院教授は、次のように述べています。「喝采を博するなど露ほども 考えず、ただひたすらな祈りだけを求めて歌いつづけてきたグレゴリオ聖歌であったが、その純粋な思いが、この聖歌に計り知れない高みと永遠のいのちを与え てきた。」

なお、膨大な曲のうちごく一部が、当教会に常備されている「カトリック聖歌集」に載せられています。
(501~584番)

20. 教父(Fathers of the Church)
古代教会の著述家たちのうち、教会が信仰の特別な証人と認める聖なる人物のことをいいます。教父と認められる4つの主な特徴は、教会古代に属し、正統信仰を保ち、聖性に優れ、教会が「信仰の特別な証人」と認めていることがあげられます。

まだキリスト教神学が確立されていないころ、彼らの信仰、主張が教義的なものとされましたが、さまざまな神学論争を生みつつ、後世のキリスト教神学を形成していきました。

教父たちの中で有名なのは、アウグスティヌス(354~430)、ベネディクトゥス(480~546、西方の修道生活の祖)らであり、特にアウグスティヌ スは、過去4世紀に及ぶ伝統を統合し、悩みの種だった教義問題を解明し、神についての知識を集大成するなど、西方キリスト教神学の確立に大きい影響を与え ています。

ふつう西ヨーロッパ教会系の「ラテン教父」と、東方教会系の「ギリシャ教父」の2つに分けられています。今日では「ラテン教父」はセビリアの聖イシドルス (560~636)を持って終わり、「ギリシャ教父」はダマスコの聖ヨハネス(675~749)を持って終わったと一般に認められています。

ミサの中で「私たちの教父ヨハネ・パウロ2世」という言葉がありますが、これは典礼が日本語になったとき、「教皇」の「皇」の字が「天皇」のイメージと重なるため、教皇様を親しみをこめて「パパ様」と呼ぶことから「教父」と訳され、現在も使われています。 
(「現代カトリック事典」「キリスト教を知る事典」外村民彦著 参照)

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21. エホバの証人

エホバの証人をキリスト信者として認めることは難しいことです。なぜなら、まず使っている聖書が正しいものではありません。自分の都合で、いろいろな箇所 を書き直しています。また、カトリックだけでなく、正教会やプロテスタント教会の圧倒的多数派が、キリスト信仰の基礎として信じているキリストの神性を、 エホバの証人は認めるどころか激しく否定しています。

彼らが強調している「エホバ」の名前は、現代のすべての聖書学者が間違っていると、指摘しています。例えば「Encyclopedia Americana(アメリカの大辞典)」の16巻8頁に次のように書いてあります。「エホバ。聖書に書いてあるイスラエルの神の間違った発音」。彼らは 神に向かって、エホバだけ使わなければならないと一生懸命に強調しています。

「エホバの証人」の起源、また根本的教えは、その創立者が決めたキリストの再臨とこの世の終わりのことです。
1876年ころ、エホバの証人の創立者C・T・ラッセルは、独自の聖書解釈により、キリストの来臨は見えない形で2年前に既に行われたと決定しました。と ころが、1914年から2914年までの千年間、地上のキリストが見える形で君臨し続けると宣言しました。その予言に基づき、エホバの証人は作られまし た。1914年にそれが実現せず、その代わりに第一次世界大戦が始まりました。キリストの君臨の始まりをエホバの証人は2~3回延ばしました。数年前ま で、見える形で君臨が始まるのは、第一次大戦のときにいた誰か、しかもその誰かが生きている間に起こるという宣言でした。その人々は既に非常に少なくな り、最近再修正して「いつだろうか、知らない」と告白し、エホバの証人の信仰の基礎を捨てました。このことを知っていて、彼らの教えを信じる人がいるで しょうか。 
(「家庭の友」なんでも質問箱より参照)

22. ミサについて

ミサはもちろん昔からミサと呼ばれてきましたが、最初からそうだったわけではなく、5世紀ごろから一般的になったようです。それ以前には、種々の名称があ り、集まり、感謝、賛美、奉献、ささげもの、パンをさくこと、奉仕、といった意味のギリシャ語やラテン語が用いられていました。これらの名称はいずれもミ サの大切な要素を表しており、一つの名称では表現しつくすことのできないほどのミサの豊かさを今日でも私たちに教えてくれています。今の日本の教会でも、 感謝の祭儀という名称を用いて、ミサのもつ豊かさを表そうとしています。

さて「ミサ」ですが、もともとは祭儀の結びの派遣のことば「イテ・ミサ・エスト(行け、終わった)」というラテン語から出たといわれています。初めの段階では解散することや結びの祈願といったミサの結びの部分だけをさしていたのですが、次第に祭儀全体を表す名称として使われるようになっていきました。

派遣のことばからとられた「ミサ」という語が今、祭儀全体の名称となっています。ミサという名称は、ミサが生活の場への、そして福音宣教の場への派遣にほかならないということを私たちに伝えようとしているのかもしれません。 
(「教会所在地」94年版参照)

23. クリスマスについて

待降節(Advent
クリスマスの準備をする祈りの習慣で、日曜日を4回含み、11月30日の聖アンデレの祝日に最も近い日曜日を待降節第1主日とし、12月25日のクリスマスの週の日曜日が、待降節第4主日となります。教会の典礼暦の1年の始まりでもあります。

日本では、もう11月からクリスマスの飾り付けを始めるところがありますが、 教会では待降節第1主日から飾り付けを始め、今年(2002年)は、12月1日が待降節第1主日にあたります。

英語のadventは、重要人物などの出現、到来を意味し、この語の頭文字が大文字になると、イエス・キリストの来臨(クリスマス)を指します。

クリスマス(Christmas)
クリスマスは、「キリストのミサ」(礼拝)であり、非常に宗教的な行事です。イエス・キリストが誕生したとされる12月25日は、世界中のキリスト教国で祝われています。

イエスの降誕日は、3世紀ころには5月20日と推測されていました。主キリストの誕生が、典礼において祝われるようになったのは、4世紀初頭のことのよう です。初めはヨルダン川での洗礼者聖ヨハネからの受洗と一緒に誕生が祝われたようです。ローマでは、336年12月25日に祝われていることが確認されて います。

12月25日という年末に祝うようになった習慣は、教会が異教の祝祭日をキリスト教化していく過程で、冬至と新年を祝う祭りを残したものと見られています。4世紀後半にはクリスマスは毎年祝われるようになったようです。
「Xマス」という表記は、ギリシャ語のキリスト(Χριστδς)の頭文字Xに「mas」をつけたものです。

降誕節(Christmastide)
一般にクリスマス前夜からキリストの公現の日までをいいます。公現祭(Epiphany)とは、異邦人への救い主の公現を祝う日で、クリスマスから12日 後の1月6日にあたります。日本では、元日の次の日曜日と決められています。東方教会で3世紀ころに始まりました。始めはキリストの受洗の(時には降誕 の)祝日だったのが、4世紀ころ東方の博士が星に導かれてキリストの降誕を礼拝しにきたことを祝う日となりました。

 ヨーロッパではクリスマスの飾り物は、この1月6日まで続けられています。
(「キリスト教を知る事典」外村民彦著参照)

24. イコン

イコンは、東方キリスト教会の社会で広く用いられ、深い崇敬を受けてきた『板絵』です。

イコンは、像を意味するギリシャ語の『エイコン』を語源とし、キリスト教の礼拝のためのもので、聖母子・キリスト・天使・聖人などの像が多く存在します。

イコン画家たち自身が深い静寂と祈りの『行』のなかにあって、それらを描き、書き残したものです。

それは、見るためだけの絵画ではなく、心の目で観想し、黙想し、神を体験する手段です。イコンそのものは、礼拝の対象ではなく、それらを通して、聖なる方を礼拝するためのものです。

優れたイコンの前に立つ時、表面的にあらわされている悲しみや痛みの表情の奥に、何ものにも動かしがたい神からの真の喜びや、優しさ、高められた愛に出会うでしょう。

<松原教会の聖櫃前のキリストのイコンの説明>

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イコンの起源は、ロシア正教会(1600年ごろ)です。現在、ドイツのレックリンハウゼンのイコン博物館に保存されているイコンのレプリカです。

 キリストはこのイコンに「パントクラトル」、すなわち全能者および宇宙の支配者として表現 されています。いつも髪を長く伸ばしている形で、古代ユダヤ教のナジル人を思い起こさせるキリストの姿です。また青い外套を身に付けています。それは人間 イエスの神性のしるしです。彼の力強い首は神の みことばであり、聖霊に満たされ、命の息吹であることを示しています。キリストの頭部から十字架のしるしがついた輪光が光り輝いています。十字架からキリ ストの栄光が世界に輝いたからです。この輪光に刻まれたことばは「わたしはあるという者だ」です。

 

25. エキュメニカル運動

キリスト教は二千年の歴史の中で、さまざまな教派を生んできました。大きくはローマ・カトリック、正教会、英国教会、プロテスタントなどです。分裂が続い た一方で、教会一致の試みも長く続けられてきましたが、信仰上の論争やそこから生じる人間的争いが絶えませんでした。それが20世紀になって「キリスト教 会の一致」を目指す動きが活発化しました。こうした考えを「エキュメニズム」(ecumenism)、その運動を「エキュメニカル運動」と呼んで
います。

プロテスタントでは、1910年にスコットランドのエディンバラで開かれた第一回世界宣教会議が、超教派を目指す会議として特筆されます。この会議は1948年に「世界教会協議会」(WCC)が結成されるきっかけと
なりました。
 
ローマ・カトリックでは、1962~1965年に開かれた第2バチカン公会議で諸教会との一致を討議し、「エキュメニズムに関する教令」として決定されま した。その教令の書き出しは「すべてのキリスト者の間の一致再建を促進することは、第2バチカン公会議のおもな目的の一つである」となっています。

以来、キリスト教の中では、カトリック、プロテスタントを問わず、同じイエス・キリストを信ずる者として、同席して祈りをし、会合を持ち、社会的運動にも協力して参加しています。

また、エキュメニズムを広く見ると、ただキリスト教だけでなく、世界の諸宗教の間の交流、理解も、1960年代以来深まっています。1986年にはローマ 教皇の提案によって、世界の各宗教の代表が集まって「世界平和の祈り」の集会がイタリアのアッシジで開かれたのもその一例です。
(「キリスト教を知る事 典」外村民彦著 参照)

26. 聖人

新約聖書の中で、キリスト信者全般の名称として「聖徒」または「聖なる人々」が用いられています(コロサイ1:2)が、「聖人」という称号は、初期のころ から聖徳にひいでた人々にだけ限定されていました。厳密な意味では、聖人とは、生存中に英雄的な徳の実行によって目立ち、教会が通常の普遍的教導権をもっ て聖人と宣言した人々、あるいは「列聖」と呼ばれる荘厳な宣言によって聖人と宣言した人々をいいます。教会がある人の聖性を公に認めることは、その人物が 天国の栄光の中にいること、全世界の人々がその聖人に取り次ぎを願ってよいこと、その人の生存中の徳あるいは殉教死は、キリスト教信仰の証言であり、模範 であることを意味しています。

教会は一年を周期として、特定の日と季節にキリストの諸秘儀、または救いのみわざをたたえるとともに、聖母マリアをはじめ殉教者・諸聖人の記念を行いま す。こうして教会暦は、キリストの事績を中心とする主日・祭日・典礼季節と、聖母・諸聖人を記念する祝日との組み合わせから成り立っています。
(「現代カ トリック事典」「聖人略伝」 参照)

27. イースター・エッグ
復活祭に教会では、きれいに色をつけた卵をくばります。古代において卵は春の印(シンボル)であり、人々は卵を互いに贈り物として与えました。またこの卵 から、殻をわってひよこが生まれることから、キリストが墓を開いて復活されたことになぞらえたものであるとも言われています。

卵に色をぬるのは、十字架の血や復活の喜びを表すためです。復活祭に卵を食べるということは、私たちがお正月にお餅を食べるようなもので、本当のところその起源ははっきりしていません。

キリスト教の初めのころは、四旬節中に卵を食べることを禁止していました。復活祭のその日からそれまで食べずにいた卵を食べることができる、それでこの日は特別に卵を祝別したという説明もあります。
(通信講座キリスト教入門 参照)
28. アレルヤ、ホサナ

アレルヤ(Alleluia)
ヘブライ語でhallelujah、「ヤーウェを賛美せよ」「主をほめたたえよ」という意味。語源はhalelu「たたえる」+jah「ヤーウェ」。古典典礼において、とくに詩編において、歓喜を表す語で、現在では聖務日課と聖体祭儀において使われています。キリスト教会の讃美歌でも「ハレルヤ」の言葉を使った歌詞が多くあります。ローマ・カトリックのミサで最もよく知られているのは、復活祭の賛歌とミサのアレルヤ唱です。「ハレルヤ」は旧約聖書の詩編に非常に多く出てきます。詩編の最後の第150編は「息あるものはこぞって 主を賛美せよ。ハレルヤ」で終わっています。新約聖書ではヨハネの黙示録にでてきます(第19章1~6)。

ホサナ(Hosanna)
ヘブライ語の喜びと勝利の叫び声。詩編118からとられた語で「どうか私たちを救ってください」という意味。語源は ho si a na「どうぞ救ってください」、歓呼の声。
ユダヤの仮小屋の祝日の期間中、祭壇の周囲の行列のときに司祭が唱えるか歌うかしました。ある節が唱えられるとトランペットが吹き鳴らされ、しゅろの葉がうち振られ、歓呼の声ホシアナ(Hosiana)がくり返されました。
現在のミサでは「聖なるかな」(Sanctus)のときに司祭と信者が声を合わせてホサナを2回唱えるか歌うかします。枝の主日には、受難の数日前にキリ ストがエルサレムに入ったときに群集がホサナと叫んだことを見習って、しゅろの葉の配布と荘厳な行列の間にもホサナと唱えます。
(現代カトリック事典、キ リスト教を知る事典 外村民彦著 参照)

29. 列福・列聖 日本二十六聖人

●列福・列聖
ローマ・カトリックで、聖人の仲間に加えられることを列聖といいます。ある信徒や聖職者たちが、その生存中に聖なる生活を送ったり、あるいは殉教死したり した場合、その人物の死後に、生前の生涯、英雄的徳行、著述などについて調査し、第1段階として「福者」の列に加えます(これを「列福」といいます)。さ らに年月を経て調査を続けて、聖人に加える資格があると決定された場合、教皇によって「聖人とする」と宣言されます。これが「列聖」です。

最近では、日本でも活躍したフランシスコ会のコルベ神父が1982年に列聖されています。また「聖パウロ修道会」「聖パウロ女子修道会」「師イエズス修道 女会」など、「パウロ家族修道会」と呼ばれる5つの修道会の創立者、ヤコブ・アルベリオーネ神父が、今年(2003年)4月27日に福者に上げられまし た。「神の愛の宣教者会」の創立者、
マザー・テレサは10月19日に福者に上げられる予定です。日本人ではキリシタン時代に迫害を受けて殉教した日本二十六聖人があります。  

日本二十六聖人
1597年2月5日(慶長元年12月19日)、長崎・西坂の丘で、豊臣秀吉の命令によって処刑され、殉教したキリスト教徒たち。
1593年、フィリピンの使節として来日したスペイン人のフランシスコ会士ペドロ・バウティスタらは最初から活発に布教をしました。これが秀吉を刺激、さ らに1596年四国に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の積荷没収問題にからんで、キリシタン迫害がひどくなりました。

これをきっかけに、そのころ京阪地方にいたフランシスコ会士6人と日本人17人、これに自分から進んで捕らえられたイエズス会の三木パウロら日本人三人の計26人が、京都市中を引き回されたうえ長崎に送られ、十字架にかけられて槍で処刑されました。

26人は信仰の模範と仰がれ、1861(文久元)年から翌年にかけて、教皇ピオ9世によって聖人の列に加えられました。
(キリスト教を知る事典 外村民彦著 参照)

30. 死海文書(Dead Sea Scrolls)

パレスチナの死海近くの住居跡から発掘された写本や多くの断片を総称して「死海文書」と言います。

1947年の初夏、一人の羊飼いの少年が、死海を見下ろす崖によじ登った山羊を捕らえようとして、洞穴の中から何か古い書物らしいのを見つけました。

 
それが死海文書発見の最初でした。その後、周辺の洞穴や住居跡などで組織的な発掘がおこなわれました。その中で最も資料的に重要と見られるのが、クムラン 洞穴から出た文書でした。すべて羊皮紙でできており、紀元前2~前1世紀に書かれたものといわれます。亜麻布に包まれてつぼに入れられてあったため、保存 状態がよかったようです。
 
数百におよぶイザヤ書などヘブライ語旧約聖書の巻物や、旧約外典、宗規要覧(共同体の規律)などが含まれています。また、近くの別の場所からは、旧約聖書 の正典を筆写した写経室なども発掘されました。クムラン教団と呼ばれるユダヤ教の1つがあった場所と見られ、キリスト教の修道院のような組織があったよう です。
 

保守的学者は、これらの文書は紀元前170年と紀元68年の間に書かれたと主張しています。死海文書の中には、キリスト教の主要教義の痕跡はありません。 しかし、キリスト教信仰の意味解明に役立つ多くの類似箇所があります。現存する最古のヘブライ語の聖書の写本より古い写本の発見の意味は大きく、旧約聖書 の研究に貢献しています。今もこの一帯でおびただしい文書が発見されており、死海文書の研究に従事する欧米の学者が多くいます。出版される書物も無数で、 イエスについての異説も出ているほどですが、文書に対する体系的な評価はまだ固まっていません。 (キリスト教を知る事典 外村民彦著/現代カトリック事 典 参照)


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31. 聖母マリア被昇天
マリア被昇天とは、マリアが霊魂と肉体とともに天国に入ったという教理です。この教理は、ピウス12世教皇によって1950年に公に宣言されたものです。
 
聖書の中に、聖母の被昇天について直接の根拠はありませんが、マリアは恩恵に満ちた者だった(ルカ1:28)ことから論証しています。この教義は、聖書よ りもむしろ何世紀にもわたって伝達されてきた口述伝承の一部です。マリアは、地上でのキリストの救いの仕事に非常に密接に結ばれていたので、肉体の栄光に おいてもキリストと共にいるのは当然のことです。
 
なお、キリストの場合は昇天、ラテン語ではascensioと言いますが、マリアの場合は被昇天、ラテン語ではassumptioと言います。神であるキ リストは自ら天に昇ることができますが、人間であるマリアは自ら天に昇ることはできず、キリストによって天に上げられたことから、このように違った表現が 用いられます。
 

8月15日をマリアの祝日とすることは非常に古くからのことでした。「マリアの就眠」としてその死去を記念する伝統は、431年のエフェソス公会議の後間 もなく始まったと思われますが、東ローマ皇帝マウリキウス(在位582~602年)によって、それを8月15日に祝うことが定められました。東方正教会で は今でも、8月15日をマリアの就眠として祝っています。マリアの就眠を記念する習慣は、7世紀には西方教会にも伝わり、847年には教皇レオ4世によっ て、聖母の被昇天として8日間にわたって、祝われる祭日として定められています。
(「よくわかるカトリック」小高毅著/「現代カトリック事典」 参照)

32. 聖ニコラオ(サンタ・クロース)
ニコラオは、270年、小アジア(今のトルコ)のリシア州パタラに生まれました。財産家の信心深い両親に見守られて、知恵にも善徳にもすぐれたものとなりました。
 
両親の死後、莫大な遺産を相続しましたが、情け深いニコラオは、それを貧しい人にあげようと決心しました。その慈善のひとつに次のような話があります。
 
近所に貧しい靴屋が住んでいました。3人の美しい娘がいましたが、父は貧乏なので、嫁入りの支度金がどうしてもつくれませんでした。そのうちに父の心に魔 がさして娘たちを売り飛ばそうとしました。ニコラオはこれを知って、気の毒に思い、どうにかしてこの計画をやめさせようと決心しました。
 
ある夏の晩、ひとりの嫁入りに必要なお金を布切れに包み、それを例の靴屋の2階の窓の中に放り込み、暗闇に姿を消しました。靴屋一家は、このお金は天のお恵みだといって神に感謝し、長女の結婚を滞りなくすませました。
しばらくしてニコラオは、また次女の嫁入り金を同じように投げ入れました。靴屋の主人は、この名も知れぬ恩人は誰なのか、ぜひ知りたいと思うようになりま した。そして、三女の嫁入り金を投げ入れた時のことです。靴屋の主人は、お金の音に目を覚まし、闇に逃げたニコラオに追いつきました。そしてニコラオの前 にひれ伏し「あなたは私どもを救ってくださった恩人です」とニコラオの足に接吻しようとしました。ニコラオはこれを押し止め、このことを人に話さないよう に誓わせました。
 
スイス、ドイツ、オランダなどでは、聖ニコラオの祝日は子どもの日になりました。聖人がかつてお金を窓に投げ入れ、三人の娘を救った伝説がもとになって、 聖人の祝日の前夜に子どもへそっとプレゼントをする習慣ができました。12月5日の晩、ベッドへ行く前に子どもは紙で作った小船か靴を用意したり、靴下を 窓際へかけておいたりします。すると聖ニコラオが夜通る時、お菓子と贈り物を入れてくれると信じています。
 
宗教改革の頃から、プロテスタントの地方では、この優しい司教の訪問を廃止して、贈り物を入れた袋を背負い、司教服になぞらえた赤服赤ずきんで長靴ばきの 好々(こうこう)爺(や)の形にかえ、それをクリスマスと結びつけてしまいました。名前も聖ニコラオをオランダなまりで「サンタ・クロース」と呼びまし た。
 
18世紀に「サンタ・クロース」は、イギリスにも渡り、クリスマスのプレゼントを窓からではなく、煙突から入って、暖炉やストーブのそばに用意しておいた 靴や靴下の中に入れることになりました。さらにこの習慣には北欧の伝説も加わり、ニコラオは8頭のトナカイのそりにおもちゃを乗せて北の国から訪れてくる のだ、と言い伝えられました。
 
オランダと英国から移住民が、この習慣をアメリカに移してからは、他の国にも伝わりました。日本でもクリスマスが近づくと、デパートや商店のショーウインドウや、新聞や雑誌の広告欄に「サンタ・クロース」の姿がよく
見受けられます。
 

信徒は、この物質的な世俗主義の宣伝を見るたびに、聖ニコラオの本当の姿とその美しい愛の教えを思い出して、これを自分の周囲の人にも伝え、聖ニコラオの愛の精神を自分の生活の中に生かすように努めたいものです。
(「教会の聖人たち」池田敏雄著 参照)

33. イエスかイエズスか

新共同訳聖書の人名の表記で一番問題となったのは「イエス」です。プロテスタントの聖書では「イエス」となっていますが、ロシア正教の日本ハリストス正教 会では「イイスス」、カトリックでは「イエズス」と表記してきました。同じ言語圏で、プロテスタントとカトリックで、このように違った呼び方をする例は他 にはみられないのではないでしょうか。

イエスはユダヤ人でありましたから、ヘブライ語風に発音すれば「イエシュア」となります。ところがイエスの生涯を記した福音書はギリシア語で記述されてい ますので、それはギリシア語化され「イエースース」と表記されています。これはさらにラテン語で「イエズス」と表記されることになりました。  カトリックが「イエズス」と表記したのはキリシタン時代からのことですが、これはカトリックがラテン語を共通語とし、儀式書、公式文書等はラテン語が用 いられてきたことによります。ラテン語でイエスはJesusと綴りますが、中世からの教会ラテン語では、母音に挟まれたSは濁るという原則があります。そ のため「イエズス」と発音されました。

 
新共同訳では、すでに一般に受け入れられている「イエス」という表記が採用され、この刊行にともなって、日本のカトリック教会の司教団は礼拝式での朗読に この「新共同訳」を使用することを決定しました。したがって、わが国におけるカトリック教会では全国どこの教会でも日曜日の礼拝式、ミサの中での福音書の 朗読では「イエス」と発音されているはずです。 
(「よくわかるカトリック」小高毅著参照)
34. 統一協会
キリスト教の名をかたって人を惑わす新興宗教があります。「統一協会」もしくは「原理運動」(正式の名は「世界基督教統一神霊協会」)もそのひとつです。
 
統一協会は、文鮮明という教祖によって1954年に韓国で創立された、陰陽道とシャーマニズムが一体となった新興宗教です。文鮮明は聖書を勝手に解釈し て、自分の都合のよいように用いますが、つまるところは、自分こそが再臨のメシアだ、と主張します。イエスがなしえなかった救いを、自分がもたらす、と言 います。「原理講論」という教典があって、これが真理を初めて明らかにするものとされます。
 
統一協会の教えについてはここで記述しませんが、どのような教えであれ、私たちにはキリスト教の正統信仰を見分けるために一つのかぎがあります。それは、 イエス・キリストをだれと言うか、を見ることです。イエスをとおして神が歴史の中でただ一回限り、決定的な仕方でご自身を啓示されたのだ、イエスこそ神の 絶対的な仲介者だ、と信じるのがキリスト教です。もしイエスがなしえなかったことを他の人がなす、というのであれば、それはもうキリスト教ではありえませ ん。また、聖書が明らかにしなかったことを、他の書物が啓示するというのであれば、それはもうキリスト教ではありえません。これはキリスト教信仰の真髄を なすことです。
「キリスト教に問う65のQ&A」百瀬文晃著参照)
35. モルモン教
モルモン教は、正式の名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」といって、1830年ジョセフ・スミスという人によって米国で創立されたキリスト教的な新興 宗教です。スミスは天使の啓示によって「モルモン経」という聖書を発見した、と主張しました。それによると、古代イスラエルの一部族が紀元前600年ころ アメリカ大陸に移住し、これがアメリカ・インディアンの祖先でした。イエス・キリストが彼らに現れ多くのことを教えたにもかかわらず、彼らは堕落して滅 び、ただ一人の生き残りであるモルモンがすべてを金の板に書き記して埋めた、と言うのです。その教えによると、今の世の終わりが近く、イエスは間もなく再 臨します。モルモン教徒は、自分たちこそイエスの再臨を準備する集団だと確信し、他のキリスト教の教派を誤りとして排斥します。
 
教祖のスミスは1844年に死にましたが、後継者ヤングは信徒たちを米国西部のユタ州に導き、ソルトレークシティーという町を築きました。この町は終末的 なエルサレムとされています。モルモン教徒の生活は道徳的に非常に堅固で、勤勉に仕事に精を出します。特に宣教活動に熱心で、すべての男子の信徒は2年 間、世界のさまざまな国で布教に従事することが義務づけられています。
 
モルモン教徒の倫理的なまじめさは尊敬に値しますが、その教えは架空の私小説に基づく、19世紀のアメリカの世界覇権の自負心に由来する、と言ってもよいでしょう。正統なキリスト教とは言えません。

(「キリスト教に問う65のQ&A」 百瀬文晃著参照)

36. 十字架の道行

聖堂の左右の壁には、14枚の絵、または十字架がかけられています。  これを「十字架の道行」と呼んでいます。イエス・キリストが、祭司たちや律法学者、ファリサイ派の人たちによって訴えられ、当時のローマ総督ポンティ オ・ピラトによって死刑の宣告を受けた場面から、自ら十字架を担い、刑場であるカルワリオの丘まで上り、はりつけにされて死に、葬られるまでの14の場面 が描いてあります。1つの場面を「留(りゅう)」(Station)と言い、ふつう祭壇に向かって左奥から第1留が始まり、時計と逆回りに進行して、右奥 で終わります。

中世の修道者たちは、イエスの受難をしのんでエルサレムに巡礼したいと思っていました。しかし交通が発達していないうえに、修道院から外に出ることが規制 されていた時代でしたから、せめて修道院の囲いのなかで巡礼と黙想ができるようにと、15世紀フランシスコ会の修道者が、修道院の庭にこの道行を作ったの が始まりだと言われています。

それで修道院などでは、聖堂内の他に、庭に作ってあるところもあります。信者は、たとえエルサレムに巡礼できなくても、どこの国の聖堂においても、その 「十字架の道行」をたどりながらイエス・キリストの死をしのび、十字架における神のわざを黙想し、祈ることができます。まれにキリストの復活の姿が描かれ た15枚の絵がかけられている場合もあります。特にキリストの受難の時期には、毎週金曜日に、これらの絵の1つひとつに信者が心を合わせて注目し、十字架 の道行の祈りをささげます。また共同で祈ることもします。
(「カトリック冠婚葬祭」泉富士男 著 参照)

松原教会の聖堂に、はめこまれている十字架の道行の壁画は、ルイ・フランセン師が昭和43年夏、九州の有田市の岩尾陶芸会社で製作したもので、他の十字架 の道行と少し違います。第1留「最後の晩餐」から始まり、
第14留「ご復活」で終わります。こちらをクリックしてください。

37. なぜ赤ちゃんに洗礼を授ける?

子どもの洗礼を授けることについて、よく次のように聞かれます。「どうして洗礼を授けて子どもの自由を奪うの?」「子どもを自由に成長させ、信仰や宗教は大きくなってから自分で決められるようにするべきでしょう」「なぜ彼らにキリスト教を押し付けるのですか?」

このような問いかけには、ある程度の説得力がありますが、問題の捉え方に見落としがあります。子どもは全く自由であるということはありません。子どもたち は成長して、物事を捉え、理解し、この世界で生きていけるようになるにしたがって自由になっていくのです。親は誰でも、人間や出来事についての見方、価値 観、先入観を子どもの心に植え付けています。様々な文化の中にある「ことわざ」や「格言」は、そのことを物語っているのでしょう。

子どもに洗礼を授けるとき、私たちはそこで子どもが本当に自由であってほしいという、深い、心からの望みを表明します。消費社会の操り人形になったり、偏 見に凝り固まったり、不正義を何とも思わず、他者に無関心で、自主性もないまま社会にまかり通っている愚かさを繰り返すような人にならないように。あるい は子どもたちが、理想や価値観もなく、霊的なよりどころもないまま、人生を漂流することがないようにと、望むのです。洗礼は本当の意味で温かく、霊的なよ りどころとなる家を子どもたちに与えます。それは、神の子として神への道を示し、同時に人の子として人の道、真に人間らしい生き方への道を示されたイエス の家にほかなりません。

洗礼が始まりにすぎないのはそのためです。両親や代父母は、洗礼にあたって次のことを約束します。子供たちを自己中心や競争心、その他の悪に任せないこ と。子どもたちの人生、危機、困難、闘いの時を、イエス・キリストとその福音に照らされながら共に歩むこと。そしてまず、自分たちの家庭、また教会という キリスト者の共同体が、子どもたちの心と体のよりどころとなるために、できる限りのことをすることです。

洗礼はお祝いの時です。同時に、新しいいのちに向かって生き始め、前進していく時でもあります。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書の最後の言葉28:20)(「ようこそ、愛する子」より)

38. テゼについて

「テゼ」は1940年にブラザー・ロジェによって、フランスのテゼ村で始められた男子の観想修道会です。彼は、そこにまず、ユダヤ人を中心とする政治難民 を迎え入れました。しだいに彼の周りには、キリスト教の様々な伝統(カトリックやプロテスタント等)を背景とする人々が、共同体とその独身の生活に自らを 捧げようと集まるようになりました。

現在、世界各地から集まった約120人のブラザーたちから成り、その中には、世界の貧困や分裂のただ中に生活しているブラザーたちもいます。

1957年以来、年を経るごとに増える青年の訪問者たちを迎え入れるために、年間を通じての毎週の集いが開かれるようになりました。毎日の祈りを通して、 また世界各地から集まる人々と共に信仰の源に戻ることによって、青年たちはその人生の意味を模索します。さらに毎年年末には、ヨーロッパの都市で十万人規 模の大会が開かれています。
同じような大会は、世界のほかの地域でも開かれるようになりました。

テゼでは、1日3回、ブラザーたちとテゼを訪れているすべての人が、共同の祈りに集まります。歌と聖書の朗読と沈黙からなる祈りの集いです。テゼの歌は、 現在世界各地に広まり、多くの言語で歌われています。
(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ著、 「テゼ共同体の歌」参照)

39. エウカリスチア

初代教会の信者は、キリストの生涯を思い起こしながら、主のことばに従って最後の晩餐の記念を行う礼拝集会を行ってきました。主の日に行われるこの集会はエウカリスチア(ギリシア語のeucharistia 感謝)と呼ばれました。

またこの「エウカリスチア」ということばが、日本語ではしばしば「聖体」と訳されることがあります。パンとぶどう酒の形態のもとにキリストが現存する秘跡を指すことばとして、エウカリスチアが定着したと考えられています。

ミサは「感謝の祭儀」ともいわれますが、「感謝する」ということは、「記念する」「聖餐にあずかる」「新しい契約」「奉献」「礼拝」などの概念へと広がっていく内容を含んでいます。 (「カトリックの教え」参照)

聖体大会
聖体への信心を促進するために開催される信徒の国際大会。
この大会は最初ガストン・ド・セグールの努力によって、1881年にフランスのリルにおいて地方大会として開催されました。やがて大会は今日のような国際的性格を持つようになりました。1908年にロンドンで国際聖体大会が開かれたとき、宗教改革以後はじめて教皇使節がイギリスに入国しました。


アメリカ合衆国では2回の聖体大会、すなわち1926年にシカゴで第28回大会、1976年にフィラデルフィアで第41回大会が開催されました。
(「現代カトリック事典」参照)
40. 聖体の顕示

司祭または助祭が聖体を聖櫃から取り出して、礼拝のために祭壇上に安置する儀式。
聖体の顕示と礼拝の儀式は、十四世紀に新設された聖体の祝日の影響によってとり入れられました。

一部の男子修道院および女子修道院では、聖体を常時顕示する特別許可を与えられていて、昼夜の別なく常時だれかが礼拝を続けています。

聖体降福式
ラテン式典礼のカトリック教会において行われる聖体に対する信心業。


伝統的な形式では、司祭は聖別された聖体を聖体顕示台に入れて、祭壇の上か祭壇上のくぼみに安置し、香を献じます。 賛歌を聖体を顕示するときに歌い、次に司祭と会衆による黙想と賛美と礼拝が続きます。

儀式の終わりに賛歌「タントゥム・エルゴ」を歌い、二回目の献香が行われ、顕示台を高くかかげて十字の形に会衆を
祝福します。

祝福のときに鈴を鳴らします。その後、司祭と会衆によって聖体賛美が歌われる、あるいは唱えられます。 第二バチカン公会議以後、聖座は伝統的な儀式を単純化し、祈り、歌、「信徒の注意力を主であるキリストの礼拝に集中させるため」の朗読のさまざまな自由選 択を許しました。(「現代カトリック事典」参照)

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41. 聖体拝領前の断食

聖体拝領前1時間は飲食しないこと。本来は、真夜中以後の完全な絶食を意味し、水を飲むことも許されていませんでした。臨終の聖体を受ける者だけが、この規定を免除されました。

ピオ十二世教皇は、1953年にこの断食の規定を緩和し、真夜中以後は固形食物とアルコール飲料を断つことだけに限定し、飲み物の摂取は聖体拝領一時間前 まで許可しました。パウロ六世教皇は、1964年に規定をさらに緩和し、実際に聖体を拝領する前一時間の絶食にし、水と医薬品は聖体拝領前のいかなる時点 までも許可しました。

1973年に聖座は、病人と老人およびその世話に当たっていて一時間の絶食が困難な人に対して規定を緩和し、拝領前15分の絶食にしました。(「現代カトリック事典」参照)

42. 聖櫃

聖体の安置を唯一の目的とした箱状の容器。教会初期には迫害の危険があったため、聖体は家庭に保管されていました。その後、鳩の形をした聖櫃が天井から鎖 で吊り下げられていました。現在の聖櫃は、木・石・金属の円形または四角形のものです。聖櫃の内部は、絹または貴金属で覆われ、聖体器その他の聖器具の下 には聖体布が敷かれています。

聖座の指針に従って、第二バチカン公会議以後、聖櫃は常に中央祭壇または脇祭壇に固定した堅牢なものではなくてはならず、常に聖堂内の優れた位置に設置しなければなりません。

そのようにカトリック教会の聖堂は、「ご聖体が安置されている聖櫃がある」という特徴を持っています。カトリック教会にとっては、儀式が行われていない聖 堂も「聖体が安置されている家」として、「神聖な建物」「神聖な空間」といえます。ですから、その中での立ち居振る舞いは、丁寧、敬虔、静粛でなければな りません。儀式のときは勿論、儀式の前後、一人で祈るとき、掃除をするときも、聖堂にはご聖体が安置されていることを意識して振る舞わなければなりませ ん。

今年は、「聖体の年」でもあります。ご聖体を意識して聖堂内での立ち居振る舞いを今一度見直してみましょう。(「現代カトリック事典」「吉祥寺教会報」参照)

43. 聖変化

聖変化は、ラテン語ではconsecratio 英語でconsecrationと言います。すなわち、パンとぶどう酒にすぎなかったものがconsecrationという特別の祝福によって本当にキリ ストの体と血に変わることです。それに深い意味と神秘性が含まれています。

ミサの時、聖変化に先立って「奉納」と言って、私たちはパンとぶどう酒を捧げます。どうしてパンとぶどう酒を使うかというと、ユダヤ人にとっては、パンと ぶどう酒は日々の生活の基本的な糧でしたから、これらを捧げることは、すなわち自分たちの実生活と命それ自体を捧げることの意味だったからです。もしキリ ストが日本人だった
としたら、最後の晩餐の時には、パンとぶどう酒の代わりに多分ご飯と味噌汁を捧げたことでしょう。

しかし、実際問題としてイエスはユダヤ人だったので、パンとぶどう酒を使いました。ユダヤ人にとってパンとぶどう酒は、それさえあれば人間が生きてゆける ものでした。パンは人間に生きる力、働く力、戦う力を与えるもので、ぶどう酒は、更に喜びのシンボルです。すなわち、ただ栄養を取って、かろうじて働ける だけでなくて、喜びに満ちた生活をおくるように召されていることを示します。奉納の時にパンとぶどう酒を捧げることは、私たちの実生活の悲しみと喜びを捧 げることを意味します。

もう一つのパンとぶどう酒の意味深さは、ご飯の場合と違って、麦の一粒一粒、ぶどうの一粒一粒が、パンとぶどう酒になるために個別したものとしては消えて つぶされて、両方とも個を越えて更に大きなものになることにあります。すなわち、自分を越えて全体の中で皆一つになってゆく。一人ひとりの成長を支えて、 自分自身も他人からの支えによって成長してゆくことを意味します。従って、ミサでパンとぶどう酒を捧げることは、私個人の変化だけではなく、個人の限界を 超えて皆と共に一つになって、皆と共に神の息吹に生かされて一つの家族、一つの社会、一つの
キリストの体になってゆくことを表しています。
(「ミサ 神の 愛の確認」 イシドロ・リバス著 参照)

44. 「これをわたしの記念として行いなさい」

イエス・キリストは最後の晩餐において新約の過越祭を制定し、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と使徒たちにお命じになりました。コリントの信徒への手紙一の中で、次のように記されています。

「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなたがたのためのわたしのからだである。わたしの記念 としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事のあとで、杯も同じようにして、『この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む たびに、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主 の死を告げ知らせるのです」(11・23-26)

教会はミサにおいて「主イエスの死と復活の記念」を行います。「記念(アナムネシス)」とは、キリストの死と復活の神秘が「今、ここで」現在化されること を意味します。イエスの死と復活という出来事は、ただ一回限りのものでした。しかし、その意義と結果(恵み)は時代と場所を超えて伝えられていくべきもの です。わたしたちは、ミサが挙行されるたびに、救いの恵みを実際に受けることができます。
(「ミサ きのうきょう」ピエール・ジュネル著参照)

45. 「取って食べなさい。みな、この杯から飲みなさい。」

四百年頃に書かれたエルサレムのカテケーシスに次のように書かれています。

あなたが祭壇に近づくとき、手のひらを伸ばしたり、指を広げたりしてはなりません。左手を右手の玉座のようにしなさい。右手は王様を迎えるのですから。そ して、あなたの手のくぼみにキリストのからだをいただき、同時に
「アーメン」と言いなさい……。キリストのからだを拝領してから、御血に近づきなさい。

信徒が「アーメン」と唱えるのは、聖アンブロジオが伝えているように、「キリストのからだ」と唱えながら聖別されたパンを差し出す司祭のことばへの応答で す。聖アウグスチヌスは司祭と聖体拝領者の間に交わされるこの短い対話について、語っています。信徒はキリストのからだを拝領すると同時に、キリストの神 秘体に対する信仰を宣言するのです。

八世紀から九世紀にかけて、旧約聖書にある祭式の慣例がキリスト教の典礼に入り込んできました。そこで、西方教会の感謝の祭儀には醗酵させたパンの代わり に、過越の食事に供される種なしパン(出エジプト記12・15)が用いられるようになります。後には、食事のさまざまな象徴に代わって、キリストのからだ と血を汚してはならないという恐れのまじった崇敬が打ち出されたあまり、キリストのとうとい血の拝領は廃止され、ひざまずいたまま舌を出して、
種なしパン (聖体)の小片をいただくことになってしまいました。第二バチカン公会議後、信者はようやく、かつてのように群れをなして祭壇に進み、キリストのとうとい からだをいただくために手を差し出し、「アーメン」と答え、望むならば聖なる杯からキリストの御血を拝領できるようになりました。
(「カトリック教会の教 え」参照)

46. 聖体拝領とおじぎ

聖体拝領の前後に何回もおじぎをする人が目に付きます。合計五、六回は礼をしているでしょうか。
「神であるキリストの聖体」に対する尊敬を表しているのでしょうが、考えると少しおかしい。

聖体拝領は「これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体である」と言うイエスのことばに促されて祭壇に向かって行われます。だから、 まず司祭が持っているご聖体に一礼するのは理解できます。問題は拝領後です。キリストの体は拝領した人が頂き、その人の中でキリストとその人との深い一致 が実行されています。礼の対象は拝領者自身の中に受け取られています。いちばん大切にしなければならないのは、その人の中で行われている
キリストとの深い 一致です。

そのことにすべてを集中するのです。祭壇にも聖櫃にも司祭にも、おじぎをするのは場違いです。ご聖体を手の上に頂いたら、右か左に一歩動いて、次の人に道をあけ、ご聖体を口にいれて拝領し、そのことに集中して、おじぎをせずに席に戻りましょう。
(山本襄治「聖体―教会の日常生活の中で―」 カトリック新聞 二〇〇〇年七月二三日付 参照)

47. 「シノドス」

「シノドス」はもともと「ともに歩む」という意味のギリシア語で、一定時に会合する司教たちの集会です。教皇と司教たちとの関係を深め、信仰および倫理の 擁護と向上、規律の遵守と強化のための助言をもって教皇を補佐します。また、世界における教会の活動に関する諸問題を研究します。

シノドスは、提起された問題を討議し教皇に意見を具申しますが、決定機関ではありません。会議に関する権限はすべて教皇にあります。会議の招集、代議員の指名・任命、会議要綱の決定、会議の主宰、閉会、延期、解散などは教皇の権限で行われます。シノドスには、通常総会と臨時総会があります。特定地域または複数の地域に直接に関連する問題を取り扱う特別会議が開催されることもあります。通常シノドスは、1967年の第一回からほぼ2~4年ごとに開かれています。

今年10月2日~29日バチカンで、聖体(エウカリスチア)をテーマにしたシノドスの11回目の通常総会が開催されます。このシノドスをもって、故ヨハ ネ・パウロ二世によって定められた「聖体の年」は閉じられることに
なります。
(「教会情報ハンドブック2005」参照)

48. 引越しするときには…転出入の手続き

地域外に転居するときは、所属教会(小教区)の主任司祭に申し出て、転出の手続きをします。教会備え付けの「転出証明書発行願い」という用紙に必要事項を 記入しますが、この用紙は二枚複写で、二枚目が本人持参用の「転出証明書」になっています。その「転出証明書」のほうに教会印と主任司祭の署名をもらい、 転出先の教会の主任司祭に手渡します。 本人のすることは以上ですが、その後、「転出証明書」を受け取った教会の主任司祭は、前の所属教会あてに「転出信 徒記録票送付願い」を出し、それを受けて前の教会の主任司祭は「信徒記録票」を新所属教会に送り、転出入の手続きが完了します。(「教会情報ハンドブック 2005」参照)

49. 信者の家族が亡くなったら…葬儀について

信者の家族が亡くなったときは、日取り、場所、式次第など、短時間のうちに相談して決めなければならないことが
たくさんあります。できるだけ早く所属教会(小教区)の主任司祭に連絡を取り、その上で葬儀社とご相談ください。

また、所属教会以外で葬儀を挙げた場合も、必ず死亡日、死亡場所、葬儀場所を所属教会までご連絡ください。
(「教会情報ハンドブック2005」参照)

50. ラテラン教会の献堂とは

ローマのラテランにある教会堂は、324年、ローマの司教(教皇)座が置かれる教会として、コンスタンティヌス大帝によって建てられたと言われています。 その献堂の記念日が、11世紀以来、11月9日に祝われるようになっています。14世紀末に、ローマ教皇の住まいはバチカンに移されますが、それからもラ テラン教会は、「諸教会の母」である教会として、ローマ教皇を中心とするカトリック教会の結びつきのしるしとして、尊敬を集めてきました。

教会堂という建物の献堂とは、いつも、どこでも、教会を成り立たせている人々の信仰の結びつき、その共同体の誕生と成長の目に見えるしるしです。ラテラン の教会がカトリック教会の広がりや成長のために果たしてきた歴史上の役割を思いながら、その始まりの日を思い起こすことは、当然、わたしたちの教会の誕 生・成立に至る宣教の歩みと、歴史の上に現れる神の計画に思いを向けることでもあります。
現代を旅する教会の一致とさらなる成長が、今日のミサを通して祈られます。
(「聖書と典礼」1997年11月9日付参照)


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51. 世界平和の日

教皇パウロ六世は今から37年前、ベトナム戦争が激化するなか、次のように呼びかけて「世界平和の日」を制定しました。

「1968年1月1日、新年の最初の日に全世界で『平和の日』を催すことをすべての善意の人々に呼びかけたいと思います。今後、毎年、人類の歩みの時を刻む暦の最初の日に、このような催しが繰り返されることを心から望んで
います」。

それ以来、全世界のカトリック教会は毎年1月1日を「世界平和の日」とし、戦争や争い、憎しみ、飢餓などのない
平和な世界がくるように祈っています。

平和はキリスト教そのものの中に深く根ざしています。キリスト者にとって平和を唱えることは、キリストを告げ知らせることにほかなりません。「キリストはわたしたちの平和」(エフェソ2・14)とあるとおりです。
(「教会所在地96」参照)

日本の司教団は2005年、戦後60年にあたって「非暴力による平和への道~今こそ預言者としての役割を~」という平和メッセージを発表しました。そし て、最近の世界情勢や日本と近隣諸国との関係を見たとき、今こそ平和の
ために祈り、わたしたちにできることを行動に移していくことが必要だとの共通認識を 持ちました。

52. キリスト教一致祈祷週間

一致祈祷週間は、伝統的に、1月18日~25日です。この日付は、1908年、ポール・ワトソンによって提案されたもので、聖ペトロの祝日と聖パウロの祝日(聖パウロの回心)をむすぶ期間です。すなわち、日付そのものに象徴的意味があります。

「すべての人を一つにしてください」という最後の晩さんでのイエスの祈りに耳を傾けるわたしたちはまた、折にふれて目に見える一致を示すように求められて います。それは、ともに祈り、支え合うことによって、神がすべての人の救いのためにイエスを遣わしたことを「世が信じる」ためです(ヨハネ17・ 21-23)。

キリスト教諸教会の間で毎年定められている一致祈祷週間は、このことを強く意識する機会になるでしょう。この一致祈祷週間のために、教皇庁キリスト教一致 推進評議会と世界教会協議会は1968年以来、毎年テーマを決め、「礼拝式文」と「八日間のための聖書と祈り」を作成しています。日本ではカトリック中央 協議会と日本キリスト教協議会で翻訳し、小冊子を発行しています。

53. カトリック児童福祉の日

「カトリック児童福祉の日」は、子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。

この日はまず、第一に、子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金をささげます。毎日のおやつや 買いたいものなどを我慢してためた子どもたち自身のお小遣いの中から献金することが勧められています。日本では、各教会だけでなく、カトリック系の幼稚園 や保育園の大勢の子どもたちがこの日の献金に協力しています。

この日の献金は全世界からローマ教皇庁に送られ、世界各地の恵まれない子どもたちのために使われます。(「教会情報ハンドブック」参照)

54. 十字架のしるし

ロシア正教を含む東方正教会では、「十字架のしるし」をする時、額から胸、そして右肩から左肩へと動かします。13世紀までは西方教会、つまりカトリック 教会でも、この形で十字架のしるしをしていたようです。今のように左肩から右肩へと変わったのは14世紀以降のことと言われています。

もともと父と子と聖霊の三位一体の神への信仰告白として、十字架をきるという習慣は生まれたようです。そのため、東方正教会では右手の親指と人差し指と中 指の3本の指を合わせて、この動作をします。多くの場合、3回続けてこの動作を行っています。この親指と人差し指と中指を合わせた形というと、教皇が祝福 する時、右手の3本の指で十字架のしるしをしている姿を思い起こされた方があると思います。西方教会では、中世初期から十字架のしるしを行いながら「父と 子と聖霊の御名によって」と唱えるようになったこともあって、3本の指でということはあまり言われなくなったのでしょう。

いずれにしても、この組み合わせによって、私たちの信仰は父と子と聖霊の三位の神に対するものであり、私たちの救いは御子の十字架の死にあることが端的に 表現されていると言えるでしょう。 現代の神学では、過越の出来事、つまり十字架上の死と復活の出来事こそ、神が三位一体であることが明らかにされた出来 事であると考えています。教会は昔から「十字架のしるし」と「父と子と聖霊の御名」とを組み合わせることで、あるいは3本の指で、3回連続して十字架のし るしをすることで、このことを暗黙のうちに表現してきたと言えるでしょう。(「家庭の友」なんでも質問箱 参照)

55. 代父母の役割

代父母は、志願者の友人となって、入信の前にも後にも、信仰生活の具体的な点で相談相手となる人です。代父母は一人で十分で、受洗者と同性の者がこの役割を果たしますが、二人の代父母、すなわち男女一人ずつも可能です。

代父母は、洗礼式の時に志願者のそばに立って、悪霊の拒否と信仰宣言のことばを共に唱えて、洗礼の水が頭にかけられている間、手を受洗者の肩に置きます。 また、清さのシンボルである白いベール(またはストラ)を受洗者にかけるのも代父母の仕事です。さらに、復活ローソクから火を灯し、受洗者に渡します。

しかし代父母は、洗礼式の際の単なる付添い人ではなく、洗礼の恵みが開花することを助ける「教会的な任務」に与る人であることを忘れてはなりません。従って、代父母の使命は、受洗後も続き、洗礼によって受けたいのちの成長を見守っていかなければなりません。

なお、幼児洗礼にも代父母をたてます。その時に幼児に代わって信仰告白を行い、洗礼後幼児の宗教教育に協力し、幼児の家庭とキリスト信者共同体とのつながりを大事にします。

56. 香部屋

「香」は、宗教行事で用いられる代表的な用品の一つとして知られています。例えば仏教において、香を焚き、花を供え、ろうそくの灯火で照らすことは、ご仏 前における最小限の供養の行為とされ、香をかおらせる香炉(こうろ)、花を供える華瓶(けびょう)、灯りをともす燭台(しょくだい)は、三つ具足(みつぐ そく)と呼ばれています。

教会の典礼においても、香、花、ろうそく等は、神への礼拝、賛美、信仰を表すしるしとしてよく用いられますが、香炉の火種を準備し取り換えるため、奉仕者 が出入りしていた部屋を「香部屋」と呼ぶようになりました。そして次第に、香炉だけではなく、典礼に用いる祭具や祭服などを収納する部屋が、「香部屋」と いう名称で親しまれるようになったようです。

香部屋係は、過越の食事の準備を申し出た弟子たちのように、イエスの救いのわざを記念する典礼のため、その準備段階の奉仕に携わる係です。典礼のために用 いる祭具や祭服、その他必要なものの準備や後片付け、またこれらのものの管理を主な役割とする務めということができます。香部屋係は、キリストの救いの神 秘への隠れた奉仕者ということができます。(「香部屋係のハンドブック」白浜満+齋藤賀壽子著 参照)

57. 祭服の色

カトリック教会の典礼で用いる「祭服の色の多様性は、祝われる信仰の神秘の特徴や、典礼暦年の流れにおいて進展していくキリスト教生活の意味を、外面的にも効果的に表すことを目的として」(『ローマ・ミサ典礼書の総則』345)います。

伝統的に、カトリック教会では、主に白、赤、緑、紫を用いていますが、それぞれの色には、次のような象徴が
込められています。

白色 
白色は、神の栄光、勝利、復活、喜び、清らかさの象徴です。「降誕節」、「復活節」、キリストの諸神秘を祝う祝祭日(公現、洗礼、変容、復活、昇天な ど)、聖母・天使・聖人の祝祭日、洗礼、堅信、初聖体、叙階、結婚の各儀式のときに用います。また最近、復活を強調するために葬儀のときにも使うようにな りました。

赤色
赤色には二つの象徴があります。一つは火(聖霊)を表す場合で、聖霊降臨の主日に用います。もう一つは血(命までささげ尽くす愛)を表す場合で、主の受難の主日、聖金曜日、また殉教者の祝祭日に用います。

緑色
緑色は、大きくなって行く新芽の色で、天国への旅路を導く希望を意味し、「年間」に用います。

紫色
紫色は回心、節制、悲しみを表す色で、「待降節」、「四旬節」、そしてゆるしの秘跡や葬儀、死者のためのミサなどに用います。
(「香部屋係のハンドブック」白浜満+齋藤賀壽子著 参照)

58. 第二バチカン公会議

生命力に満ちあふれているはずのキリストの教会が、精神的貧困に苦しむ人びとの現実社会からかけ離れた存在になっていることを憂慮した教皇ヨハネ二十三世 は、1959年1月25日、教会の刷新を目的とした公会議開催を呼びかけました。こうして、1962年から65年にかけて開かれたのが第二バチカン公会議 です。世界中から2540人もの司教が集まって祈り、討議し合われたこの公会議は、教会を現代の視点から見直し、具体的な刷新を目指して16の文書を公布しました。

世界各地の教会共同体が置かれている状況を互いに聞き合った公会議参加者は、キリストを中心とした全員参加の教会となるためには、対話と相互の助け合い、 交わりと一致が不可欠だという共通理解に達しました。また協働性(collegiality)の大切さも確認し合いました。その結果、一人ひとりが所属す る信仰共同体のことだけではなく、信者でない人も含む近隣地域の人びとのことや教会全体のことに配慮しながら協力することの重要性が意識されるようになりました。

日本のカトリック教会は、公会議後すぐに公会議文書翻訳に着手しただけではなく、そこで言われている内容を日本の教会においても具体化しようと努力し始め ました。司祭が信徒に背を向け、祭壇に向かってラテン語でささげていた感謝の祭儀が、司祭を中心に全会衆が祭壇を囲み、日本語でささげられるようになった ことは、大きな目に見える変化でしょう。しかし、日本の教会の信者の一人ひとりに、公会議の精神、教会刷新の理由などがよく理解されるようになるには、と ても大きなエネルギーと長い時間が必要でした。
(「カトリックの信仰生活がわかる本」  景山あき子ほか共著 参照)

59. ナイス(NICE)

「ナイス」というのは、日本に住む信徒・修道者・司祭が、司教とともに、日本の福音化のために、ともに考え、ともに歩む方向を探る会議のことです。正式に は、福音宣教推進全国会議(NICE=National Incentive Convention for Evangelization)と言います。この会議の基本精神は、教皇ヨハネ二十三世によって呼びかけられ、パウロ六世に受け継がれた第二バチカン公会 議の教えにもとづいています。

日本の司教団は、1984年に、日本の教会が第二バチカン公会議の教えを忠実に受けとめ、すべてのカトリック信者が一体となってキリストから与えられた使 命を生きるようになるため、「日本の教会の基本方針と優先課題」を発表しました。札幌教区から那覇教区までの16教区がこれまでバラバラに取り組んでいた 宣教姿勢を改め、福音化のために一致協力することを表明したのです。そして、「より多くの人を洗礼に導く」ことと、抑圧や差別がある社会と文化を「すべて の人を大切にする社会と文化に変革する」ことを基本方針として定めました。これらの使命を達成するための優先課題の三つめが福音宣教推進全国会議 (NICE)の開催です。
(「カトリックの信仰生活がわかる本」      景山あき子ほか共著 参照)

60. NICE 1・NICE 2

NICE 1(第一回福音宣教推進全国会議)
第一回福音宣教推進全国会議は、1987年に京都で開催されました。この会議の課題は「開かれた教会づくり」でした。司教団は、「聴き、吸い上げ、活かす」という自らの姿勢を打ち出し、全国で公聴会やさまざまな準備集会をしたうえで、第一回福音宣教推進全国会議を開催した のでした。この会議は、日本の教会が本来の姿を取り戻し、日本の社会に対して福音的使命を果たすには、日本の現状を分析し、そこに福音の光をあて、いかに 具体的にかかわっていくかを探求しなければならないということを、十四の具体的提案をもって「答申」しました。司教団はこれらの提案を承認しただけでな く、とくに弱い立場に置かれた人びとと「ともに」「喜び」をもって歩む教会となるために、司教をはじめとして、神の民すべてが、教会の姿勢や信仰のあり方 を見直し、思い切った転換を図らねばならないことを宣言しました。
(日本カトリック司教団『ともに喜びをもって生きよう』参照、カトリック中央協議会発 行、1988年)。

●NICE 2(第二回福音宣教推進全国会議)
第二回福音宣教推進全国会議は、1993年に長崎で開催されました。その課題は「家庭の現実から福音宣教のあり方を探る」でした。

この会議は、教会共同体のメンバーが、地域の人びとの境遇や家庭の現実からくる喜びや苦しみに共感し、それらを共有できる仲間となることによって神の国の 建設に協力し合うためには、教会共同体そのものがさらに刷新されなければならないという「答申」を司教団に提出しました。

答申を受けた司教団は、現代の家庭が置かれている現実を受け止めたうえで、イエス・キリストにならい、とくに弱い立場に置かれた人びとの苦しみや痛みに共 感し、それを担い、それを信者の交わりの中で、キリストの十字架とともに神にささげる教会共同体づくりを提唱しました(日本カトリック司教団『家庭と宣教  家庭を支え福音を生きる教会共同体の実現をめざして』参照、カトリック中央協議会発行、1994年)。
(「カトリックの信仰生活がわかる本」      景山あき子ほか共著 参照)


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61. カテドラル Cathedral

一般には、カトリック教会の大聖堂のことを指しますが、厳密には、ローマ・カトリックや聖公会のうち、司教または主教が長を務める聖堂(教会堂)のこと で、典礼の際に司教(主教)が座るための椅子 (catedra)が設けてある司教座聖堂(主教座聖堂)を指します。そこが、司教・主教区の中心となります。ヨーロッパなどでは古来、市役所などと共に都市の中心にある広場に面して建てられるのが慣例でした。

また、ドゥオモ(duomo)という言葉も、イタリアに行くとよく耳にしますが、丸い大きい屋根(ドーム)を持った教会を指します。東京ドームのドームの語源でもありますが、このドゥオモも、カテドラルと同じで、司教座のある大聖堂のことをいいます。

日本のカトリックには、十六の司教座聖堂があります。このうち東京都文京区関口三丁目にある「東京カテドラル聖
マリア大聖堂」は、カトリック東京大司教区の中心的教会です。

カトリック関口教会は、第二次世界大戦で全焼しましたが、ドイツのケルン教区の支援とカトリック教会内外の多くの方の協力によって再建されました。丹下健三氏の設計により、昭和38(1963)年に起工、昭和39(1964)
年12月8日落成、献堂式が行なわれました。

特徴的なカーブを描く八面のコンクリートの壁を垂直に近く立てた構造で、天井は大十字架をかたちづくっています。外装のステンレス張りの輝きは、社会、人々の心の暗闇を照らすキリストの光を思わせるものです。

42年の間にカトリックの典礼や教区レベルの行事、冠婚葬祭、音楽会などで立派にその役割をはたしてきました。
(「キリスト教を知る事典」外村民彦著 「東京カテドラル聖マリア大聖堂大改修工事パンフレット」参照)

62. キリスト誕生の年

2006年という数え方は、キリストがお生まれになってから2006年たったという意味ですが、聖書に誕生の年がはっきりと記されているわけではなく、実際には数年の誤差があるといわれています。

どうしてそのようなことになったかというと、それは何よりも、キリストの誕生を紀元元年とする教え方の始まったのが実に六世紀になってから、すなわちキリ ストがお生まれになってから五百年以上もあとで、さかのぼって正確な年代を確定するのが非常に困難になっていたからです。

しかし、そのことでこの数え方の価値が下がってしまうわけではありません。人類の歴史上もっとも大切なこと、つまり、人類にとってキリストの出来事が最大 の出来事であること、それで人類の歴史はキリストの前の時代と後の時代とに二分されるということを、この数え方が教えてくれるからです。BC(英語で「キ リストより前」),AD(ラテン語で「主〈キリスト〉の年」という二つの略号がこのことをよく表しています。

この数え方はふつう「西暦」といわれますが、根本的に「キリスト教暦」なのですから、できるかぎり積極的に使いたいものです。(「カトリック教会ハンドブック 1994年版」参照)

63. 鐘

教会で使われる鐘には二種類あります。「鐘楼」と呼ばれる塔にとりつけられた大きな鐘と、ミサの中で使われる小さな鐘(または鈴)です。

鐘楼の鐘はたいてい1日に3回、朝、昼、夕の一定時に鳴らされます。その鐘の音を聞いた信者は、それぞれの場で「アンジェラスの祈り」(天使がマリアに、 救い主キリストの懐妊を告げたときの場面を思い浮かべながら唱える、聖母への賛美の祈りで、「お告げの祈り」とも言う)を唱えます。

この祈りは、マリアが救い主の母として神から選ばれ、天使のお告げを聞いて信頼の心をもってつつましくそれを受けたことを黙想し、また、聖母が常に私たちをお守りくださることを願うものです。

鐘はその他ミサの始まるときにも鳴らします。また、教会によっては、結婚式や葬儀の始まりや、出棺のときに鳴らすこともあります。

鐘は時計のない時代から人々に時刻を知らせる役割をしてきました。また、お祝いや緊急の事態を周囲の信者に知らせるために鳴らされるものでもありました。

長崎のあちらこちらの町では、人々の生活のなかに定着していて、今でも農作業をしたり船のうえで仕事をして
いても、この鐘の音を聞くと、しばし手を休めて祈る光景が見られます。

ミレーの「晩鐘」という有名な絵がありますが、これもアンジェラスの鐘を聞いた夫婦が祈っている光景です。
(「カトリック冠婚葬祭」泉富士男著参照)

64. 四旬節=テンポラ

宣教開始前にイエスが40日間荒れ野で過ごされたという古事にならい、教会は、灰の水曜日からご受難の主日までの40日間を復活祭の準備期間、四旬節とし て昔から大切にしてまいりました。四旬節は回心して神に立ち返るための祈りと善行、断食や節制に励む期間とされ、教会はそのしるしとして灰の水曜日と聖金 曜日には大斎、つまり、肉を食べないことを勧めてきました。

和食の中でテンプラといえば、好物だという方も多いかもしれませんが、一説によれば、その起源は四旬節と深い関係があるといわれています。江戸時代になっ てからテンプラは江戸で花開いた料理です。しかし、その起源を辿ってみると意外にも長崎の南蛮料理に端を発しています。フランシスコ・ザビエルによって日 本にキリスト教が伝えられた後、関が原の戦いまでの50年の間にキリスト教は広く日本に広まり、多くの日本人がキリスト信者になり、キリスト教の典礼も定 着していました。

その頃の四旬節を表す「40日間の期間」は、ラテン語で「クワドラジェシマ・テンポラ」(Quadragesima tempora)と呼ばれていたようです。この特別な期間、つまり「テンポラ」には肉を食べないで、その代わりに油で揚げた野菜と少々の魚を食べる習慣が キリスト者の間に定着したのです。当時、日本では油で揚げる料理は少なかったそうで、キリスト者は南蛮の料理をおいしくいただいていたのではないでしょう か。本来、節制のためのテンポラであったのに。こうして四旬節の期間を示すテンプラが今は和食として定着し、健康な食事として世界の人々から受け入れられ ているということは実に不思議な感じがします。

今度の復活祭に洗礼を受ける人も、すでに何年か前に洗礼を受けた人も、洗礼の恵みを思い起こして、期待と喜びをもってこの四旬節のテンポラを過ごしましょう。

松本紘一神父(聖イグナチオ教会報 2006年4月号 「主任司祭の窓」より)

65. 修道院

教会によって認められ、清貧、貞潔(独身)、従順の三つの誓願を立てて共同生活を営む人たち(男女)の組織を「修道会」といい、そのメンバーを「修道者」(修道司祭、修道士、修道女)、彼らが生活する場所を「修道院」といいます。

多くはローマか、創立された国に総本部があり、そこから世界の各国に会員が派遣されて修道院ができ、その国で各種の事業を行ない、入会者が増えたりして発展すると、その国の各地域に修道院を作るので、あちらこちらに同じ名前の修道院が存在することになります。

修道会は、創立者の意向によって、役割や性格、生活様式が違います。

修道会は大きく分けて、祈り、観想を中心に生活して神にささげる「観想修道会」(トラピストやカルメル会など)と、教育や医療などの社会事業、宣教のための出版などで活躍する「活動修道会」の二つがあります。

近年、司祭や修道者の減少、高齢化が進んでいます。復活節第四主日は、1964年に教皇パウロ六世によって「世界召命祈願の日」と制定されました。特にこ の日には、司祭、修道者への招き(召命)に一人でも多くの人がこたえることができるように祈りましょう。(「カトリック冠婚葬祭」 泉富士男著 より)

66. ステンドグラス

ステンドグラスはヨーロッパのゴシック時代の宗教芸術で、神のシンボルである光を色とりどりのガラスを通して聖堂内に投射させ、神への想いや賛美を表しています。

フランスのシャルトルやノートルダム大聖堂などは、特に有名ですが、ヨーロッパ各地には当時のすぐれたものが多くあります。

ヨーロッパのものには及びませんが、日本では、大浦天主堂(長崎)、浦上天主堂(長崎)、玉造教会(大阪)、聖イグナチオ教会(東京)などがステンドグラ スの美しい教会です。単に美しい色模様だけのステンドグラスもありますが、多くの場合、その教会の由来を表した絵や、信者の信仰教育を目的にしてキリスト の生涯や宣教する姿を描いたり、殉教者や聖人たちのありさまを描いたものがあります。天井からの光が、さまざまな色のガラスを通して中に差し込み、時間の 流れにつれていろいろな色に変化し、聖堂の中を照らす様子には、なんともいえない厳かな雰囲気があります。また、夜になると中の光がステンドグラスを外の 闇に浮きあがらせ、外から模様が見えるようになります。

ステンドグラスそのものは、光を通さなければそれほど美しいものではないのですが、神からの光を通すことによって、何倍もの輝きを放っているようで味わい深いものがあります。(「カトリック冠婚葬祭」 泉富士男著 より)

67. 天使(angel)

一般的に天使は神と人との仲介者であり、神意を人に伝え、人を守護する架空の存在として、古くからあります。

天使の英語エンジェルは、ヘブライ語のマルアーク、そしてギリシア語ではアンゲロスであり、これはともに、使者を意味します。神によって創られた純粋な霊 で、使者と呼ばれるのは、一部の天使が使者として天上から人間のもとに派遣されるからです。肉体をもたず、存在または活動のために物質に依存していない純 粋な霊です。そしてそれはいかなる形をもつものであっても、またどのような媒体でも、天使あるいは御使(みつかい)と呼ばれました。聖書は天使を、「御使 たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたもの」
(ヘブル1・14)と述べています。

聖書は天使の数は数えきれないほど多数である、と言っています。天使と人間は本性上も恩恵においても異なります。個々の天使は個別の存在です。「天使」という語は「天使群」をさすこともあり、この天使群から守護の天使が人間の必要に応じて派遣されます。

西洋芸術では、天使は神意を伝える仲介者として、さまざまな形で表現され、紀元600年以前に、使者の姿、礼拝者の姿、判決執行者の姿で表されています。

また、天使はいろいろな物、たとえば楽器、香炉、盾、巻物などに描かれ、時には受難図にも描かれていますが、ふつうは地上では聖体を礼拝する姿、天上では 神の玉座の前で礼拝する姿で描かれています。また大天使はさまざまな姿で表されています。ミカエルは悪魔を地獄へ追放する姿で、ガブリエルはマリアに受胎 を知らせる姿で、ラファエルはトビトの目を治している姿でなどです。

天使の存在することは、第四ラテラノ公会議と第一バチカン公会議ではっきりと宣言されています。(「現代カトリック事典」
「キリスト教ハンドブック」 より)

68. 病人の聖体拝領のための奉仕

病人にとって病床でいただく聖体は、人々の病を担ってくださったキリストに出会い、キリストのいやしの力に触れ、キリストの苦しみといのちに結ばれる大切 な秘跡です。また、その人がたとえミサに来られなくとも、父である神とキリスト、そして教会共同体はその人を忘れていないという大切なしるしにもなりま す。ミサに参加できる人以上に、参加したくても参加できない人のほうが、もっとも切実に聖体を必要としていると言ってもよいのではない
でしょうか。

共同体の中の弱い人々、病気や高齢のためにミサに来られない人を訪問し、聖体を運ぶのは牧者である司祭の大切な仕事です。また、助祭は伝統的に共同体の中 の弱い人々に心を配り、病人に聖体を運ぶことを大切な役割としていました。しかし、病人が多く、司祭や助祭だけではたびたび訪問するのが困難な場合、信徒 の聖体奉仕者が病人に聖体を運ぶことができます。別な観点から言えば、共同体の中の病者に心を配るということは、司祭だけの責任ではなく、
信徒の責任でも ありますから、信徒が当然協力していく奉仕とも言えるでしょう。
(「典礼奉仕への招き」 オリエンス宗教研究所 より)

69. ミサのあずかり方
やむを得ない事情でミサに遅れるので はなくて、なんとなく遅れて行く。こういう経験は多くの人にあると思います。そして、それが習慣になってしまうこともあります。「あまり行きたくない が……行かないわけにもいかないな」というあいまいな気持ちが、ちょっとした遅れとなって表れるのです。しかし、このような中途半端な参加態度は、時間と エネルギーの大きな無駄遣いになります。

どんな集会でも、そのために費やす努力を最小限に切り詰めようというけちな態度になると、ますますつまらなくなっていくものです。つまらなく思っている と、その集会から得るものは少なくなる。得るものがほとんどないと思うから、時間もエネルギーもさらに出し惜しむ。こういう悪循環になります。その結果、 それに使った時間とエネルギーはほとんど無駄になるのです。そして、自分がこんなつまらない場所に縛りつけられていることに怒りを覚えるようにもなります。

時間とエネルギーを使ってきちんとやると、たいていのものはそれなりに面白くなるものです。身を入れて参加すると、そこで得たと感じられるものが多くな り、さらに熱心にやるようになる。熱心にやるともっと面白くなる。これは良い循環です。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものま で取り上げられる」(マルコ4・25)とはこのことでしょうか。ミサなど行かない、私は別の場所でキリストと出会う、そういう生き方もあるかもしれませ ん。しかし、どうせ行くのなら、時間とエネルギーを惜しまずに参加したほうが、人生は面白くなります。
(「目からウロコ ミサのあずかり方」   来住英 俊著 より)
70. ミサの奉献文に親しむ

「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」という対話で始まる叙唱から、感謝の賛歌、と続いて、「キリストによってキリストとともに…」という栄唱まで を「奉献文」といいます。ミサの頂点というべき部分で、会衆の積極的な参加が最も期待されるところです。しかし、毎週だいたい同じことを繰り返すので、 「ここからはいつもどおりだね」と気が緩みがちなところでもあります。

会衆がより積極的に参加するためには、「ここで共同体は何をしようとしているのか」と考えるといいでしょう。共同体全体としての行動のイメージがはっきりすると、自分の役割も明確になるからです。

奉献文は、たしかに祈りです。しかし、「祈りだ」と言ってしまうと、司祭が祈って会衆は聴いていればいいという受け身の感覚になりやすいと思います。奉献 文における共同体の行動は、むしろ、「思い起こす」ことだと考えるのがいいでしょう。イエス・キリストの死と復活を「思い起こす」(記念する)のです。聖 霊の交わりの中で、信じる者の共同体がその出来事を感謝を込めて「思い起こす」ことによって、今ここに集まっている私たちは二千年前にパレスチナで起こっ た出来事に、時空を超えて直接にあずかることができるのです。そして、その出来事の持つ救いの力にあずかることができるのです。

奉献文は、ほとんどは司式司祭だけが声を出して祈ることになっています。そのため、最も重要な部分でありながら、聴くだけの時間が長く続くために、集中力 を失いがちです。そこで、日ごろから奉献文のテキストによく親しんでおくといいでしょう。一人が奉献文の内容をよく理解すれば、共同体の祈りがそれだけ力 強くなることは言うまでも
ありません。
(「目からウロコ ミサのあずかり方」   来住英俊著 より)

71. エピクレーシス

「呼び求める」「呼び下ろす」というギリシャ語。聖霊の働きを求める祈りで、ミサの中でも他の秘跡でもとても大切な祈りです。エピクレーシスの祈りのとき に司祭は、ある対象の上に手を伸ばして祈ります。それは聖霊がある物(人)を覆ってそれを聖なるものとしてくださいますようにという祈りの動作です。堅信 も叙階もそうです。司教が頭に按手し、ほかの司祭が全員、順番に頭に按手していく「赦しの秘跡」もそうです。ゆるしのことばを言うときに司祭は必ず按手を します。罪によって傷ついた神との関係、共同体との関係を聖霊が新たにしてくださいますように、という祈りを表す動作です。

ミサの中でもこのエピクレーシスは中心的な祈りです。聖霊の働きを求め、聖霊によって供え物が聖化されますように、と祈ります。同時にもっとも大事なこと は、聖霊によって共同体が、そこに参加している人たちが聖なるものとされますようにという祈りです。エピクレーシスには、この二つの祈りがあります。
(「イエスを忘れないために ミサ」 国井健宏著 より)

72. ミサ中、手を洗うことについて

神に仕える祭司が幕屋に入るに
あたり、まず身を清めたことは旧約書にある通りです。この行為はイスラエルの民にとって心身の清浄のシンボルであり、神のみ前に立つ者の崇敬の表れです。キリストを記念する教会の典礼にもこの伝統は引き継がれました。

しかし、歴史を振り返ると東西両教会に共通の理解と実践があったわけではありません。時代によって、ミサ中のどこで手を洗うかなどの適用には相違が見られ ます。例えば奉納物を受け取る前に、あるいは受け取った直後(パンやぶどう酒以外の供え物によって手が汚れるため)に、また献香の前に、あるいは献香後に など。やがて歴史変遷の流れの中で奉納物を受けた後、あるいは供え物への献香がある場合には、その後にと変更され、手洗式(しゅせんしき)は1回のみとな り、今日に至っています。

手を洗う行為は本来、実践上の理由からであったと思われますが、八世紀以降になると象徴的な意味合いが強調され、一つの祈り「主よ、わたしは手を洗って潔 白を示し、あなたの祭壇を廻り…」(詩編25・6~7)が付加されるようになりました。この祈りも教会によって解釈に相違が見られ、唱えなかったり、これ に三回のキリエが付加されることもありました。しかし、第二バチカン公会議の典礼刷新を受けて発布された『ミサ典礼書の総則』(1969年)によると、こ の祈りは「神よ、わたしの汚れを洗い、
罪から清めてください」(詩編51・4)と改められました。

ところで祭儀中に〝手を洗う〟という行為は、司祭に固有なことではありません。古代の教会には内庭に泉や井戸があり、そこで手を洗ってから祭儀に参加した ものです。この習慣がやがて聖堂入り口の聖水や、あるいはミサ前に行われる聖水による撒水式(さんすいしき)などに発展しました。また司祭は個人的に祭服 を身に着ける前に香部屋で手を洗ったりします。公会議以降、特に信徒のそれは心身の清浄の意ばかりではなく、水によって洗われ、神の子とされたこと、洗礼 の恵みを想起するためでもあります。神道の境内の入り口にも湧き出る水があり、身を清めてから聖域に入るように、私たちも聖なる救いの業を記念するにあた り、同じ心を大切にしたいものです。

南雲正晴神父(フランシスコ会) (「家庭の友 なんでも質問箱」より)

73. 修道者

もともと修道会は、古くは三世紀頃か ら、現在のエジプト、ナイルの河畔の砂漠に退いて祈りと静寂の生活を送った修道士たちの生活に始まりました。福音の精神を純粋な形で実現することが、彼ら の理想でした。彼らは優れた指導者のもとに集まって共同生活を営み、互いに助け合って信仰と霊性を深め、その集団からしだいに修道会が生まれてきました。 修道者たちの生活は、混迷の中にあったヨーロッパ中世社会にとって精神的な支柱となりました。その後、それぞれの要求に応えて、さまざまな目的と生活形態 をもつ修道会が生まれ現在に至っています。

修道者となるには一定の条件があります

  • カトリックの洗礼を受けた信者であること。
  • 独身であること。
  • 神の招き(召し出しとか召命という)を受けること。召命を感じた人が、完全な者になりたい、神と人々のために一生涯働きたいと真面目に望むこと。
  • 心身ともに健康であること。
  • 分別ある年齢に達し、自分の自由意志で決断すること。

会によって多少の違いはありますが、基本的には、このようなものがあげられます。したがって特に動機の点で、自分は男性(女性)も子どもも嫌いで家庭生活 に不向きだからとか、恋愛に失敗したとか、就職に失敗したし、修道院は倒産もなく、食べるのに困らないとか、偉い地位について世間にアピールする先生にな りたいとか、熱心な信者の親が強く望むからかなえてあげたい、などという人には向きませんし、入会を許可されません。

修道者は、人生の失敗者でも、世捨人でも、人間嫌いでもありません。かといって完全な人、生きた聖人でもないのです。ただキリストの生き方を模範にして、それに倣いたいと努力しながら生きている人です。

条件が揃って入会を許可されると、志願者として必要な勉強があり、一定期間ののちに、修道生活が自分に適しているかどうかを見極めるために、修練期(1、 2年)に入ります。この期間に修道生活の体験や理論や会則を学び、修道会側と本人が納得すれば1年間有効の誓願(初誓願は16歳以上)を立てます。自分の 進む道でないとわかれば退会しますが、続ける場合は、その後1年間有効の誓願(有期誓願)を何回か更新したのちに、一生涯有効の終生誓願(21歳以上)を 立てます。ですから修道院に入ったら最後、絶対にやめることができないということではなく、終生誓願を立てるまでは、話し合いによって選ぶことができま す。

修道者は、この誓願を立てることよって、主キリストに身をささげ、それぞれの修道会の活動と生活様式に従って、教会と世の人々への奉仕に尽くしています。
(「キリスト教に問う65のQ&A」百瀬文晃著「カトリック冠婚葬祭」泉富士男著より)

74. 誓願
誓願は、人間同士の単なる約束と違い、より一層完全に神の招きを生きるために、教会を仲介として公に神と堅い約束を交わすことで、神に聖別された人となります。

「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(マタ イ19章21)ということから、この世の富や財産を離れ、貧しい者となるという「清貧」、家族を離れ、独身でキリストのもとへ来るという「貞潔」、会則を 忠実に守り、神の代理者である長上に従うという「従順」、(これは形式的にではなく、自由意志を神の意志に従わせるということです)これらは修道者の大切 な三誓願です。

会則に縛られ、所有権を放棄し、結婚もせずに自由意志までも捨てるのでは、修道者は魂のない人間の抜け殻ではないかと思われるかもしれません。しかし事実 はその逆で、清貧は、すべての物にとらわれない自由とイエス・キリストという他の何物にも変えられない最高の宝を得ること、貞潔は一人の異性に制限されな い大きな愛、どんな愛にも増して神と人々を愛することを選ぶことであり、従順は、世のしがらみから脱して、神の心と一つになり、自由に神のもとに至ること を意味します。

誓願は、別名「キリストとの結婚」と言われ、そのシンボルとして十字架や指輪などを授与する会もあります。自分で選んだ道なので、暗い影はなく、誓願式な どでは、家族や友人を招いてお祝いします。そのほか、誓願を立てて二十五年、五十年には銀祝、
金祝などのお祝いがあり、修道院をあげて祝います。(「カト リック冠婚葬祭」泉富士男著より)

フォローアップコーナーは、今回をもって終了といたします。
 

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