クリスチャン神父のQ&A

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Q. ルカ5:33-39*の意味を教えてください。

A. 5:33人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは 飲んだり食べたりしています。」34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」36そして、イエスはたとえを話された。「だれも新しい服から布切れを破り 取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。37また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。38新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。39また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

1. 予備知識

もうすでにご存知のとおり、四人の福音史家はイエスの伝記を書いたのではなく、それぞれの教会の信者の、イエスに対する信仰を深める目的で書いたのです。したがって、その福音書の間には、当然いろいろな違いが存在します。

たとえばマタイは、主にユダヤ教出身の信者のためにその福音を書いたので、イエスが旧約聖書に予言されたメシアであると強調します。

ルカは、ユダヤ教出身でない人、つまりギリシャ文化出身の人に宛てて書いているので、イエスが<すべての人>の救い主であることにアクセントを置いています。さらにそのすべての人の中には、特に、貧しい人、弱い人、罪人、女性と子ども等に関心が向けられています。なぜ女性と子どもが貧しい人と並べられて いるかといえば、当時の女性と子どもには、あまり社会的地位がなかったからです。

そういう意味合いで、ルカはイエスの教えが男だけのためではなく、女性のためでもあるという理由から、ときどき同じテーマを二つのたとえ話で説明します。一つは女のため、一つは男のために。

たまたま質問されたこの箇所は、まさにその例に当たります。ルカ13:18-21,15:4-10も同様です。イエスがとにかく女性に対して特別な配慮を示していらっしゃることは、ルカ福音書の一つの特徴です。

2. たとえの具体的な説明

「36だれも新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。」

当時の女性によく分かる例です。昔の布は、初めて洗うと必ず縮んだものです。古い布は洗っても縮みませんから、新しい布切れを付けられた古い服を洗うと、継ぎ当てた新しい布切れだけが縮んで、服は破れてしまうのです。

第二の例は男性のためです。
「37だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。38新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」

イエスの当時のユダヤ人は、自分の家の近くにぶどう園があって、そこで家族のために一年分のぶどう酒を作っていました。そして山羊の革を用意して(丸いまま継ぎ目のない袋にして)ぶどう酒の容れ物として使ったのです。新しいぶどう酒は、必ず新しい革袋に入れました。なぜなら、新しいぶどう酒はまだしばら く発酵を続けて嵩が増えるので、古い革袋では爆発するおそれがあるからです。新しい革袋ならまだ弾力性があって、その心配がありません。

3. 深い意味

33節で当時の人々は、ヨハネの弟子とイエスの弟子のやり方の違いを挙げて、イエスを非難します。 5:33人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは 飲んだり食べたりしています。」

イエスはこのような批判を度々受けられました。即ちイエスは、当時のユダヤ人がとても大切にしていた習慣、特に律法を軽んじているような印象を与えたのです。

ここでの具体的な食い違いは、断食と祈りについてです。分かり易く言えば、ヨハネの弟子とファリサイ派は苦行と禁欲を重んじ、長い祈りを唱えるようなこ ともたいへん好みました。それに対して、イエスご自身も(マタイ11:19)大食漢・大酒飲みと言われたほどです。まさかそこまではいかないでしょうが、 イエスは、神様からいただいたこの世の“良いもの”を、心から楽しんでいいと思われたようです。そして花婿(イエス)と一緒にいる間は喜ぶしかないわけで す。

イエスの模範に従って、キリスト教は、禁欲主義的でも苦行的宗教でもありません。もちろんキリストは、度々厳しさも示されます。すべてを捨てるようにと か、お金に執着しないとか、独身を勧めるとかありますが、その“捨てる”とは目的ではなく、あくまで手段にすぎません。そしてその“捨て”られるものは、 悪いものだから捨てられるのでなく、もっと大切なもののために犠牲にするのであります。

皆さんに分かり易い例として「独身」を取り上げます。マタイ19:12で、神の国のために独身を選ぶ人がいると、イエスがおっしゃいました。それは、結 婚生活が悪いとか独身生活が結婚生活に優るとかでなく、逆に結婚生活はとても尊いものなので、神の国の建設のために選ばれた人はそれを犠牲にするの であります。

断食も同じです。古い信者が覚えていらっしゃるように、昔は金曜日に肉を食べてはいけませんでした。これを、やはりキリスト教でも肉は食べない方がいい からだと思った人がいたかもしれませんが、逆に肉はすごく美味しいものなので、イエスの亡くなった金曜日には、それを犠牲にしたわけです。 このように、断食・長い祈りのような苦行があってもいいのですが、それは、より高い目的のための手段にすぎません。キリスト教では、苦行それ自体をいい ものであると思っているわけではないのです。

そういう意味で、35節を考えなければなりません。「花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」 場合によって、断食もいい ことになります。あくまでも“手段”として。教会はそういう意味においてだけ、断食や修道生活等々を勧めてきたわけです。

くどいようですが、もう一度繰り返します。神がすべてのものをお造りになったのですから、我々信者は、それを“良いもの”として評価し、楽しむことがで きるのです。ところが現実には、人間の罪の結果、“悪いこと”がこの世に入りました。その悪いことを改め、神がお望みになった世界を再び取り戻すために、 場合によっては良いものまでも犠牲にする必要があります。しかし、その犠牲・苦行は目的ではなく手段にすぎないことを忘れてはいけません。それが、ヨハネ の弟子やファリサイ派の見解と、イエスの見方の間の重大な違いです。つまりイエスの新しい考え方は、古いユダヤ人の考え方に合いません。ですから、新しい ぶどう酒は新しい革袋に入れるべきだと言うのです。古いぶどう酒に慣れた人は、なかなかその考え方を変えることは出来ないだろうと39節に書いてありま す。

Q. 次のことに関して解説をお願いいたします。聖書にあるイスラエル民族と現代のユダヤ人の関係

A. イスラエルとはヤコブの別名で、創世記32・29にあるように、ヤコブが神と闘ったので、そのときからイスラエルと呼ばれるようになりました。イスラエルとは「神と闘う」という意味です。
聖書によるとヤコブの12人の息子は、イスラエルの12部族の祖先です。その12部族を合わせて、イスラエル民族と名付けられました。ところが、ソロモ ン王の後にイスラエルは二つの国に別れ、北の方がイスラエルという名を、南の国はユダという名をもらいました。ヤコブの息子の一人であるユダの子孫が住ん でいたからです。

まず紀元前七百年ごろに、北王国イスラエルはアッシリア帝国によって滅亡し、国民の大部分は虜としてアッシリアの首都ニネベに連れて行かれまし た。(アッシリア捕囚) 百年後の紀元前六百年ごろ、ユダ王国もまたバビロニア帝国によって滅亡し、国民の大部分がバビロンに連れ去られたのです。(バビ ロン捕囚) 

七十年後に、このバビロンにいたユダ王国の民だけがエルサレムに戻り、神殿とその付近を再建することになりました。ユダの子孫が中心となったので、その ときから「ユダヤ人」の名称が生まれました。少しずつ戻った他部族の子孫も皆、まとめてユダヤ人と呼ばれ、その時代から、聖書の中で「イスラエル人」と 「ユダヤ人」は同じ人たちを指しています。
西暦70年に、イスラエル人は再びイスラエルの地から追われたのですが、主にヨーロッパに離散したイスラエル民族は、ユダヤ人とだけ呼ばれるようになりました。

ところで第二次大戦後、再びイスラエルという国が出来て、今そこに住んでいるすべての人は「イスラエリ」と呼ばれます。その中にはイスラム教徒、キリス ト教徒もいますが、ユダヤ教を信じるイスラエリだけは「ユダヤ人」と呼ばれています。結局、今日「ユダヤ人」と呼ばれている人は「ユダヤ教徒」です。二千 年の間世界中に離散、現地の人との結婚により、その外見は多種多様になっています。

Q. 何故、ユダヤ人は過去長年にわたり、世界中の人々から嫌われてきたのか。特に、キリスト教徒が嫌う理由が、聖書にうたわれている史実に基づいているのであれば、その内容。

A.  ご質問の中には日本も含まれているようですが、どうして日本人がユダヤ人を嫌っているかについて特別勉強したことがないので、ご満足のいく返事は出来ま せん。でも日本でも反ユダヤ的な本が出版されているところをみると、ユダヤ人の牛耳るアメリカ経済に、日本の経済が脅かされていると感じているためかもし れません。

しかし、確かにユダヤ人はキリスト教の始めから、その信者に嫌われてきた民族です。その理由は明らかです。確かに初代教会のときに、ユダヤ教もキリスト 教を迫害した記録があります。そのほか、イエス・キリストを十字架に架けた民族と思われていたからです。第二バチカン公会議で、そうではないという宣言が 出されましたが、それまで全世界のキリスト教徒は、ユダヤ教徒を嫌ってきました。

国々の政府も度々それに加わってきましたが、ユダヤ人は何らかの形で迫害され、ゲットー(ユダヤ人居住地)に住まわされ、場合によっては殺されたこともありました。その極めて残酷な例として、ヒトラーの手によるホロコースト(ユダヤ人虐殺)が挙げられます。

Q. イエス・キリストは「隣人を愛せよ」と教えているが、キリスト教徒が、聖書の史実をもとに、ユダヤ人を嫌悪、迫害することは、宗教的に許されることなのか。

A. ユダヤ教迫害は、イエス・キリストの愛の教えに逆行するものです。ですから、ヨハネパウロII世が最近なさったように、私たちに出来るのはお詫びすることだけです。そして、将来その過ちを絶対に繰り返さないよう約束することです。

おそらくご質問の中に、もう一つ深い疑問があると、何となく感じています。つまり何故キリスト信者は、イエスの愛の教えを度々無視するのでしょうか。

まず第一に私たち一人ひとり、自分の心の中を見つめる必要があると思います。隣人愛の大切さを頭で認めながらも、私たちの行動はどうでしょうか。どんな 共同体、グループ、たとえば教会も、そのメンバーから出来あがっています。そのメンバー、信者の心に悪がある限り、共同体も悪くなる危険から逃れられませ ん。

もう一つ付け加えたいことがあります。フランス革命まで、キリスト教は政治と深い関わりをもってきました。(政教一致) 実際の、イスラエル人に対する 迫害は、たいてい政治家によって行われたのですが、教会はそれを注意するどころか、協力したことも事実です。その問題をもっと詳しく知りたいとお考えでし たら、信濃町の真生会館での、私の教会史の講義を受けてはいかがでしょう。 

Q. 日本では、動物も、人間と同じではないにしても霊魂を持っていると考えられているが、昔の公教要理や西洋哲学では、動物には霊魂がないと説いていると思う が、コヘレトの言葉3:21「人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」とあり、グリーンピースの活動とも考え合わせてどう考えたらよいか。また最近のペットの葬儀、墓など、キリスト教の立場はどうなのか。

A. ご質問の中に「霊魂」という言葉がありますが、日本語にはその他に「魂」とか「霊」という言葉もあります。お出しになった問題の解決にはまずその言葉の意味を考えなければなりません。

日本語の霊、霊魂、魂は、私には同じような意味に思われますが、微妙なニュアンスがあるのかもしれません。英語ではSOULとSPIRITに当たりま す。キリスト教では、動物にもSOUL(魂)はあると思われていますが、人間だけにSPIRIT(霊)があると信じられています。したがって私の意見とし ては、動物に霊魂があるという言い方はしない方がいいと思います。

そういう用語はともかくとして、キリスト教では、人間だけが神の似姿として造られたということです(創1・26)。他の被造物に比べて、人間には特別な 価値があります。もちろん人間は他の動物と同じような体を持っていますが、その魂には根本的、質的な違いがあります。人間だけに「知恵」と「自由意志」が 与えられました。この言い方に注意してください。知恵+自由意志です。
他の動物にも知恵があります。場合により、ある方面においては人間よりも賢いことさえあります。しかしその知恵の範囲は限られています。生き残るため、 もしくは子孫を残すためだけの知恵です。その「知恵」の他に、人間には「自由意志」があります。もし人間の特徴は何であるかときかれたら、知恵よりも自由 意志だと言った方がいいと思います。

自由意志とは、想像と創造ができる能力です。そこは神に似ています。常に新しいものを造る能力です。日本語の「自由」が示すとおり、自らすすんで選択す ることができるし、自分の行動について責任をとることもあります。ここで人間論を詳しく説明するつもりはありませんので、ここまでにしておきます。

ご質問の中にグリーンピースの話も出ましたが、その運動には行き過ぎの傾向があるのではないかと思います。彼らの中の一部によりますと、人間と動物の違いは程度の問題だけだという印象があります。我々信者は、質的な違いもあると主張してきました。

たとえばイルカは人間に近い知恵があるとよく言われるのですが、先ほど言ったような、人間に似た知恵と自由意志はまったく無いのです。イルカの声が優れているといっても、イルカがコーラスを作ったためしはないでしょう。

だからといって我々は、他の被造物、特に動物を勝手に自分の都合だけのために使っていいわけではありません。

同じく創世記第一章で、神様がすべてのものを造った後、良いものだと宣言されたのですから、私たちはすべてのもの、特に動物を尊重しなければなりませ ん。創世記には人間がすべての被造物を支配するように言われていますが(創1・26)、その支配は独裁者のようなものでなく、被造物の独特な価値、その権 利などを常に尊重しなければなりません。汚染、また、ある動物の種類を絶滅させるような支配は、すべてのものの主である神に対する罪なのです。また、食べ るために動物を殺すことは赦されますが、苦しめることは赦されません。キリスト様の、支配は奉仕であるという言葉を忘れてはいけません。いつも弱いものを 特に愛するようにおっしゃいましたが、その中に動物も入っていると思います。詩編104・29-30によると、神の霊はすべてのものにひそんでいるという ことです。これを「神の内在」といいます。詩編148に描写されている神の動物に対する愛を、私たちもまねなければなりません。

世の完成のときに、被造物もなんらかの意味で復活するはずです。ミサの第四奉献文にこう書いてあります。「その国(世の完成の後の神の国)で、罪と死の腐敗から解放された宇宙万物とともに、キリストによってあなたの栄光をたたえることができますように。」

その宇宙万物の中に動物も、そして特に愛されているペットも含まれるはずです。もちろん人間のような個的な存在としてではなく、別な形になるでしょう。その形のあり方について聖書は何も教えていませんが、それは愛する神に任せましょう。

今まで述べたことの意味合いから考えますと、ペットの葬式もできると思います。その式のときに、神様にそのペットとの長い付き合いを感謝するとともに、宇宙万物の一部としての復活を願うことができるでしょう。

しかし、お願いします。その葬式は教会にお願いするのでなく、ご自分でするように。人間の世話だけで神父は手いっぱいです。

Q. 旧約では神は律法を課する(ないし契約の履行を迫る)方であり、かつユダヤ人だけを相手にされたのに対して、新約における神は愛と赦しの神であり、そのメッセージは全人類に宛てられている、と解釈され易いところがあります。しかし、どうもそんなに簡単なものではない、とも思われます。新約と旧約の関係をどのように理解すればよいのでしょうか。それとも、あまり安易な図式で理解しようとしないのが正しいのでしょうか。

A. (1)まず外国人としてたいへん恐縮ですが、日本語についてひと言いわせていただきます。日本語の歴史を遡りますと、まず「やまとことば」があり、 後に中国から漢語が入ってきました。(今はまた英語から、カタカナの言葉もたくさん入ってきます)やまとことばも漢字で書くようになり、漢語をそのままで も使っています。

私個人の印象かもしれませんが、やまとことばの意味は広いように感じます。たとえて言えば海の波のように、どこまでも広がっていく響きがあります。しかし 漢語、特に熟語の場合、なんとなく専門語的でその範囲が狭いかわりに非常にはっきりした意味をもつような気がします。たぶんそういう意味で、俳句や短 歌など文学的なものには、好んでやまとことばが使われる傾向にあるのではないでしょうか。聖書の翻訳にも、なるべくやまとことばを使う方がいいと、私は思 います。

こういったことが、今回の質問に何の関係があるかと思われるかもしれませんが、大いに関係があります。それは、この質問では「契約」という漢語の熟語が問題になるからです。

私は現在真生会館で、100週間で聖書を通読するグループを指導しているのですが、「契約」という言葉にひっかかる人が少なくありません。契約というと 冷たく、情の通わない印象を受けるそうです。私たちを愛してくださる神様と、その子どもの関係を表すのに、相応しい言葉だとは感じられないということで す。

そこで「契約」と訳された、元のヘブライ語に当って調べてみました。ヘブライ語の「ベリト」という語が使われているのですが、この言葉の語源は「つなが り」、つまり二つのものをつなぐという意味です。ちなみに英語では、契約をコベナント(covenant:comともに,venantくる)といいます。 これにもつながりの響きがあります。ドイツ語でもオランダ語でも、契約は「つながり」といいます。

残念ながら日本語の聖書では、ベリトは「契約」と翻訳されてしまいました。信者は別かもしれませんが、一般の人には法律に基づいた約束のように響きます。商売や、政治上の協定みたいに聞こえるようです。

ところで、ホセア、イザヤ、エゼキエルなどの預言者によると、神とイスラエルのつながりは夫婦の関係にたとえられています。その雰囲気は夫婦愛に通じ、決 して冷たい関係ではありません。ひょっとしたら「契り」という言葉がしっくりくるのでないかと思います。もちろん、聖書の用語を今さら変えるわけにいき ませんが、「契約」という言葉を、神と人間の愛の契り、つながりと考えてください。

(2)したがって、旧約聖書の神とイスラエルの関係と、新約時代の神と我々キリスト信者の関係との間には、それほど大きい隔たりは無いと言っていいの ではないかと思います。質問者がそういう隔たりを感じた理由は、やはり「契約」についての一種の誤解からくるもののような気がします。それを前置きに、ご 質問にお答えします。

まず、旧約はイスラエルとの契約であり、新約は全人類との契約ではないかということです。しかし旧約聖書を初めから読みますと、初めての契約はノアとの 契約です(創9・8-11)。つまり全人類との契約です。次に、アブラハムとの契約(創15)も全人類との契約です。創世記12・3にこう書いてありま す。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

シナイ山の上で、神とイスラエルの間に、初めて特別な契約が結ばれました。そのときイスラエル人は、神の選民となったのです。神はやがて全人類を救う計画 のため、その道具としてイスラエルを選びました。旧約聖書が教えるとおり、イスラエルは相応しい道具となるために、神から厳しい教育と、場合によって贔屓 とも見える優しい護りを受けたのです。

おっしゃるとおり、神はそういう意味でイスラエル人に厳しい律法を課する結果となりましたが、日本語の諺にいう「可愛い子に旅をさせる」ような厳しさでした。そういう意味で、私たちは誤解し勝ちです。旧約の神は厳しく、新約の神は優しいと。

もちろん神は一つで永遠に変わらない方ですが、時代により目的により、その時どきに違った態度とやり方をお選びになるのです。それについてとやかく言う権利は、我々にはありません。神ご自身が、その理由、やり方の是非をよくわきまえていらっしゃるはずです。

(3)旧約と新約の関係をもう少し説明しますと、簡単に言えば、旧約は我々キリスト信者にとって(もちろんユダヤ人には別の考えがあるでしょうが)お もに準備であると思います。先ほどのやまとことばを使いますと、「いづみ」「みなもと」みたいなものと言ったらいいでしょうか。

旧約の準備が無かったら、キリストの来臨は無かったはずです。そういう意味で旧約聖書をよく理解しないと、新約の意味も分かりません。いつか皆さんも、100週間の聖書の講座に参加されるように強くお勧めいたします。

Q. 新約聖書がギリシャ語で書かれた理由。いつ頃ラテン語に変ったか。主のご昇天後、聖書が書かれるまで長い時間がかかった理由。
(1)ご質問の序に聖書全体の原語についてお話しします。

A.  原則として旧約聖書はヘブライ語で書かれたのですが、ヘブライ語はセム語族に属しており、インド・ヨーロッパ語(ラテン語、ギリシャ語、英語等)とは随 分違う言語です。日本語と英語ほどにも違います。セム語の一つの特徴として、動詞がたいてい三つの子音からなり、その子音の間にいろいろな母音を入れるこ とによって動詞の活用と変化を作ります。対して 日本語の動詞の変化は、膠着によって起ります。また、ヘブライ語の文章の順序も特別です。まず動詞、次に主語、その後に目的語などがきます。(例・造った  神が 世界を)
ところがバビロニア捕囚(BC600年ごろ)以来、イスラエル人はバビロニアの言葉であるアラム語(これもセム語)を使うようになりました。イエスご自 身もアラム語を話しておられました。ヘブライ語は死んだ言葉となったのですが、それでも聖書はその後もずっとヘブライ語で書かれ、読まれたのです。した がってイエスも、ヘブライ語をよく知っておられたはずで、たとえばルカ4:16-19によると、イエスはヘブライ語で聖書を朗読します。

同時代から、多くのユダヤ人(イスラエル人)が外国に住むようになりました(ディアスポラ:離散)。当然のように彼等は他の言葉を使用し、そしてアレクサンダー大王の時代(BC300年頃)から、今度はギリシャ語を共通語として使うようになりました。

彼等のために、エジプトのアレクサンドリアで、旧約聖書は全部ギリシャ語に翻訳されました。翻訳をしたのが70人だという伝説があるため、そのギリシャ 語訳はセプトゥアジンタ(70人訳)と呼ばれています。このギリシャ語の旧約聖書には、今日のユダヤ人とプロテスタントが「聖書」と認めない、いわゆる外 典(新共同訳の続編:マカバイ記、知恵の書など)も含まれています。カトリック教会と東方教会が《正典》と認めているものです。

ガリラヤにはギリシャ語を話す外国人が多かったので、ガリラヤ出身であるイエスはおそらくギリシャ語を解されたであろうと考える聖書学者も多いです。初 代教会の時代、イスラエルに住んでいた信者は、当然のようにアラム語を使っていたのですが、聖パウロの宣教の結果である外国に住む信者たちは、ギリシャ語 を共通語として使っていました。彼等の旧約聖書は、先に述べた70人訳のギリシャ語聖書でした。

ご存知の通りAD70年に、ローマ人の手によってエルサレムが破壊されましたが、その後、アラム語を使うキリスト信者は少しずつ減っていきました。(現在でもシリア辺りにはアラム語を使う信者がいます)

その結果、新約聖書は全部ギリシャ語で書かれました。そのギリシャ語は、ホメロスなどのクラシック・ギリシャ語ではなく、コイネー(当時のギリシャ語の口語体)です。

ただ古い伝承によると、12使徒の一人である聖マタイが、ヘブライ語で福音を書いたということです。使う人がいなくなったために消失したものらしいのです。しかし、福音史家マタイとルカとが、その大部分を自分の福音書に書き入れたものと考えられています。

(2)どうして、もっと早く福音書を書かなかったのか。新 約聖書の一番古い部分は、51年頃に書かれた、テサロニケへのパウロの手紙です。イエスが昇天なさった年が30年頃と思われていますので、キリストの 時代から最初の新約聖書執筆まで、ほぼ21年の間があることになります。さらにマルコ、マタイ、ルカの福音が書かれたのは早くとも68年頃ですので、この 場合は38年の間があるわけです。ほぼ一世代といえそうな期間ですが、これはどういうわけでしょうか。

一番大きな理由は、初代教会が長い間、旧約聖書だけを聖書としていたことです。イエスのことは、口伝していました。イエスが旧約聖書に約束された救い主 であるというメッセージは、口で伝えることにより、より迫力が増すと思われていたのです。AD150年頃まで、イエスについては口伝すべきだという意見 が、まだありました。

ところが、12使徒とイエスの出来事を直接目撃した人たちが死んでしまうと、次の世代のキリスト信者は、やはり書かれた書物としての福音書の必要を感じたのでしょう。そこで先ずマルコ、次にマタイ、次にルカ、そして99年頃ヨハネが、それを書いたわけです。

もう一つ理由があると考えられています。最初のキリスト信者は、イエスがすぐにも再臨なさるものと考えていました。(テサロニケIとIIを参照)しかし第二世代となって、キリストの再臨がそうすぐにはないと知ったとき、福音書の必要を感じたのでしょう。

(3)ラテン語の聖書ご質問がラテン語にも及んでいますので、それも取り上げてみます。

聖書は、我々に贈られた神の言葉ですので、自づからそれを理解することが先決問題です。したがって、イスラムのコーランがアラブ語でしか書いてはならな いのと違い、キリスト教は初めから聖書を各国語にすべきだと確信していました。(前述したように、新約聖書をクラシック・ギリシャ語でなく口語体で書いた のはそういう理由です)

ローマと西ヨーロッパでラテン語が共通語になったため、当然のように聖書はラテン語に翻訳されました。もちろん東方でも、コプト語などに訳されました。 最初のラテン語聖書の翻訳の質についていろいろ不満があったため、ダマソ教皇は、AD400年に聖ヒエロニモに、全聖書を再度ラテン語に翻訳するよう命じ ました。ヒエロニモは、旧約聖書を直接ヘブライ語から翻訳しました。新約聖書は無論ギリシャ語からです。このヒエロニモの訳を、ヴルガタ VULGATA(普通)と呼んでいます。

トレント公会議は、このヴルガタを、カトリック教会の公式翻訳と決めました。今でもラテン語ミサなどには、これが使われています。

ご質問に関係ないのですが、一言付け加えます。残念なことに、プロテスタントに対抗する措置として、トレント公会議では、聖書を各国語に翻訳することを 禁じました。それが長い間、カトリック信者の、聖書についての無知の原因となりました。後には各国語に翻訳されたのですが、ミサではずっとラテン語が使い 続けられたのです。幸いなことに、第二バチカン公会議後、ミサも全部国語になりました。

Q. せっかくこの世に生を受けながら、食べ物がないために母乳の出ない母の胸にしがみつき、遂には死んでしまう子どもたち、十代になったばかりというのにレイプされたあげく産まれた子どもをかかえている少女たち、国を追われ難民となってさまよう人もし自分がその立場に置かれたとしたら、それでも神を賛美し、感謝することができるでしょうか。自信がありません。どのように考えたらよいのでしょう。

A. 私たち信者だけではなく、すべての人にとって、悪は一番大きな問題だと言えます。もちろん問題でない悪もあります。たとえばある人が自由に悪いこと をす れば、その結果は当然であり、解決のできない問題ではありません。しかし、ご質問にあるような何の罪もない苦しんでいる子どもなど、説明できない悪も多く 存在し、我々信者にとってその問題の解決は難しいものです。なぜなら私たち信者は、全能の神がこの世のことをすべてお計らいになっていると信じているから です。

もちろん悪を完全に理解することはできませんが、それでもできるだけ説明した方がいいと思います。正しい知識をもっていれば、それだけでも悪と苦しみを耐え忍ぶ力になるでしょう。すごく大きな問題ですので、三つの記事に分けて取り上げたいと思います。

第一の記事は、一般の人が悪の原因とその解決などをどう考えているのかを取り上げます。特におとなになってから洗礼を受けた皆さんの心には、そういう考え方がどこかに潜んでいますので、いざ病気、死、苦しみなどに出遭うと、それが自然に表面に出てくるものです。

第二の記事は、キリスト教の考え方による悪の原因、特に神の全能と愛に反するように見える悪の存在の謎を、ある程度まで解きほぐすつもりです。

第三の記事は、我々の悪に対する具体的な態度、心構えを取り上げたいと思います。おそらく皆さん第三の記事を期待しているでしょうが、その前の二つの記 事を読むことによって、第三の記事も、よりよく理解できると思います。第一と第二の記事は抽象的かもしれませんが、がんばってよく読むようにお勧めいたし ます。

≪第一の記事≫ キリスト信者でない人にとって、この世の悪はどこからくるのでしょうか。たくさんの宗教家、哲学者、思想家が、昔から悪の原因について考えてきました。彼らの出した主な解決を、ここで紹介します。 
(1)まず、いわゆる原始宗教の解決です。(日本の神道もその中に含まれます)大昔からどの宗教の人も、病気や苦しみ、死があるのは、我々人間が自然の 力(神々、死霊、悪霊)などを怒らせたからだと思っていました。宗教学的にいえば、タブー(禁止法)を知らずに、または知りながら、犯した結果だと思って いました。この場合、悪からの救いは、そういう力をなだめ、その力の起源を前もって抑えるために、生贄、儀式、供え物、呪文などを行うことでした。今日の 日本人の中にも、そういう考えを持つ人は少なくありません。

(2)ヒンズー教によると、すべての悪や苦しみは、前世の結果です。いわゆる輪廻の考え方です。生まれる前に犯した罪を償って、今の人生で良い生活を送 れば、生まれ変わって次の人生は良くなると信じられています。逆に今の人生を悪く生きれば、今度はもっと悪い運命に遭うことになり、場合によって、動物に 生まれ変わることもあります。仏教を通して、わが国にもこの考えが入ってきました。特に文学、お能の劇やホームドラマにもたびたび出てきます。

(3)仏教 これは難しく、ここで説明はしませんが、たいていすべての苦しみは、煩悩の結果だと言っています。煩悩を抑えることによって悪から救われると思われています。言うまでもなくこの考え方は、日本人の間で今も根強いです。

(4)マルクス主義によると、この世のすべての悪は私有の結果だということです。私有をなくせば、すべての問題が解決されると言っています。

(5)次の解決は、宗教と直接の関係はありません。悪や苦しみは、親と祖先の罪の結果だと考えています。特にイスラエルの民には、そういう考え方が強 かったです。ヨハネ9章2節でキリストの弟子たちは、盲人について次の質問をします。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したから ですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

(6)ゾロアステル教・マニ教 どちらもペルシャの宗教ですが、それらの思想によると二つの神があります。善の神と悪の神です。善の神が勝つとすべてが 良く、悪の神が勝つといろいろ悪いことが起ります。ある学者によりますと、この考え方は中国の陰と陽の考え方と関係があります。そうだとすると、わが国に も影響があります。陰と陽のバランスが崩れると悪いことが起るという中国の考え方がわが国にも、特に病気の原因として、あるからです。

(7)多くの人は、悪は運命、宿命の結果と考えています。運が悪いのでひどい目に遭ったといいます。特に古代ギリシャ人は、すべての悪は運命の結果、ま たは神々の勝手な決定だと思っていました。わが国でも、また全世界でも、こういう考え方は多く残っています。劇や文学などには、たびたび運命と宿命が出て きます。

結論として
悪の原因について幾つかの考え方を紹介しましたが、中には一理あるものもあります。確かに仏教がいうように、悪は煩悩の結果であります。また、親の罪の 結果、子どもが苦しむ場合もあります。ただ、キリスト教は前世からくる悪を認めていません。キリスト教には原罪がありますが、それは個人の罪ではありませ ん。前世を認める場合、それは個人の罪に関係します。また、キリスト教は、宿命と運命を認めていません。≪第二の記事≫
悪の原因についてのキリスト教的見解 
 (1)無神論者による有名な2つの警句・神がすべての物を造り計らっているならば、この世のすべての悪は神のせいである。・悪の原因が神以外にあるなら ば、神は全能ではない。なぜなら神は悪に手が届かないからです。また、全能でない神はありえないので、神は存在しないことになります。

サマセット・モームというイギリスの作家の言葉ですが、神が愛であるならこの世の罪のない人の苦しみを許さないはずです。モームは小さいときにお母さんを亡くしましたので、この理屈で神の存在を否定しました。

質問者は先の2つの哲学的な説明によるよりも、おそらくモームのように自分の周りにある悪や苦しみを見て、一時的に神の存在を疑うこともあるかもしれませ ん。確かに我々キリスト信者は、悪の存在と神の完全な愛との間には、矛盾を感じます。正直にいえば、第一の記事に書いた悪の説明の方が分かり易いと思いま す。つまり、悪は運命とか罰とか、前世の結果であるという説明です。こういう場合には、悪に責任者はありません。私たちの場合には、その責任者は、私たち と同じように知恵と自由意思と感情のある神ではないかと思われます。つまり、聖書に書かれているきわめていつくしみ深い神は、どうしてこの世に行われてい るひどい悪を取り除くことができないのでしょうか。ひょっとしたら神は全能でないのではないかと思ってしまうわけです。

たしかに神の全能は問題です。私の国ベルギーで、最近子どもの宗教教育の担当者に、あまり簡単に神が全能であると言わない方がいいという注意がありまし た。子どもたちは、たやすく神の全能を魔法使い、あるいは操り人形師のように考えてしまうおそれがあります。神は何でもできるから、自分の周りに行われて いる悪を簡単に取り除くことができると思っていますので、そうしないと神の存在、在り方について、子どもの心に知らずに疑問が入り込んで、後にキリスト教 を全部捨てる危険性があります。

(2)では、神の全能とは何でしょうか。まず、たぶん皆さんをドギマギさせることを言わせていただきます。それは、神は3つの悪に対して何もできないということです。

A) 自然の在り方からくる悪、たとえば地震、洪水、台風など。その結果、場合によって人間は苦しむことになります。でも神は、ご自分が造った自然の在り方を変えるわけにはいきません。
余談になりますが地震がなければ地球には陸がなく、人間もいないはずです。
 

B) 人間と自然の有限性の結果としての悪。たとえば人間はいつか死ななければなりませんし、大自然の弱肉強食の中に存在しています。その結果、ウィルスや黴菌、獣などの犠牲になることもあります。やはり人間は神のように無限ではありません。その力には限度があります。

C) 次は人間自身の罪の結果である悪についてです。詳しくは説明しないつもりです。皆さん自身も加害者であり被害者であるから、よく分かっておられるでしょ う。ご質問にある、レイプされて子どもをかかえた少女たちもこの例です。我々にとってこの3番目の悪は一番痛く感じます。人間は共同体ですから、お互いの 悪の結果苦しむことがあります。キリスト教の大切な信仰箇条の原罪と深い関係があります。原罪を短く説明しますと、人類が神に背いた結果、初めからすべて の人の心に罪への傾きがあるということです。聖パウロのロマ書の7章14-25節を読んでください。とにかく人間は個人であるばかりでなく、悪の場合でも 善の場合でも、全人類という共同体の一員として、その共同体の悪の結果苦しむことが多くあります。

D) 以上の悪は、神の責任とするわけにはいきません。それらの悪は全部、自然または人間からくるものです。もちろん神は奇跡をもって悪を取り除くこともできるでしょうが、それはあくまでも例外で、より高い目的のためにだけ行われるのです。

(3)やはり神は全能ではないのでしょうか。我々がいつも信仰宣言で唱える最初の言葉は、全能の神である父を信じますということです。この言葉に気を付 けてください。全能+父です。先に述べた避けられない悪を、やがて我々人間にとって益になるよう父なる神は計らっておられます。これは神の摂理といえま す。やがて私たちは永遠の救いに至り、苦しみも涙もない新しい人生を神からいただきます。

これは信仰宣言の最後の言葉です――体の復活と永遠のいのちを信じます。今我々を悩ましているすべての悪、そして私たち自身で犯した罪の結果である悪を、 神はやがて全体の創造に役立つように働いておられます。たとえて言いますと、神はあたかもものすごく大きくりっぱな壁掛けを織っておられると考えればいい のです。その絵の中の影は悪です。その影のおかげで、まわりの絵がよりきれいに見えるのです。神がその悪を行ったのではないが、結局その悪を使って役立た せていらっしゃいます。

(4)もうひとつ問題があります。神は全能なのですから、悪と苦しみのない世界を造れなかったのでしょうか。もちろん神ご自身がその返事をご存知です。 あくまでも私個人の意見ですが、やはり今の世界が一番いい世界ではないかと思います。先ほどとりあげた人間の罪の結果である悪は、人間の自由意思の結果だ と言わねばなりません。人間は本質的に自由意思をもつ存在です。自由意思がなければ、私たちはロボット、あるいは操り人形にすぎません。また現代的にいえ ば、始めから終りまでプログラムされたコンピューターにすぎません。操り人形師のごとく、神が私たちの人生を始めから終りまで指導するなら、何の罪も過ち も苦しみもないでしょう(動物の本能みたいです)。

しかし、そのような人生は私たちのものではなく、神ご自身だけのものになります。神は我々が自分の人生を自分で築き上げるために、私たちに自由意思をお与 えになりました。神はそれほど私たちを愛しておられたのです。神はやはり独裁者ではなかったのです。もちろん神は前もって、場合によって人間が悪を選ぶこ とができることをよくご存知でした。しかし(3)で説明したように、神は私たちの悪までも役立たせてくださいます。

もう少し自由意思の説明が必要でしょう。自由はたびたびわがままと混同されます。自由とはまず、(a)FREE FROM…つまりいろいろな束縛・障害から(FROM)解放されている状態です。多くの人はこれだけを自由と考えています。しかし同時に自由 は、(b)FREE FORでもあります。いろいろな束縛から解放されて、神から与えられた使命を自ら進んで果たすため(FOR)です。その使命はもちろん自分自身の幸せ、自 己発展などですが、同時に他の人の幸せと発展を促進する義務もあります。やはり自由には責任が伴います。私たちがこの自由意思を正しく使うなら、この世か ら大部分の悪は消えてしまうでしょう。

(5)第一と第二の記事で、だいぶ難しかったかもしれませんが、なぜ悪があるかという問題をとりあげてきました。第三の記事は、どういうふうにして自分 に与えられた苦しみに立ち向かうことができるか、または自分の周りにある悪をどう見ればいいかというということを記したいと思います。たぶん皆さんは、そ ちらの方に興味があるでしょうが、やはり悪の原因を少しでも理解すれば、その悪を忍ぶ手段にもなります。

 ≪第三の記事≫
 

(A)第一と第二の記事で、悪の原因とその理由をある程度まで分かっていただいたと思います。でも悪と苦しみは、いつまでも完全に分かることはない問題 だということを忘れてはいけません。しかし、私たちが出遭っている苦しみの原因がある程度まで分かれば、それだけそれに対する私たちの怒り、抵抗、不満な どが少なくなるでしょう。

特に人間の罪の結果である苦しみ、または自然の在り方の結果である苦しみに対して、キリスト信者としても一種の<あきらめ>ができるでしょ う。聖なるあきらめと言った方がいいかもしれません。このあきらめは、旧約聖書のヨブ記によく表現されています。(もう一度読むことをお勧めいたします) ヨブ記を書いた人は、当時の旧約時代の人と同じように、この世のすべての出来事、良いものも悪いものも、その原因は神ご自身であると思っていました。しか し、この世の中で罪のない人も苦しまなければならないと気付いたヨブは、神の正しさを問うようになりました。その上当時のイスラエル人は、天国も地獄の存 在も知らなかったので、あの世に報いがあるとは分りませんでした。でもヨブは苦しみの意味と原因が分らなくても、すべてを神にゆだねますと告白します。

同じようにイエス・キリストご自身も十字架の上から「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と叫んで、ご自分の 苦しみに対して疑問をもっておられたようです。しかし、しばらくして「わたしの霊を御手にゆだねます」と言われました。(ルカ23章46節)

第一の記事では、キリスト信者でない人の中で、ある人が悪と苦しみは宿命あるいは運命の結果だと思っていると書きました。
正直に言えば、私たちも同じような気がすることが度々あります。しかし、その運命の裏に、私たちを愛しておられる神がいらっしゃると信じています。その 信仰は、先ほど言った聖なるあきらめです。神はこの世の苦しみと悪の意味をよくご存知ですから、すべての苦しみを神にゆだねましょう。

(B)第二の記事では、事実上大部分の悪に神の手が届かないと言いました。しかし、それを誤解してはいけません。結局今でも、神は宇宙のすべてのことを 指導しておられると、我々は信じています。ただ、その働きかけがよく分からないだけです。神は聖書によると、人類の歴史と我々個人の人生に、常に働きかけ ておられます。歴史と個人を放っておかずに、愛するお父さんお母さんのように、その子どもである私たちの成長を見守っておられます。やがてすべてが良い目 的に達するように指導しておられます。

旧約聖書と新約聖書を読むと、神はまずその選民であるイスラエル、後に新しい選民である全人類の歴史に、働きかけておられることが分かります。その一番大 切な働きかけは、その御ひとり子をこの世に送って人類と運命をともになさるということです。それ以来、神ご自身が特別に私たちとともにおられるようになり ました。イエスの別名は”インマヌエル”我々とともにおられる神という意味です。その上、御ひとり子イエスは、私たちのためにいろいろな苦しみを受けて、 最後に十字架の上で非常に残酷な死に方をなさいました。どんなに苦しんでも、イエス・キリストが我々と一緒に苦しんでおられます。人に捨てられても、特に 苦しんでいるときに私たちのそばにおられます。

(C)イエス・キリストは、私たちの癒し主・・
福音をよく読めば、イエスは弱い人、罪人を、特に愛しておられたと分かります。そしてそういう人たちを助けるために、たくさんの奇跡を行いました。第二 の記事では奇跡はより高い目的のためにだけ行われると言いましたが、奇跡が行われるかどうかは、私たちが決めることではありません。イエスは奇跡の条件と して信仰だけにしました。

したがって、(A)で言った聖なるあきらめの他、神の愛を信じて、奇跡も願うべきだと思います。自分自身、または周りの人がひどい目に遭うとき、私たちの 第一の義務は奇跡を願うことです。どうせ駄目だろうと思うことこそ、不信仰のしるしです。イエスご自身も死ぬ前の夜、神に奇跡を願って「この杯(十字架の 苦しみ)をわたしから取りのけてください」と祈っておられました。(ルカ22章42節)でもすぐ後に「わたしの願いではなく、御心のままに行ってくださ い」と付け加えられたのです。

マタイ7章7-11節で、イエスは私たちに御父になんでも願いなさいとおっしゃっています。お父さんが子どもの願いをかなえるように、神は常に私たちに良いものを与えてくださるとおっしゃっています。

ところがルカも、11章9-13節で同じイエスのことばを伝えていますが、良いものを与えてくださるという代りに、聖霊を与えてくださると言い直してい ます。おそらくルカは、自分の教会の信者に文句を言われたことでしょう。いくらお願いしても、願いをかなえてくださらないことが多いのではないかと。その ためルカは聖霊ということばに変えたのでしょうと容易に想像できます。
 やはり聖霊は最高の賜物です。それをもう少し具体的に説明するために、ルルドの例をあげます。毎年、何十万人もルルドに行って奇跡を願います。しかし、 実際奇跡が行われる時はわずかです。でもルルドに行って帰った人の話を聞けば、みんな大きな恵みをいただいたと言います。それがルカの言う聖霊です。つま り神の愛のプレゼントです。どんなことがあっても神は私たちを愛されていると、彼らには分かったのです。

(A)で言った聖なるあきらめの他に、積極的に神に癒しを願いましょう。私の国のことば、オランダ語のことばを借りると、祈りで天を攻撃しよう・・・ この場合、他の人に祈りを求めることもたいへん良いことです。イエスは人の信仰を見て中風の人を治しました。(マタイ9章2節)私たち自身の信仰は足りな いかもしれません。

最近は、癒しの典礼が行われるようになりました。病者の秘跡だけでなく、司祭、信者に癒しの式を行うように頼んでいいと思います。しかし、新興宗教のようにへんなやり方にならないように、教会の監督は必要です。

(D)私たちも癒し主でなければなりません
神だけに癒しと赦しをしてもらうわけにはいきません。自分の罪の結果の苦しみはいうまでもなく、他の人の苦しみ、不幸などを和らげ、その原因を取り除くことこそ、キリスト者の愛の表現です。

イエスの模範に従って、教会とその信徒はいろいろな方法、たとえば施設(病院、孤児院など)で病んでいる人、苦しんでいる人を差別なく助けてきました。 しかし最近は、国や町などがその施設を受け持つようになったので、我々信者の癒しの奉仕は、ボランティアのかたちに少しずつ変わってきました。皆さんも一 つだけでいいですから、ボランティア活動に参加した方が良いかもしれません。そういう意味で、私自身も府中刑務所の外人の受刑者の篤志面接員を務めていま す。

ところで最近、我々信者だけでなく、すべての人に新しい癒しの奉仕が出てきました。それは、大自然への癒しの奉仕です。特に科学の進歩の結果、大自然は 著しい害を加えられました。また大自然の汚染の結果、いろいろな事故などがおこってきました。ひょっとしたら、我々が疑問としているそれぞれいろいろな苦 しみの原因が、そこにあるかもしれません。たとえば最近、癌が増えたということも、汚染の結果だといわれています。

私たち信者は、特に汚染の解決に力を入れましょう。

(E)悪に対する神の勝利
今まで取り上げた、悪や苦しみからの救いという問題は、この世に限りました。しかし、私たち信者はこの世がすべてではないと堅く信じています。いずれの ときにか、神はすべてを完成なさいます。ミサの第三奉献文に書いてあるように「そのとき、あなたは、私の目から涙をぬぐいさってくださる」。または黙示録 の終り(黙21章4節)に書いてあるように「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。ロマ書の8章18節 に次のように言っています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

(F)有益なる試練
今まで、苦しみや悪から私たちを救ってくださいという願いが中心でしたが、悪と苦しみは、私たち信者にとって、有益なる試練、訓練でもあります。私自身のことばより、聖パウロのローマの信徒への手紙5章1-6節を引用します。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、 今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているので す、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛 がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心なもののために死んでくださった。」

日本語でも、楽は苦の種、苦は楽の種といいます。試練訓練によって人は強くなり、試練は、悪いことでありながら良いことをもたらす場合もあります。良い苦しみといえます。その反面、苦しみは人に大きな害を加えることもありますし、絶望に追い込むこともあります。

(G)我々の苦しみには、また、とても深い神秘的な意味もあります。
聖パウロのコロサイの信徒への手紙1章24節に「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの 苦しみの<欠けた>ところを身をもって満たしています」とあります。もちろんイエス・キリストの十字架の苦しみ自体には欠けたところがないで しょうが、キリストの神秘体である教会は、世の完成まで、まだまだ苦しみを受けなければなりません。

そういう意味で、今でもキリストは苦しんで死に続けているといえます。誰かが苦しむとキリストは、彼、彼女とともに苦しんでおられます。私たちも聖パウロ と同じように、私たち自身の苦しみをキリストの苦しみと併せて、いけにえとして御父に捧げることができます。皆さんも是非それを実行してください。そうす れば、たびたび無意味と感じられる苦しみも、高い次元まで高められて意義深いものとなります。

結論‥‥皆さんはこれらの3つの記事を読んで、決して苦しみの意味を完全に分かったと思ってはいけません。しかしその中のいくつかのことばが、苦しんでいるときに役立つかもしれません。それだけで満足です。

Q. 悪魔のことがよく分かりません。もう少し説明してください。

A. 

[1] 悪魔の姿

(A) 日本の場合、だいたい悪魔は「鬼」の姿で出てきますが、それに対してキリスト教世界での悪魔の姿は、人間みたいな格好をし、黒いスーツを着て目 が赤く、頭に角があって長いしっぽがあります。皆さんも、絵や映画などで見たことがあると思います。特にゲーテの『ファウスト』という劇に出てくる悪魔 は、その典型といえましょう。日本語のことわざの「噂をすれば影」と同じような意味で、西洋には「悪魔の噂をすれば、そのしっぽが見える」という表現があ りますが、そこにもしっぽのある悪魔の姿が出てきます。

先ほどキリスト教の世界と言いましたが、正確に言うとそれは聖書の世界ではありません。その悪魔のイメージは、西洋の民族信仰によるものであります。

(B) 聖書では、悪魔の二つの具体的な形があげられています。それは蛇(創3・1)と竜(黙12・3)です。聖書の世界では、竜が東洋と違って悪い獣としてとらえられています。おそらく竜は蛇の変わった形と思われたのでしょう。

(C) イエスはたびたび奇跡を行い、人から悪霊を追い出しています(例えばルカ4・31-37)。こういう場合の悪霊は、悪魔というよりも悪い霊とと らえた方がいいと思います。悪霊が悪魔と同じであるケースもありますが、科学的知識のない時代には、精神的な病も悪霊の仕業と考えられていました。

細菌やウィルスなど医学的知識の乏しい昔の人たちは、病気の原因には超自然的な力が働いていると思っていました。イエスご自身も当時の人間として、同じ 考え方をしていたようです。専門家によるとイエスが追い出した「悪霊」の中には、今日の精神の病と同じではないかと思われるものがあります。もちろん、本 物の悪魔を追い出したこともあります(マルコ1・21-28)。

[2] 悪魔とは

旧約聖書と新約聖書には、悪魔について理論的に説明している箇所はありません。

聖パウロだけは、たびたび悪魔の活躍に言及します。エフェソ6章12節にこう書いてあります。「わたしたちの戦い(この世における悪との戦い)は、血肉 (人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天(空中)にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」。聖パウロは、我々人間を常に 脅かしている、いろいろな悪の力が存在していると教えています。その悪魔を、ギリシャ語でいつも複数形を使って指し示します。例えば「支配者たち」や「権 威者たち」と。

後世の教会は悪魔についての教えをさらに深め、悪魔たちはもと天使たちであったが、神に背いた結果、悪魔に変わったと教えています。ここで注意しなければならないことは、教会のいう悪魔は、ゾロアスター教と違って(「この世の悪《第一の記事》」参照)一種の悪い神ではなく、あくまでも神の支配下にいるものです。

[3] 悪魔の分類

新約聖書では、主に6つの悪魔の分類をあげています。次のとおりです。

  (1) マンモン
  (2) ベルゼブル
  (3) うその父
  (4) サタン
  (5) ディアボロス
  (6) タナトス

この後、6つの悪魔を説明しながら、私たちに及ぼす影響をとりあげていくつもりです。
この説明は、主にフランスの神学者ジャーク・エルールの教えによるものです。この6つというのは悪魔の数をいうのではなく、悪魔の分類です。この6種の 悪魔は我々の世界に活動している悪の力、悪の化身、悪の固まりです。我々個人も悪いのですが、人間の世界には個人を超えた悪があることを、私たちはよく経 験しています。

もう一回繰り返しますが、我々の中にも悪いところはありますし、いわゆる悪人もいますが、その他に悪魔もこの世に働いていると言わざるを得ないと思いま す。つまり、一人一人はそんなに悪くなくても、国家、社会、××団体、△△宗教などが徹底的に悪くなった事例はかなり多いわけです。例えばヒトラーのナチ ズム、スターリン時代の共産主義等々。また場合によって、個人が悪魔のようになってしまうこともあります。お金のために人を殺すなどです。こういうこと は、悪魔の働きと言うしかありません。

* 6つの悪魔を説明します。

(1)マンモン(富)

「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6・24)。
富というと、もちろんお金です。マンモンは、お金の化身です。もちろんお金それ自体は悪いものではなく、現代社会で欠かすことはできません。しかし、お 金はあくまでも手段で、人間に奉仕するはずのものです。ところが度々そのお金が人間を支配して、逆に人間がお金に仕えてしまうことが起ります。こうしてお 金が、マンモンという偶像に変わって悪魔的な力になります。お金のために人を殺し、傷つけ、辱め、神のことも忘れてしまうことがあります。今日の資本主義 にも、悪魔的要素は多分にあるといえます。行き過ぎた資本主義の結果、貧しい人が恐ろしいほど増えてきました。

マンモンこそ現代の支配者と言ってもよいと思います。ここで一番最初に、マンモンという悪魔をとりあげたのは、そういう理由です。
マンモンという悪魔に負けないためには、私たちはなるべくケチであることを避け、気前よくなり、貧しい人を助け、お金の使い過ぎを避けるべきです。あま りにも金持ちになる人は、マンモンにも負けがちです。そういう意味で、イエス様の金持ちに対する警戒を理解しなければなりません。(ルカ16・ 13,19-23、12・13-21)

(2)ベルゼブル(支配者)

ヘブライ語で、ベルは主、ゼブルは家を意味します(ルカ11・14-22)。そこから、この世の支配者という意味になったのです。この悪魔は、支配、権 威、支配者の化身です。もちろん、本当のこの世の支配者は神でありますが、この悪魔は、神の支配を自分のものとしようとするのです(ルカ4・6)。この世 の秩序のために、権威が、手段として必要です。パウロはロマ書の13章1-7節で、すべての権威は神からくると言っています。

しかしマンモンと同じように、手段にすぎないはずの権威が、目的にすりかわってしまうことがあります。権力という悪魔を崇拝して、人間はお互いにその権力 を濫用し、人々を圧迫し、自分の利益のために他人を支配するようたくらみます。この悪魔こそ政治家にとって一番危険な存在ですが、私たち一人ひとりも、い やなボスになることによって、周りの人に迷惑をかけることがあります。ここで、イエス様のことばを思い出しましょう。わたしは「仕えられるためではなく仕 えるために」来た。(マタイ20・20-28)

(3)偽りの父(偽者、偽)

ヨハネ8章42-47節には、神は真理であり、すべての真理は神から出ると記されています。悪魔は偽りであり、すべての嘘は悪魔から出る。また『真理はあなたたちを自由にする』(ヨハネ8・32)とイエスは言っておられます。

しかし、真理はしばしばイデオロギー、××主義となってしまいます。主義とは、真理の一部を選んでそれを最高の価値とし、すべての人がその価値に仕えるよ うになることです。最近の例をあげると、ナチズム、共産主義、国家主義です。例えば戦前には、国家を最高の価値として、人々はそれを拝むようになりまし た。こういう主義は、偽りの父である悪魔の仕業であります。

私たち個人にも、偽りの生活を送る危険性があります。ここでは、小さな毎日の嘘の意味ではなく、周りの人に自分自身そのものを偽りにする危険です。自分でないものを被って、周りの人をだましてしまうことです。こういうことを、偽りを生きるといいます。

偽りの父である悪魔の罠にかからないように、正直に謙遜に気取ることなく、自分の本物の姿を人に表わすように努力しましょう。

(4)サタン(批難者)

サタンというのは、すべての悪魔を表わす共通の言い方です。しかしここでサタンというとき、ヨブ記に出てくるサタンを意味します。ヨブ記の1章6節、この悪魔の役目は、人間が悪いことをしたと訴えることです。人を批難するという役割です。

すべての人にとって評判(面子)はとても大切です。評判が悪くなると、人との関係がくるってしまいます。私たちは、お互いの評判を尊重しなければなりま せんし、人の良いところをほめることは愛の大切な表現です。しかし場合によって我々は、人の評判を好んで傷つけることがあります。そうして、その人を壊し てしまうことがあります。そういう癖があるのは、たいてい自分の中に問題があって、他人に当たってしまう人です。場合によってその癖は、衝動脅迫的になっ て悪魔的になるのです。そういう時その人は、批難者であるサタンに取り付かれているといえます。今日のマスメディアも、特定の個人を中傷することがありま す。

そういうサタンの悪魔に取り付かれないように、好んで人の良いところに目を付けてそれを評価し、それを他の人に伝えるよう努力しましょう。

(5)ディアボロス(分離者)

ディアボロスというと、西洋のことばの悪魔(デビル Devil)の語源です。ギリシャ語ではディア「分離させる」、ボロス「投げる」という意味です。そこから、このディアボロスは、人を分離してお互いに切 り離すという役割をします(マタイ4・5-11)。つまり分離することによって人を壊すのです。本来人間と人間との間には違いがありますが、それはとても いいことです。お互いもっているものを補い合って完全な社会を作るのです。しかし、その違いを誇って他の人を軽蔑することもありますし、嫉妬することもあ ります。同様のことは、個人の間だけでなく民族間にも起ります。自分たちの優越を強調して、他の民族を蔑む場合があります。他の民族を差別し、悪魔的な行 動にもなります。こういう差別の結果、たくさんの個人または民族が、ディアボロスによって切り離されて、ひどい扱いを受けることになります。

こういう悪魔に負けないために、私たちは常に自分に与えられた特徴(違い)が、自分のためではなく、人類全体を築くためのものであると考えましょう。

(6)タナトス(死)

聖書の中では、死も悪魔です(キリスト教世界では、この悪魔は、骸骨の姿で暗いマントをまとって手に大鎌を持った死神です)。こういうと、読者の皆さん の中には反論する方があるかもしれません。死は自然現象ではありませんかと。でも聖書では、”生きる”と”死ぬ”という言葉は、自然の生と死を指していま せん。

簡単な例をあげますと、創世記の1章で善悪の実を食べれば死ぬと言われたアダムとエヴァですが、創世記3章でその実を食べても、結局死にませんでした。た だ、永遠のいのち、即ちまことのいのち、神のいのちをなくしただけです。俗っぽくいえば、完全に幸せないのち、完全に満足できるいのちをなくしただけで す。

原罪の結果、そういういのちをなくしましたが、イエス・キリストの救いの業の結果、人間はそれを取り戻すことができるようになりました。私たちはこの世 にいる間、洗礼によってその初穂をもらい、死後初めてそのいのちの完成をいただきます。人がその完成を受けることがないように、タナトスという悪魔がたく らんでいます。黙示録20章6節でいわれているように、私たちが第二の死(自然死は第一の死で、地獄は第二の死です)に到るように、タナトスは一所懸命で す。

もう一つタナトスの仕業があります。今日死の悪魔が一番成功している仕業は、現代の人に、永遠のいのちなど無いと納得させたことだと思います。多くの現代人が、この世のいのちがすべてだと思うようになったのです。

もう一つの死の悪魔の仕業は、いのちそのものにはあまり意味がないという雰囲気を、今の時代に蔓延させていることです。人のいのちを簡単に奪い取ってよ いのだという雰囲気です。今日では映画や小説だけでなく、実際の人間のいのちを粗末に考えるようになったのです。意味のない殺人、暴力、堕胎、虐待等々…

ヨハネ・パウロ二世が言われたように、現代は「死の文化」の時代です。我々自身も、ある程度まで悪魔の死の誘惑に負けてしまう危険があるのです。最近 は、信者の中でも永遠のいのちの信仰は薄らいできたといえます。誰かが亡くなると、葬儀のときに亡くなった人を過去の人のようにだけ扱い、残した業績にア クセントをおいて、その人の永遠のいのちを口にしないのが現状です。ここでも死の悪魔は、成功を収めています。

我々信者は、この死の悪魔の誘惑を退けて、この世において神の恵みをいただくだけでなく、いつか永遠のいのちをいただくという信仰を固めましょう。ま た、ヨハネ・パウロ二世が繰り返し言われるように、私たちは「いのち」(人の”いのち”、動物の”いのち”、大自然の”いのち”)を大切にしなければなり ません。黙示録21章4節には、世の完成の時に死という悪魔もなくなるという、慰め多いことばが書かれています。

[4] 疑問と結論

おそらく皆さんがうすうす感じてきたであろう疑問は、どうして神は悪をお許しになるのかということだろうと思います。それについては「この世の悪・第二 の記事」を思い起こしてください。キリスト教の悪についての見解は「神はこの世から悪を取り除くわけではない」という考えです。悪魔は神のようなものでは なく、悪の化身、人間の悪の固まりにすぎません。また、悪魔の力は一時的なもので、世の完成の時にその力は破壊されます(黙20・10)。

 結論として、私たちは悪魔の誘惑にさらされていますが、同時に聖霊の力ももらっています。主イエスの模範に従って生きるならば、悪魔は私たちに対して何 もできません。もちろん私たちは弱い人間ですので、悪魔に負けてしまうこともあります。その6種類の悪魔のどの1種にも取り付かれないように、聖霊の力を 願い、努力しましょう。

特に、次の聖書のことばを堅く信じましょう。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一コリ10・13)

≪第一の記事≫ 

キリスト信者でない人にとって、この世の悪はどこからくるのでしょうか。たくさんの宗教家、哲学者、思想家が、昔から悪の原因について考えてきました。彼らの出した主な解決を、ここで紹介します。 


(1)まず、いわゆる原始宗教の解決です。(日本の神道もその中に含まれます)大昔からどの宗教の人も、病気や苦しみ、死があるのは、我々人間が自然の 力(神々、死霊、悪霊)などを怒らせたからだと思っていました。宗教学的にいえば、タブー(禁止法)を知らずに、または知りながら、犯した結果だと思って いました。この場合、悪からの救いは、そういう力をなだめ、その力の起源を前もって抑えるために、生贄、儀式、供え物、呪文などを行うことでした。今日の 日本人の中にも、そういう考えを持つ人は少なくありません。

(2)ヒンズー教によると、すべての悪や苦しみは、前世の結果です。いわゆる輪廻の考え方です。生まれる前に犯した罪を償って、今の人生で良い生活を送 れば、生まれ変わって次の人生は良くなると信じられています。逆に今の人生を悪く生きれば、今度はもっと悪い運命に遭うことになり、場合によって、動物に 生まれ変わることもあります。仏教を通して、わが国にもこの考えが入ってきました。特に文学、お能の劇やホームドラマにもたびたび出てきます。

(3)仏教 これは難しく、ここで説明はしませんが、たいていすべての苦しみは、煩悩の結果だと言っています。煩悩を抑えることによって悪から救われると思われています。言うまでもなくこの考え方は、日本人の間で今も根強いです。

(4)マルクス主義によると、この世のすべての悪は私有の結果だということです。私有をなくせば、すべての問題が解決されると言っています。

(5)次の解決は、宗教と直接の関係はありません。悪や苦しみは、親と祖先の罪の結果だと考えています。特にイスラエルの民には、そういう考え方が強 かったです。ヨハネ9章2節でキリストの弟子たちは、盲人について次の質問をします。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したから ですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

(6)ゾロアステル教・マニ教 どちらもペルシャの宗教ですが、それらの思想によると二つの神があります。善の神と悪の神です。善の神が勝つとすべてが 良く、悪の神が勝つといろいろ悪いことが起ります。ある学者によりますと、この考え方は中国の陰と陽の考え方と関係があります。そうだとすると、わが国に も影響があります。陰と陽のバランスが崩れると悪いことが起るという中国の考え方がわが国にも、特に病気の原因として、あるからです。

(7)多くの人は、悪は運命、宿命の結果と考えています。運が悪いのでひどい目に遭ったといいます。特に古代ギリシャ人は、すべての悪は運命の結果、ま たは神々の勝手な決定だと思っていました。わが国でも、また全世界でも、こういう考え方は多く残っています。劇や文学などには、たびたび運命と宿命が出て きます。

結論として
悪の原因について幾つかの考え方を紹介しましたが、中には一理あるものもあります。確かに仏教がいうように、悪は煩悩の結果であります。また、親の罪の 結果、子どもが苦しむ場合もあります。ただ、キリスト教は前世からくる悪を認めていません。キリスト教には原罪がありますが、それは個人の罪ではありませ ん。前世を認める場合、それは個人の罪に関係します。また、キリスト教は、宿命と運命を認めていません。

≪第二の記事≫
悪の原因についてのキリスト教的見解 
 (1)無神論者による有名な2つの警句・神がすべての物を造り計らっているならば、この世のすべての悪は神のせいである。・悪の原因が神以外にあるなら ば、神は全能ではない。なぜなら神は悪に手が届かないからです。また、全能でない神はありえないので、神は存在しないことになります。

サマセット・モームというイギリスの作家の言葉ですが、神が愛であるならこの世の罪のない人の苦しみを許さないはずです。モームは小さいときにお母さんを亡くしましたので、この理屈で神の存在を否定しました。

質問者は先の2つの哲学的な説明によるよりも、おそらくモームのように自分の周りにある悪や苦しみを見て、一時的に神の存在を疑うこともあるかもしれませ ん。確かに我々キリスト信者は、悪の存在と神の完全な愛との間には、矛盾を感じます。正直にいえば、第一の記事に書いた悪の説明の方が分かり易いと思いま す。つまり、悪は運命とか罰とか、前世の結果であるという説明です。こういう場合には、悪に責任者はありません。私たちの場合には、その責任者は、私たち と同じように知恵と自由意思と感情のある神ではないかと思われます。つまり、聖書に書かれているきわめていつくしみ深い神は、どうしてこの世に行われてい るひどい悪を取り除くことができないのでしょうか。ひょっとしたら神は全能でないのではないかと思ってしまうわけです。

たしかに神の全能は問題です。私の国ベルギーで、最近子どもの宗教教育の担当者に、あまり簡単に神が全能であると言わない方がいいという注意がありまし た。子どもたちは、たやすく神の全能を魔法使い、あるいは操り人形師のように考えてしまうおそれがあります。神は何でもできるから、自分の周りに行われて いる悪を簡単に取り除くことができると思っていますので、そうしないと神の存在、在り方について、子どもの心に知らずに疑問が入り込んで、後にキリスト教 を全部捨てる危険性があります。

(2)では、神の全能とは何でしょうか。まず、たぶん皆さんをドギマギさせることを言わせていただきます。それは、神は3つの悪に対して何もできないということです。

A) 自然の在り方からくる悪、たとえば地震、洪水、台風など。その結果、場合によって人間は苦しむことになります。でも神は、ご自分が造った自然の在り方を変えるわけにはいきません。
余談になりますが地震がなければ地球には陸がなく、人間もいないはずです。
 

B) 人間と自然の有限性の結果としての悪。たとえば人間はいつか死ななければなりませんし、大自然の弱肉強食の中に存在しています。その結果、ウィルスや黴菌、獣などの犠牲になることもあります。やはり人間は神のように無限ではありません。その力には限度があります。

C) 次は人間自身の罪の結果である悪についてです。詳しくは説明しないつもりです。皆さん自身も加害者であり被害者であるから、よく分かっておられるでしょ う。ご質問にある、レイプされて子どもをかかえた少女たちもこの例です。我々にとってこの3番目の悪は一番痛く感じます。人間は共同体ですから、お互いの 悪の結果苦しむことがあります。キリスト教の大切な信仰箇条の原罪と深い関係があります。原罪を短く説明しますと、人類が神に背いた結果、初めからすべて の人の心に罪への傾きがあるということです。聖パウロのロマ書の7章14-25節を読んでください。とにかく人間は個人であるばかりでなく、悪の場合でも 善の場合でも、全人類という共同体の一員として、その共同体の悪の結果苦しむことが多くあります。

D) 以上の悪は、神の責任とするわけにはいきません。それらの悪は全部、自然または人間からくるものです。もちろん神は奇跡をもって悪を取り除くこともできるでしょうが、それはあくまでも例外で、より高い目的のためにだけ行われるのです。

(3)やはり神は全能ではないのでしょうか。我々がいつも信仰宣言で唱える最初の言葉は、全能の神である父を信じますということです。この言葉に気を付 けてください。全能+父です。先に述べた避けられない悪を、やがて我々人間にとって益になるよう父なる神は計らっておられます。これは神の摂理といえま す。やがて私たちは永遠の救いに至り、苦しみも涙もない新しい人生を神からいただきます。

これは信仰宣言の最後の言葉です――体の復活と永遠のいのちを信じます。今我々を悩ましているすべての悪、そして私たち自身で犯した罪の結果である悪を、 神はやがて全体の創造に役立つように働いておられます。たとえて言いますと、神はあたかもものすごく大きくりっぱな壁掛けを織っておられると考えればいい のです。その絵の中の影は悪です。その影のおかげで、まわりの絵がよりきれいに見えるのです。神がその悪を行ったのではないが、結局その悪を使って役立た せていらっしゃいます。

(4)もうひとつ問題があります。神は全能なのですから、悪と苦しみのない世界を造れなかったのでしょうか。もちろん神ご自身がその返事をご存知です。 あくまでも私個人の意見ですが、やはり今の世界が一番いい世界ではないかと思います。先ほどとりあげた人間の罪の結果である悪は、人間の自由意思の結果だ と言わねばなりません。人間は本質的に自由意思をもつ存在です。自由意思がなければ、私たちはロボット、あるいは操り人形にすぎません。また現代的にいえ ば、始めから終りまでプログラムされたコンピューターにすぎません。操り人形師のごとく、神が私たちの人生を始めから終りまで指導するなら、何の罪も過ち も苦しみもないでしょう(動物の本能みたいです)。

しかし、そのような人生は私たちのものではなく、神ご自身だけのものになります。神は我々が自分の人生を自分で築き上げるために、私たちに自由意思をお与 えになりました。神はそれほど私たちを愛しておられたのです。神はやはり独裁者ではなかったのです。もちろん神は前もって、場合によって人間が悪を選ぶこ とができることをよくご存知でした。しかし(3)で説明したように、神は私たちの悪までも役立たせてくださいます。

もう少し自由意思の説明が必要でしょう。自由はたびたびわがままと混同されます。自由とはまず、(a)FREE FROM…つまりいろいろな束縛・障害から(FROM)解放されている状態です。多くの人はこれだけを自由と考えています。しかし同時に自由 は、(b)FREE FORでもあります。いろいろな束縛から解放されて、神から与えられた使命を自ら進んで果たすため(FOR)です。その使命はもちろん自分自身の幸せ、自 己発展などですが、同時に他の人の幸せと発展を促進する義務もあります。やはり自由には責任が伴います。私たちがこの自由意思を正しく使うなら、この世か ら大部分の悪は消えてしまうでしょう。

(5)第一と第二の記事で、だいぶ難しかったかもしれませんが、なぜ悪があるかという問題をとりあげてきました。第三の記事は、どういうふうにして自分 に与えられた苦しみに立ち向かうことができるか、または自分の周りにある悪をどう見ればいいかというということを記したいと思います。たぶん皆さんは、そ ちらの方に興味があるでしょうが、やはり悪の原因を少しでも理解すれば、その悪を忍ぶ手段にもなります。

 ≪第三の記事≫

(A)第一と第二の記事で、悪の原因とその理由をある程度まで分かっていただいたと思います。でも悪と苦しみは、いつまでも完全に分かることはない問題 だということを忘れてはいけません。しかし、私たちが出遭っている苦しみの原因がある程度まで分かれば、それだけそれに対する私たちの怒り、抵抗、不満な どが少なくなるでしょう。

特に人間の罪の結果である苦しみ、または自然の在り方の結果である苦しみに対して、キリスト信者としても一種の<あきらめ>ができるでしょ う。聖なるあきらめと言った方がいいかもしれません。このあきらめは、旧約聖書のヨブ記によく表現されています。(もう一度読むことをお勧めいたします) ヨブ記を書いた人は、当時の旧約時代の人と同じように、この世のすべての出来事、良いものも悪いものも、その原因は神ご自身であると思っていました。しか し、この世の中で罪のない人も苦しまなければならないと気付いたヨブは、神の正しさを問うようになりました。その上当時のイスラエル人は、天国も地獄の存 在も知らなかったので、あの世に報いがあるとは分りませんでした。でもヨブは苦しみの意味と原因が分らなくても、すべてを神にゆだねますと告白します。

同じようにイエス・キリストご自身も十字架の上から「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と叫んで、ご自分の 苦しみに対して疑問をもっておられたようです。しかし、しばらくして「わたしの霊を御手にゆだねます」と言われました。(ルカ23章46節)

第一の記事では、キリスト信者でない人の中で、ある人が悪と苦しみは宿命あるいは運命の結果だと思っていると書きました。
正直に言えば、私たちも同じような気がすることが度々あります。しかし、その運命の裏に、私たちを愛しておられる神がいらっしゃると信じています。その 信仰は、先ほど言った聖なるあきらめです。神はこの世の苦しみと悪の意味をよくご存知ですから、すべての苦しみを神にゆだねましょう。

(B)第二の記事では、事実上大部分の悪に神の手が届かないと言いました。しかし、それを誤解してはいけません。結局今でも、神は宇宙のすべてのことを 指導しておられると、我々は信じています。ただ、その働きかけがよく分からないだけです。神は聖書によると、人類の歴史と我々個人の人生に、常に働きかけ ておられます。歴史と個人を放っておかずに、愛するお父さんお母さんのように、その子どもである私たちの成長を見守っておられます。やがてすべてが良い目 的に達するように指導しておられます。

旧約聖書と新約聖書を読むと、神はまずその選民であるイスラエル、後に新しい選民である全人類の歴史に、働きかけておられることが分かります。その一番大 切な働きかけは、その御ひとり子をこの世に送って人類と運命をともになさるということです。それ以来、神ご自身が特別に私たちとともにおられるようになり ました。イエスの別名は”インマヌエル”我々とともにおられる神という意味です。その上、御ひとり子イエスは、私たちのためにいろいろな苦しみを受けて、 最後に十字架の上で非常に残酷な死に方をなさいました。どんなに苦しんでも、イエス・キリストが我々と一緒に苦しんでおられます。人に捨てられても、特に 苦しんでいるときに私たちのそばにおられます。

(C)イエス・キリストは、私たちの癒し主・・
福音をよく読めば、イエスは弱い人、罪人を、特に愛しておられたと分かります。そしてそういう人たちを助けるために、たくさんの奇跡を行いました。第二 の記事では奇跡はより高い目的のためにだけ行われると言いましたが、奇跡が行われるかどうかは、私たちが決めることではありません。イエスは奇跡の条件と して信仰だけにしました。

したがって、(A)で言った聖なるあきらめの他、神の愛を信じて、奇跡も願うべきだと思います。自分自身、または周りの人がひどい目に遭うとき、私たちの 第一の義務は奇跡を願うことです。どうせ駄目だろうと思うことこそ、不信仰のしるしです。イエスご自身も死ぬ前の夜、神に奇跡を願って「この杯(十字架の 苦しみ)をわたしから取りのけてください」と祈っておられました。(ルカ22章42節)でもすぐ後に「わたしの願いではなく、御心のままに行ってくださ い」と付け加えられたのです。

マタイ7章7-11節で、イエスは私たちに御父になんでも願いなさいとおっしゃっています。お父さんが子どもの願いをかなえるように、神は常に私たちに良いものを与えてくださるとおっしゃっています。

ところがルカも、11章9-13節で同じイエスのことばを伝えていますが、良いものを与えてくださるという代りに、聖霊を与えてくださると言い直してい ます。おそらくルカは、自分の教会の信者に文句を言われたことでしょう。いくらお願いしても、願いをかなえてくださらないことが多いのではないかと。その ためルカは聖霊ということばに変えたのでしょうと容易に想像できます。
 やはり聖霊は最高の賜物です。それをもう少し具体的に説明するために、ルルドの例をあげます。毎年、何十万人もルルドに行って奇跡を願います。しかし、 実際奇跡が行われる時はわずかです。でもルルドに行って帰った人の話を聞けば、みんな大きな恵みをいただいたと言います。それがルカの言う聖霊です。つま り神の愛のプレゼントです。どんなことがあっても神は私たちを愛されていると、彼らには分かったのです。

(A)で言った聖なるあきらめの他に、積極的に神に癒しを願いましょう。私の国のことば、オランダ語のことばを借りると、祈りで天を攻撃しよう・・・ この場合、他の人に祈りを求めることもたいへん良いことです。イエスは人の信仰を見て中風の人を治しました。(マタイ9章2節)私たち自身の信仰は足りな いかもしれません。

最近は、癒しの典礼が行われるようになりました。病者の秘跡だけでなく、司祭、信者に癒しの式を行うように頼んでいいと思います。しかし、新興宗教のようにへんなやり方にならないように、教会の監督は必要です。

(D)私たちも癒し主でなければなりません
神だけに癒しと赦しをしてもらうわけにはいきません。自分の罪の結果の苦しみはいうまでもなく、他の人の苦しみ、不幸などを和らげ、その原因を取り除くことこそ、キリスト者の愛の表現です。

イエスの模範に従って、教会とその信徒はいろいろな方法、たとえば施設(病院、孤児院など)で病んでいる人、苦しんでいる人を差別なく助けてきました。 しかし最近は、国や町などがその施設を受け持つようになったので、我々信者の癒しの奉仕は、ボランティアのかたちに少しずつ変わってきました。皆さんも一 つだけでいいですから、ボランティア活動に参加した方が良いかもしれません。そういう意味で、私自身も府中刑務所の外人の受刑者の篤志面接員を務めていま す。

ところで最近、我々信者だけでなく、すべての人に新しい癒しの奉仕が出てきました。それは、大自然への癒しの奉仕です。特に科学の進歩の結果、大自然は 著しい害を加えられました。また大自然の汚染の結果、いろいろな事故などがおこってきました。ひょっとしたら、我々が疑問としているそれぞれいろいろな苦 しみの原因が、そこにあるかもしれません。たとえば最近、癌が増えたということも、汚染の結果だといわれています。

私たち信者は、特に汚染の解決に力を入れましょう。

(E)悪に対する神の勝利
今まで取り上げた、悪や苦しみからの救いという問題は、この世に限りました。しかし、私たち信者はこの世がすべてではないと堅く信じています。いずれの ときにか、神はすべてを完成なさいます。ミサの第三奉献文に書いてあるように「そのとき、あなたは、私の目から涙をぬぐいさってくださる」。または黙示録 の終り(黙21章4節)に書いてあるように「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。ロマ書の8章18節 に次のように言っています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

(F)有益なる試練
今まで、苦しみや悪から私たちを救ってくださいという願いが中心でしたが、悪と苦しみは、私たち信者にとって、有益なる試練、訓練でもあります。私自身のことばより、聖パウロのローマの信徒への手紙5章1-6節を引用します。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、 今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているので す、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛 がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心なもののために死んでくださった。」

日本語でも、楽は苦の種、苦は楽の種といいます。試練訓練によって人は強くなり、試練は、悪いことでありながら良いことをもたらす場合もあります。良い苦しみといえます。その反面、苦しみは人に大きな害を加えることもありますし、絶望に追い込むこともあります。

(G)我々の苦しみには、また、とても深い神秘的な意味もあります。
聖パウロのコロサイの信徒への手紙1章24節に「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの 苦しみの<欠けた>ところを身をもって満たしています」とあります。もちろんイエス・キリストの十字架の苦しみ自体には欠けたところがないで しょうが、キリストの神秘体である教会は、世の完成まで、まだまだ苦しみを受けなければなりません。

そういう意味で、今でもキリストは苦しんで死に続けているといえます。誰かが苦しむとキリストは、彼、彼女とともに苦しんでおられます。私たちも聖パウロ と同じように、私たち自身の苦しみをキリストの苦しみと併せて、いけにえとして御父に捧げることができます。皆さんも是非それを実行してください。そうす れば、たびたび無意味と感じられる苦しみも、高い次元まで高められて意義深いものとなります。

結論‥‥皆さんはこれらの3つの記事を読んで、決して苦しみの意味を完全に分かったと思ってはいけません。しかしその中のいくつかのことばが、苦しんでいるときに役立つかもしれません。それだけで満足です。

Q. 前号の悪魔についての記事中、イエスが追い出した悪霊の中には、精神の病であるものも含まれるとありました。イエスは神の子なのに、どうしてそれが病気であると分からなかったのですか。

A. ご質問に答える前に、ちょっとだけキリスト論についてお話ししたいと思います。
キリスト教の最初の三世紀の間、一番教会を騒がせた問題は、キリストの意味でした。幾つかの異端がありましたが、主なものは次の二つです。
(1)ドケティズム:(語源はギリシャ語のドケインという動詞で「見える」という意味です)すなわち、イエスは人間に見えたが、本当は神そのものでした。もっと簡単にいえば、イエスは外見は人間であっても、本当は人間ではありませんでした。
(2)アリアニズム:エジプトのアレクサンドリア教会の司祭であったアリウスによると、イエス・キリストはただの人間であって、神から送られた預言者にすぎません。

* これに対して当時の教会は、ニケア・コンスタンチノープルの両会議(325年)で「正統なキリスト教」を決めました。すなわち、主イエス・キリストは、よ ろず世のさきに御父から生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神…また、われらの救いのために天よりくだり、聖霊によって、おとめマ リアから御からだを受け、人となりました。(ニケア・コンスタンチノープル信条)

ご質問に答える前に、私はこの信仰箇条を固く信じていますと前置きするものです。

前号の記事で、イエスは病気、特に精神病は悪霊つきの結果であると、当時の人と同じように思っておられたということを書きました。そうだとすると、イエ スは神であるにもかかわらず、今日のわれわれの立場からみれば間違ったことを考えておられたのではないか、というご質問だと思います。なんでもご存知であ る神であれば、そういう間違いをするはずがないと。結局問題は、イエス様の人間としてのあり方にあります。

まず、幾つかの聖書箇所を参照してください。
 フィリピの信徒への手紙 2・7~8
 ヨハネの手紙一 1・1
 ヨハネ 1・14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

そして、ミサの第四奉献文にこうあります。「時が満ちて、あなたは御ひとり子をわたしたちに、救い主としておつかわしになりました・・・罪を除いては私 たちと同じように人間になりました」と書いてあります。人間であるとすれば、具体的には当時の人間、当時のイスラエル人であったはずです。ですからイエス は当時の人間として、当時の文化・文明の面で、他の人とまったく同じでした。たとえば医学、科学、哲学などの面では、他の人と同じ考え方をもっていまし た。もちろんこの世に送られた使命を果たすために、その使命(神の国の到来)について、当時の人よりもすぐれた考え方、知識をもっておられました。しか し、先に言ったように、その他の知識(たとえば病気の原因など)については、当時の人とまったく変わるところはなかったのです。 以上を以って、あなたの疑問が解かれたでしょうか。

Q.「信者のくせにとよく言われますが、どう答えたらよいのでしょうか。

A. ご質問に答える前に、およそ36年前の話をしたいと思います。当時、私は松原教会の敷地内にあった淳心寮の責任者で、同時に松原教会の助任司祭でも ありました。そのとき、ある信者の女子青年が信者でない男性と結婚することになり、その準備として二人のために結婚講座を行いました。

結婚式直前に最後の話をし、リハーサルになったのですが、急にその女性が「神父様、結婚をやめようかと思います」と言い出しました。びっくりして理由を 尋ねたところ、「約束に遅れるとか、ちょっとわるいことすると、すぐ彼に『信者のくせに』と言われます。そういうことが一生続くなんて耐えられないから」 と。どう答えたらいいかと迷いながら、男性に「あなたの宗教はなんですか。」とききますと、そばから女性が「仏教の禅宗ですよ。そして割と熱心で座禅もよ くやっています」と口を挟みます。それを聞いた私は、助かったなと思いました。

そして彼に、「禅宗は、宗教の中で自力で、自分自身を救うことになっています。それに対してキリスト教は他力で、私たちはイエス・キリストに よって救われるのです」。そして彼をからかうつもりで「もし我々キリスト信者が罪を犯さなかったら、私たちの救い主イエス・キリストは、失業する危険があ りますよ」と言いました。「ですから彼女があなたに『禅宗のくせに』と言うことはできますが、あなたが彼女に『キリスト信者のくせに』と言うのは、あんま り意味がないんですよ」と。それを聞いた男性は、「お願いします。彼女に『禅宗の信者のくせに』と私に言わないように。その代わりに私も、これから絶対に 『信者のくせに』と言わないから」。
こうしてめでたく、お二人は結婚することになりました。

        *    *    *    

ご質問の返事に戻ります。まず道徳は、すべての人にとって同じものであると言わねばなりません。キリスト信者であっても、儒教或いは仏教徒であっても、 無神論者であっても、人間の義務と権利はまったく同じです。モーセの十戒を例に挙げても、親を敬うべし、殺すなかれ、盗むなかれ云々は、すべての人に命じ られていることです。この間世田谷美術館に飾られていた、バビロニア帝国ハムラビ法典の石碑(およそBC1800年)にも、既に同様のことが書かれていま した。

「信者のくせに」という言い方はありません。「人間のくせに」ということならできます。もしあなたが信者でない人から、信者のくせにと言われたら、人間のくせにとは言えるが、信者のくせにという言葉には意味がないと、先のことを説明してください。

また、すべての宗教には、同じ黄金律があります。すなわち「人にしてもらいたくないことは、他の人にしないこと」です。この黄金律は、すべての人の道徳 をまとめています。信者が、信者でない人よりも、強く熱心にその道徳を行う理由はどこにもないはずです。場合によっては信者でない人の方が我々よりも道徳 的であることを、経験からご存知のことと思います。

道徳には、いつも決まった範囲があります。法律みたいです。ですから道徳は、その範囲をはっきりするために、たいてい否定文で言い表されます。殺すなかれ、盗むなかれ等々。ですから、道徳の黄金律も否定文から成っています。「してもらいたくないことは人にもしない」

ところがイエス・キリストは、マタイ7・12でその黄金律を肯定文に変えています。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人に しなさい。これこそ律法と預言者である。」ですからイエス様は、私たちが道徳を超えるようにと、確かにお奨めになったと言えるのです。

ヨハネ13・34で、イエス様は次のように言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。

しかし、掟といっても、道徳の掟とは根本的に違います。道徳の話に戻りますと、道徳には人間関係を<正しく>行うようにという目的があります。お互いの 権利を尊重するように。それは、いわゆる社会正義のことです。考えてみますと、一種の道徳的な物々交換です。五分五分のことです。その原理は「お返し」で す。旧約聖書にある「目には目、歯には歯」(本当はこの言葉は、ハムラビ法典にさかのぼるものですが)は、そういうことを意味しています。一般に考えられ ているような復讐法ではありません。「歯には歯」は、<正しい>適切な報復です。

ついでに言いますが、旧約時代において、それはシンボル的な言い方にすぎませんでした。どこにも、誰かの目が抜かれたという記録はありません。今日の裁判と同じように、正しい補償(たとえばお金など)だけが命じられていたでしょう。

そこでイエスは、「目には目、歯には歯と命じられているが、私は言う。敵を愛しなさい」と教えました。それはもう道徳ではなく、最高の愛を目指すように という、キリストからの呼びかけです。そのようなイエスの言葉の目的は、正しい五分五分の人間関係にとどまらず、すべての人の幸せを目指しています。

愛することによって、愛されることによって、人間は初めて幸せになれるのです。道徳を100%行っても、幸せになれるとは限りません。なぜなら、お互いの 義務と権利の範囲について、どこまでも争う余地があるからです。人間はエゴイストですので、自分の権利は過度に主張しながら、義務については最小限に縮小 しようとするものです。愛を以ってそういうケチな気持ちを超えないと、いつになっても満足できる人間関係はできません。イエスはこれを面白く表現しまし た。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と 言いなさい。」(ルカ17・10)

道徳は、あくまでも当たり前の行動です。すべての人がしなければならないことです。ちょっとおかしな言い方かもしれませんが、道徳を守ったからといって 誉められることはありません。当たり前のことですから。道徳を、互いに要求することはできます。道徳を守らない人を非難することもできます。

それなら、信者がイエス様の愛を守らないとき、信者のくせにと言われても仕方ないのじゃないかと思われるかもしれません。しかし、違います。愛は義務で はありません。愛は、本質的に自由です。自由でない愛、強制される愛は、愛ではありません。男女の愛を考えれば分かるでしょう。強制的な男女愛など、愛と はいえません。愛は、心から出る動きです。

おまけにキリスト様が私たちに求めておられる愛は、つまるところ敵を愛し、人を赦す、自分の権利を譲る、人のために命を捨てる等々… 正直にいえば、人間の普通の力を超えています。聖人でもなければ完全にできないことです。神の力である聖霊に強められてしかできないことなのです。

したがってキリスト教の愛は、誰にも要求できるものではありません。先ほど言ったように、愛は自由で自発的な行いです。イエス・キリストだけが、私たち にそういう愛を要求できるでしょうが、人間同士の場合、そういうことはできないのです。典礼聖歌390番は、これをよく表わしています。「キリストのよう に考え…」等々ありますが、最後に「力の限り」という言葉で結びます。

ごく最近のこと、電車の宙吊り広告の、次の文句が目に入りました。

「愛は正義」

もしこれまで私の言ったことを理解されていれば、そのスローガンが間違いであると、すぐにお分かりのはずです。

正義は道徳の次元です。もちろん、正義は愛の条件でもあります。正義もしくは道徳を行わない愛は偽善です。たとえば、貧しい人に正しい給料を支払わずに、その人に慈善を施してもそれは偽善です。先のスローガンを正しく言い改めるなら、
「愛は正義から(はじまる)」ということができます。

キリストだけが私たちに愛を要求できるように、キリストだけが私たちの愛の足りなさについて裁くことができます。世の終わりに(一人ひとりの死後にも) イエスが私たちの愛の実行について裁くことになっています。(マタイ25・31-46)しかし我々は、愛のことで互いを裁くことはできません。

前に、道徳についてお互いに非難することができると言いましたが、そういうこともしない方が安全でしょう。非難しがちな私たちに、イエスはユーモアを 以って注意なさいます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(ルカ6・41)ましてや愛について 「信者のくせに」は、他の信者に言わない方がいいと思います。イエスの裁きの前では、我々罪人は「主イエスよ、憐れみ給え」と言うことしかできないのです。

Q. 旧約聖書を読みますと、出エジプト20・4に「あなたはいかなる像も造ってはならない」(十戒のうちの二戒)と書いてあります。つまり偶像崇拝を禁止しています。旧約に出てくる恐るべき神の怒り、イスラエルの民に下される神の刑と罰は、ほとんどがこの偶像崇拝によっています。それでは今日の私共の生活の中に、これらがどんな関わりをもっているのか、またそれにどのように対処すべきかと考えたとき、たくさんの質問や疑問が出て参りました。
・日本の家に昔から代々受け継がれる宗教(御先祖様)、仏壇、仏像に対する対処の方法は?(自分の家ばかりでなく他家の宗教、特に葬儀に出席した場合の心構えと態度。たとえばお焼香はすべきかどうか)

・家庭生活において、出産(義理の母よりもらった安産のお守り)、入学(成就のためのお守り)、家の建築(建て直し、庭の大木を切り倒すときなども) などの行為に対する対処法は?

・移転や旅行等で経験する他宗教との関わりで、踏み込んではならない域は?

・偶像崇拝は目に見えるものばかりではないと思います。(唯一の神以外で崇拝の対象、畏れとなっているすべての偶像に対し…) 特に良心に対し罪を犯した場合、それが罰となって現れるのではないかとの畏れ、その罪が自分ばかりでなく子どもに影響が出るのではないかとのおそれ(たと えば、それが原因で子どもの入試が失敗するのではないか等)

随分日常生活の中で、偶像と関わっていることに気付かされます。


A.  全然宗教を信じないで、すべての宗教は迷信であると考えているある人に、キリスト教も迷信ではないかと言われたことがあります。その人にいろいろと説明し ましたが、宗教と迷信の根本的に違うところは、喜びと怖れだと答えました。つまり、まことの宗教は人に喜びを与えるが、迷信はたいてい怖れをおこす。迷信 はたいてい、あるタブー(禁止法)をおかさないためにいろいろな宗教的行い、式、行事などをしなければなりませんが、それを守らないと罰があたるとか、た たりを受けるなどの怖れや心配を経験するのです。

1. 
ご質問の最初の部分の死者に関することですが、この死者に対する関わりを、ここで取り上げるつもりはありません。なぜなら教会の売店に、そういう問題を細かく扱う、司教団の権威で出されたパンフレットを備えていますので、これを読めば十分な答えが出るはずです。

「祖先と死者についてのカトリック信者の手引」カトリック中央協議会 (ついでに言いますが、そのパンフレットの終りに書いてあるとおり、私は最初にこの問題についてパンフレットを出しました。後に司教団が、同じ内容を使って今のパンフレットを発行しています)

死者のことはそれまでにしますが、おっしゃるとおり、その他にも出産、結婚式、病気などとの関係で、数え切れないほどの迷信が、今日でも我が国に残って います。ついでに言いますが、それは決して日本に限ったことでなく、キリスト教以外の国々にはもちろん、またキリスト教国にでも、キリスト教の熱心が冷め るにつれ、今日再びいろいろな迷信が出てきたのです。そのよい例は占星術による占いです。

そういう迷信をいちいち取り上げるわけにいきませんので、分かり易い日本の迷信を一つ例にして、迷信の意味を説明させていただきます。それは地鎮祭です。

ジャポニカという大事典によりますと、地鎮祭とは、建築に際し工事にとりかかる前に、敷地を潔め祭る儀式です。土地の神から敷地を借り受けることを願い、土地の災いを為すものを払い、建築の安泰であるよう祈願するものです。

この定義をよく見れば、土地の災いを為すものを払うことが中心の式であります。神、または他の超自然的な力・霊などが、そこに家などを建てることを嫌うか もしれませんので、地鎮祭を行わないと、後に災いのおこるおそれがあるわけです。 ここまでの地鎮祭の説明は、すべて他の迷信も同じです。

2. 
しかしそういう昔の宗教、主に多神教・自然宗教には、たしかに怖れが中心的役割を果たしていますが、それだけではありません。日本語 のおそれには「畏れ」という漢字もあります。こういう畏れも、自然宗教には大切です。この場合は、自然の力に対する尊敬・感謝も含まれています。そういう 意味合いから、我々キリスト信者も自然宗教を評価することができます。

しかし我々は、ちょっと違う気持ちでそれらの現象を見ています。すなわち、創造主である神は自然を造り、その自然を賜物として私たちに与えてくださったわけです。私たちが自然を大事にすることは、創造主なる神に対する感謝の表現です。

迷信と接する場合について、これまで述べたことを具体的にまとめます。たとえば日本の文化に数多くある礼儀作法的行いの例として、披露宴の最後に「以上 をもって終ります」という代わりに「お開きにいたします」という言い方をしますが、この場合「終る」はタブーの言葉です。我々信者は、それを単なる礼儀作 法として言うのであれば問題ありません。しかし、ぼんやりして終りという言葉を使うと、何か悪いことが起こるのでないかと心の中で心配するようなら、それ はやはり迷信になります。キリスト教の伝統にまだ馴染みの薄い信者の場合、そういう気持ちが起こるのはやむを得ないでしょうが、一日も早くそのような怖れ から救われるように祈らなければなりません。愛する神が、絶対に私たちにそういう罰をお与えになるはずはないのです。

もちろん、そういう迷信を信じる人たちに配慮した態度をとることも忘れてはいけません。(ロマ書14章参照)自分にとってそういうタブーや怖れのないこ とでも、そういう人たちと歩調を合わせる必要は度々出てきます。ご質問の中にあった結婚式、出産などの場合がそうです。信者の少ない我が国において、それ はやむを得ないことだと思います。
 

3. 
もう一つのご質問は、キリスト教の中にも怖れがあるのではないかということだと思います。おっしゃる通り、罪を犯せば罰があるだろうし、また自分が犯した罪のために子どもが受験に失敗したのではないかという心配・怖れは信者の心にも出てくるでしょう。

(a) まず、罪の罰を取り上げますが、罪を犯すときに必然的な罰があります。
特に旧約聖書、またときには新約聖書にも、神が罰するという言い方がされています。それは、神がすべてのものごとを支配するという意味にすぎません。神 が怒って私たちに罰を与えるという意味ではありません。逆に、罪を謙遜に認めるなら、神は喜んで罪と罰を赦します。しかし神が赦しても、その罰自体を取り 除くわけにはいきません。罪を犯すことによって、神から与えられた秩序を乱した場合、必ずその秩序を戻すために償いをしなければなりません。そして私たち は、神の赦しと愛を味わいながら、喜んでその償いを果たすのです。ここにも怖れではなく喜びがあるわけです。

(b) あなたの質問の次の点を取り上げますと、自分の罪が周りの人にも影響を及ぼすのでないか、先ほど言った子ど もの受験の失敗などの心 配ですが、そういうことは信者として固く否定しなければなりませんし、そういう怖れを頭と心からなくさなければなりません。神は愛そのものでありますの で、絶対に他の人に罪の罰を移すはずはありません。(エゼキエル18章参照)

間接的に、自分の罪の結果、子どもだけでなく他の人に影響が出ることは大いにあります。秩序を乱した場合、それは今だけでなく、後にもその効果が出てく るはずです。そういう意味で、現代において我々の犯した罪が、次の世代にも悪い影響を及ぼすことが度々あります。今日の汚染がよい例です。今、段々出てき た汚染の危険は、随分前からあった人間の過ちの結果です。

こういう怖れは健全な怖れです。怖れというより心配と言った方がいいかもしれません。こういう積極的な怖れ・心配は、大いに勧めなければなりません。そ れは、罪を犯す怖れです。しかし、前に説明した迷信に対する怖れは、全部ネガティブでマイナスしかありません。そういう怖れを、思い切って心から払ってく ださい。

現代的な「お払い」の意味は、悪い力に対するのでなく、自分の心にまだ残っている非合理的な無駄な怖れのお払いであります。こういう「お払い」は、大いに歓迎しなければなりません。

 4.

最後になりましたが、迷信と旧約聖書の偶像崇拝の関係について、少し話をしたいと思います。
旧約聖書の偶像崇拝と、日本の伝統的宗教の偶像崇拝は、根本的に同じです。ついでに言いますが、日本でいう神道という宗教は、世界の宗教の最初の段階で あります。どこの文化にでもまず、多神教、汎神論(すべてのものは神である)、シャーマニズムがありました。私はゲルマン人出身ですが、西暦800年ま で、ゲルマンのほとんどの宗教は、日本の神道にそっくりでした。私たちは、現代でもそれを信じる人を軽蔑する必要はありませんし、また軽蔑してはいけませ ん。先ほど言ったように、自然宗教にも良いところが含まれています。

そういう意味で、今日のカトリック教会は、他宗教との対話を積極的に行っています。しかし同時にその宗教のマイナス面を、率直に指摘しなければなりませ ん。たとえば、すべての物は神が造ったものですから、その中に悪い力がひそんでいることを否定しなければなりません。もう一つ、それぞれの国に別々の神 (氏神)があるわけでなく、神は唯一で、全世界の人は等しく神の子どもであり、共同体であるというキリスト教の教えを、高く評価できます。他人の考え方・ 宗教を尊重しながらも、自分の宗教であるキリスト教について、高いプライドをもつことが必要です。もちろん他の宗教を信じる人にも、自分の宗教についてプ ライドがあるのは当たり前のことです。

最後に付け加えますが、旧約聖書を読むと、当時の偶像(彫刻など)は、それ自体が神であると信じられていました。つまり、ある神はそういう偶像の中に内 在しているというものでした。今では、たとえば日本の神道のご神体、仏教の仏像、またキリスト教のご像などを、神仏・キリストそのものだと考える人は、昔 と違ってあまりいません。むしろその像と神との関係はシンボル的、神秘的なものととらえるのが一般的でしょう。

Q. 愛の三形態(エロス・フィリア・アガペ)について、説明していただけないでしょうか。また以前説教で「愛情のない愛もある」とおっしゃったのですが、このことについてもう少し具体的にお教えください。

A. ご質問にお答えする前に、少し前置きの話をします。
私は46年前に日本にまいりました。最初の務めは姫路教会の助任司祭でしたが、同時に姫路にある少年刑務所の教誨師(きょうかいし)を務めました。そこ には、カトリック、プロテスタントの他、お坊さんや神主さんの教誨師もいました。おかげで日本に来たはじめから、お坊さんや神主さんと付き合い、仏教と神 道のことをかなり学ぶことができました。

お坊さんに、度々次のことを注意されました。キリスト教では「愛」という言葉をよく使いますが、それは日本語ではあまりきれいな言い方でなく、むしろ性愛を思わせるものです。その代りに仏教の用語「慈悲」を使った方がいいのではないかと言われました。

そのときは、どう答えたらいいかよく分からなかったのですが、キリスト教がどうしてこの「愛」という言葉を選んだのか、少しずつ分かってきました。確か に「慈悲」はすばらしい心構えで、キリスト教の愛の中にも大切な役割を果たしているとあとでまた説明するつもりですが、キリスト教が「愛」という、日本語 としてあまり印象の芳しくない言葉を使い続けるのには理由があるのです。

キリスト教の愛は、まず個と個(person)の間の心の動きです。神ご自身の中にも三位一体という形で個的な交わりがあるように、神の似姿として造られ た人間同士にも、そういう個的な交わりはとても大切で、最高の幸せのもとにもなります。また、慈悲というと上から下への憐れみというニュアンスがありま すが、愛は対等なものです。そういう理由で聖書では、神と人間の間の愛をしばしば夫婦愛・恋人の愛(雅歌)にたとえます。

もっと詳しく説明したいのですが、ご質問の返事に早く移りたいと思います。 エロス・フィリア・アガペの3つの愛の形があるとおっしゃいましたが、実はもうひとつあります。ストルゲといいます。その4つを、少しずつ説明いたします。

1.ストルゲは、動物にも人間にもある愛です。本能的な愛です。親と子の愛な ど、犠牲的な面もあるほど尊い愛です。たとえば動物は、命がけでも子を危険から守ることがあります。人間にも同じ心持ちがありますが、それは本能的な愛で あるだけでなく、文化によってもっと高いレベルに発展しました。人間の母性愛は、動物のそれよりもすぐれています。

2.エロスとは、日本語でいう愛情です。ギリシャ語のエロスという言葉の 根本的意味は、desire(熱望・願望)です。つまり誰かを欲しがること、日本語で「好き」と翻訳してもいいでしょう。ある特定な人に対する強い愛情を 言い表します。恋愛、恋、性愛がその主な内容です。「恋に落ちる」という言い方があるほどに、二人の人間を強く結ぶ心と体の動きです。

このエロスの場合は、感情が中心になりますから、感情のないエロスはあり得ません。エロスによって、二人の人間は深い幸せを味わいます。エロスという愛は必ず相互的で、愛する、愛されるという条件があります。片思いはエロスになりません。

3.フィリアは、日本語の友情とまったく同じ意味です。この場合も互いに 愛情を感じることがありますが、その他に同じ興味、考え方、趣味が共通することなどが主たる要素となります。そして、エロスと違って複数の人にも及びま す。このフィリアも、エロスと同じく相互的です。フィリアの場合も、お互いの関係によって深い幸せを味わうことができます。

4.アガペという言葉のもとの意味は、会食(symposium)でした。つ まり、お互いに対する愛、友情などを深めるための食事でした。キリスト教のはじめから、イエスの最後の晩餐に行なわれた会食を記念する、ミサという典礼の ために、アガペという言葉を使いました。そういう理由で、ミサの前にいっしょに食事をしていました(一コリ11:17-34)。そのうちにアガペは、キリ スト教的な愛の独特な意味をとるようになりました。つまり;無償の愛です。

アガペという、会食を意味するギリシャ語が選ばれた理由は、最近の聖書学者によりますと、ヘブライ語の愛(アハブ ahav)の発音によく似ているからだという意見が多いです。

このアガペという愛は必ずしも相互的でなく、感情が伴うことはありません。もちろんアガペには慈悲も含まれます。この場合、気の毒な人に対する憐れみの心、憐れみの感情が湧いてきます。

神のアガペは例外で、神の場合は罪人まで心から愛しておられます。しかしイエスがおっしゃった、敵も愛しなさい、わるい人も赦しなさい、となりますと、そういう人に対する感情的な愛はなかなか湧いてきません。ご質問のポイントは、そこにあると思います。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)とあるように、感情が出なくてもキリスト者は、すべての人を愛さなくて はなりません。もちろんアガペの場合にも、愛情があれば理想的です。聖人は、しばしばそこまで愛することができました。凡人の私たちは、どうしたらいいで しょう。自分にわるいことをした人を、どうして愛することができましょうか。そもそも、こういう人を愛しますといっても偽善的ではないでしょうか。

昔よく唱えられた愛徳唱という祈りに、次のようなきれいな言い方がありました。「主を愛するがために、人をもわが身の如く愛せんことを努め奉る」。敵を 愛すること、いやな人を愛することは、やはり神に対する愛になります。そして、聖霊の力によってしかできないことです。ですから、愛情が伴わなくても神を 通して、私たちの愛は誰にでも及ぶことができます。偽善ではないと思います。

具体的にいえば、アガペという愛は、その人々のための祈りから始まります。彼らが改心していくように、お互いの誤解が解けるように、または、彼らの自分に 対する敵意や嫌いな心の原因が分かるように、あるいは、私自身の気持ちが変わるように、という祈りです。ひょっとしたらいつの日か、聖人と同じように愛 情も伴ってくるかもしれません。

Q. イスラム教とキリスト教の関係を教えてください。根の深い憎しみがあるのでしょうか。

A. 1.「キ リスト教」というとき、その意味するものにいろいろあります。まず「キリストの教え」です。キリストは、憎しみはあってはいけないと教えました。次に「キ リスト教の教会とその信徒」の意味もあります。教会も、人を憎んではいけないと教えますが、その信徒とイスラムの信徒の間には、たとえば今日のフィリピン とインドネシアなどで、昔も今もたびたび争いがあります。

しかし、こういう争いは、なにもキリスト教とイスラム教の間に限ったことではありません。インドではヒンズー教とイスラム教の間、スリランカではヒンズー教と仏教の間にも、同じような争いがあります。

おそらくご質問にある「キリスト教」はキリスト教世界、キリスト教の深い影響を受けた文化、つまり西洋の意味ではないかと思います。たしかに、イスラム の世界とキリスト教の世界の間には、昔からたびたび憎しみが存在したと言わねばなりません。そういうものがあってはならないと、お互いに言いながらも、い ろいろな反感・対立からくる憎しみは今も根強く残っていると、率直に認めた方がいいと思います。今日のテロ事件のために、ますますその憎しみが強まったか もしれません。

2.まず、イスラムの世界とキリスト教の世界の間にある、3つの対立の原因を取り上げます。

a. 教えからくる対立
イスラムの歴史は、マホメッドに始まります。彼は今のサウジアラビアにあるメッカで570年に生まれ、40歳のとき、大天使ガブリエルを通して神からの 啓示を受けました。(イスラム教では神をアッラーといいます。AL=アルは英語の冠詞theにあたり、LAH=ラーは神。すなわち<唯一の神>を意味しま す)

このモハメッドに対する啓示は23年間続き、間もなくコーランという本にまとめられました。日本語でコーランといいますが、QUR’AN=クル-アンで す。「朗読する」という意味です。イスラムの信者は、コーランが、アラブ語での神からの直接のメッセージであると信じています。そういう意味で、コーラン はアラブ語でしか朗読できないことになっています。翻訳はあっても、アラブ語のできない人にコーランの意味がよりよく分かるというだけにすぎず、それは正 式なものではないのです。

コーランを読みますと、ユダヤ教、キリスト教と同じ教えが多いと気付きます。たとえばコーランでは、ノア、アブラハム、ヤコブの息子ヨゼフ、イエスも預 言者です。イエスはモハメッドに次ぐ大事な預言者ではありますが、神の御ひとり子とは認めていません。マホメッドは最後の預言者ですから、他の預言者より 権威が高いわけです。

また、コーランの中に聖書と同じ話がたくさんありますが、その内容がちょっとだけ、或いは大分違っていることがあります。イスラムによると、新約または 旧約の正しい解釈はコーランにあるだけで、キリスト教の聖書と異なる場合には、コーランの見解の方が正しいと強調します。これはやはり、イスラム教とキリ スト教との間の問題の一つになります。

もちろん、ユダヤ教であれ、キリスト教、イスラム教であれ、自分の教えが一番大切であると思うことは問題になりません。他の宗教でも、自分の教えこそが 正しいと思っているものです。でも今日では、宗教の自由は人権の一つですので、その違いを指摘するのはいいとして、他の宗教を見下したり軽蔑したりする理 由にはなりません。しかし、それぞれの宗教の中の原理主義者が、しばしば宗教どうしの対立や違いをあおって、今日でも争いや暴力、テロにもつながることは 残念な事実です。

b. 歴史からくる対立
歴史的に見れば、宗教による対立はありますが、むしろ帝国と帝国、国と国の対立の方が大きいです。

まず、イスラムが638年に、キリスト教の中心であるエルサレムを征服しました。それまではビザンチン帝国の領土で、そこに住んでいるのは全部キリスト 教信者でした。1099年に、皆さんよくご存知の十字軍が、エルサレムをイスラムから奪い返しましたが、さらに百年後、サラディンというイスラムの将軍 が、再びエルサレムを征服しました。

そのころ、イスラムの帝国は、次々にその勢力を増し、スペイン、フランスの南、バルカンまで及んできました。しかし、711年スペイン、732年ポワティエ、1683年レパントで、ヨーロッパはイスラムの侵略を徹底的に止めることができました。

考えてみますと、むしろ十字軍などは帝国どうしの争いで、その時代の強い者勝ちの原理に基づいて、お互いさまという感じがします。

しかし、第一次大戦のときに、オスマントルコがドイツ側に付いたので、同盟国(英仏米など)は、オスマントルコに対して徹底的に勝利を収めることができました。

「アラビアのロレンス」という映画を見ますと、当時の同盟国は、イスラム各国にそれぞれ独立を約束していながらそれを守らず、ヨーロッパの国々の保護国にしました。今も、イスラムの世界と西洋との対立の一番大きな原因は、そのときのヨーロッパの裏切りにあるといえます。

補足しますが、元はカリフcaliphと呼ばれる宗教指導者(マホメッドの後継者)が、イスラムの世界をまとめていました。オスマントルコの皇帝が最後 のカリフで、1924年にカリフ制度は廃止されました。ビンラディンとそのグループは、このカリフ制度再建を目指しています。そうすることによって、再び イスラム世界が、現代の西洋・東洋などと肩を並べることができると希望をもっているのです。それが今できないことが、やはりイスラム世界の大きな苛立ちの 原因ではないかと思います。そういう苛立ちから、アルカイダのようなテロリズムが生まれてきたと考えていいと思います。

c.文化と文化の対立
中世においてイスラムの世界は、文化的に、ヨーロッパよりすぐれていました。イスラムは、西洋に比べてギリシャ文化をよく保存し、それに基づいて高い文 化をつくっていました。後に西洋の哲学者は、大いにアラブの哲学者のお世話になったものです。当時のバグダッド市民は、ヨーロッパの大都市の民よりも、う んとレベルの高い生活をしていました。

ところがルネッサンス以後、イスラム世界は、西洋に対して少しずつ遅れをとるようになってきました。いわゆる技術文明の面でだいぶ遅れてしまいました。 ヨーロッパがルネッサンス期に、ギリシャ・ローマ文化のリバイバルと啓蒙主義によって近代文明を造り上げたのに対し、それができなかったのです。

その理由は、二つあると思います。  第一に、政教分離を認めることができなかったことです。現在では、イスラムでも国によってはヨーロッパの政教分離にならって、宗教の他に世俗精神も取り 入れています。そのよい例が、トルコ、エジプトなどです。最近ヨハネパウロⅡ世教皇はトルコを誉めて、他のイスラムの国々も西洋の良いところ、特に政教分 離を取り入れる必要があると指摘しました。もちろん社会における宗教の必要と役割を見失ってはいけないと、教皇様は付け加えています。

しかし原理主義の強い国では今日、シャリア(イスラム法)を再び導入しようとしています。つまり、宗教と政治は分離するのでなく、イスラムは宗教として 社会を指導すべきであるという考え方です。そのよい例として、イランのハタミ大統領は、常に宗教の最高指導者ハメネイ師の指導を受けなければなりません。

第二に、イスラムの教えにアクセントを置くあまり、学校での科学・文学などの教育がおろそかになったことです。その結果、西洋に政治的にも経済的にも劣 ることになり、それを大部分のイスラム教徒は気に病んでいます。そこから、西洋(特にアメリカ)に対する憎しみや恨みが生まれることになるわけです。

もちろんイスラムの人々の中にも、西洋のよさを認め、イスラムと西洋との対話を目指す人たちがいます。こういうイスラム教徒は、自分の宗教を捨てようとしているのでなく、イスラムのよさを全世界に知ってもらうことも目指しているのです。

【結論】 ここまで話してきたように、イスラムと西洋との対立はまだまだ根強いものであると同時に、お互いに対する 警戒と反感の原因である ことは否めません。警戒は、たやすく憎しみに発達する可能性が大きいです。しかし、西洋もイスラムも、お互いに対する憎しみを捨てる努力が、今日こそ必要 だと思います。

“イスラム”という言葉には、「平和」と「神に対する完全な信頼」の意味があります。(“イスラム”はアラブ語で、ヘブライ語と同じセム語族です。セム 語族の特徴として、母音よりも子音が重要視されます。“イスラム”の3つの子音S,L,Mは、アラブ語のサラームSALAAM=平和という意味で、ヘブラ イ語のシャロームと同じです。ですから根本的にイスラムは、平和の宗教なのです)

それぞれの宗教の根本である平和を重んじるならば、対話、尊敬、お互いの宗教と文化の評価などが可能であるはずです。そこに憎しみがあるはずはありませ ん。でも人間は罪深いものですから、なんとなく相手のわるいところと行動を大袈裟に強調して、たやすく憎しみに陥るのです。人間どうしと同じように宗教ど うし、文化どうしの間にも、一日も早く平和と愛が生まれるよう祈り、なるべく互いの理解を深め、誤解があれば勉強して偏見を改めるしかないと思います。

西洋の世界にも行き過ぎとあやまちがあると、我々も謙遜に認めなければなりません。たとえば世俗主義です。つまり、宗教を一般の人の生活や子どもの教育 から切り離すことは、西洋の世界の行き過ぎのひとつで、そういうことについてはイスラムにならうところがあります。もう一つは西洋での“家庭”の没落で す。イスラムの世界では、家庭と家族を非常に大切にしています。それもならうべきところです。

この度のニューヨークの事件(2001年9月11日)を機会に、お互いの間の対話が今こそ大切ではないでしょうか。

Q. ヨーロッパの教会で、信者が御聖堂の聖人の御像の前で、ローソクに火を灯して捧げている姿を何度も見ましたが、これはどういう意味があるのでしょうか。

A. ご質問にお答えする前に、もう少し広い範囲の話をいたします。できれば、私の書いた本『聖書のシンボル』の124ページ「光」を読んでくだされば役立つのではないかと思います。

ご質問は聖人の前のローソクですが、ローソクは典礼にも使われています。ブリタニカ大事典によりますと、”光”と”火”はたいてい霊的、精神的な臨在 (神または聖人がここにおられること)、または捧げもの、祈り、とりなし、潔めなどを意味します。昔はローソクでなく、たいまつやオイルランプを使ってい ました。今日でも東方教会ではそういうものを使い続けていますが、カトリックではおもにローソクを利用します。カトリック教会の御聖堂の聖体ランプは、本 来オイルランプでなければならないのですが、日本では地震による火事のおそれがありますので、これも電灯になっています。

この御聖体ランプの習慣は、旧約時代のレビ記24・1-3の規定にさかのぼるものです。「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じて、オリー ブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせ、臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に備え付けさせなさ い。」やはり、御聖体の中のイエスご自身の臨在を示しているランプです。

さて、ご質問に戻ります。聖人の前にともすローソクには、先ほど述べたように三つの意味があると思います。
a.ローソクは捧げもの、プレゼントのようなもので、何かの恵みをいただいた感謝、あるいは信心、聖人に対する尊敬や愛着などを表わすものです。あたかも聖人を喜ばせるためのようです。

b.でも、おもに祈りととりなしを意味しています。神に願いごとをするときに、ある聖人にとりなしをお願いするわけです。自分は神の前に罪人である、なんとなく汚れた者であるという意識がはたらいて、聖人のとりなしに頼る方がいいと思うのです。

c.また、自分が御聖堂を出た後もそのローソクが燃えていますので、なんとなく自分の祈りが続いている気がします。

日本でも、あちこちにこういう火をともす習慣がありますが、たいていの教会にはないようです。仏教にもお灯明という習慣があり、なじみやすいものでしょ うから、私個人としては日本の教会にもあるといいと思うのですが、ほとんど行なわれないのは、火事の心配のほかに何か理由があるのでしょうか。

Q. 待降節第一主日(’01/12/2)の福音書朗読は「目を覚ましていなさい」(マタイ24章)というテーマでした。何度か自分でも読んだ部分でしたが、 聴いているうちに「あれれ」という気持ちになりました。人の子がくる「その日、その時は誰も知らない」、だから目覚めていなさい、という教えがいくつかの たとえ話によって説かれます。その終りに「家の主人は泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせは しないだろう」とイエスがお話しになります。 どうもこれはイエスがご自分のことを泥棒にたとえておられるみたいに聞こえます。考えようによっては、まあちょっとひどい話ではありませんか。どう考えたらいいでしょうか。

A. 
 オランダ語圏に属している私の地方フランダースに、面白い言い方があります。「あの人はジェズクンですね」な どと言います。ジェズクンとはオランダ語 で、小さなかわいいイエスのことです。(クンとかケンなどは、ヨーロッパの国にある縮小語で、日本語で言えばイエスちゃんというような感 じです)ジェズクンといわれる人は、あまり性格が強くない人、弱虫だったり八方美人だったり、とにかくあまり高くは評価されない人です。

考えてみれば、イエスさまにたいへん失礼な言い方だといえます。本物のイエスとは大分違っていると、皆さんよくお分かりでしょう。この、イエスについて の間違ったイメージは、あるイエスの御絵からきていると思われます。フランスのサン・スルピスの修道会に初めて描かれ、その後長い間御絵や御像に使われた 絵です。日本でもよく売っているそのイエスの御絵は、目を天に上げてたいへん可愛い顔をしていますが、美しいけれど、強い性格があるような印象は受けませ ん。そこから、イエスご自身もそういうような方だと誤解されて、オランダ語のジェズクンという言い方が生まれたのでしょう。

たしかにイエスはやさしい方です。けれども福音書を読むと、そのやさしさは弱い人、貧しい人、差別されている人、罪人に対するやさしさだということが分 かります。我々は皆罪人ですのでそういうイエス様の姿に安心し、ありがたく、たいていの人がその御絵を好きです。ところが、本当のイエスはジェズクンでは ありませんでした。イエス様のやさしさの他に、強さ、男らしさ、場合によっては厳しい姿も、たびたび福音書には描かれています。

ご質問の中の泥棒にこだわることは、イエスご自身にはなかったのです。同じことは、不正の管理人をほめていること(ルカ16:1-8)にも言えます。これを読むと一般の宗教家の言うことではありません。でも、イエスはそういうことにこだわりませんでした。

また、きつい言葉もよく使います。当時のヘロデ王を狐と呼んだり(ルカ13:32)、ファリサイ人が白く塗った墓に似ている(マタイ23:27)とか、 手に鞭をもって神殿から商売人を追い出したり(マタイ21:12-13)、右の頬を打たれたら左の頬も向けなさいと教えながら、ご自分は裁判で顔を打たれ たら怒って「なぜわたしを打つのか」(ヨハネ18:22)などなどです。

また聖書には、イエスが権威をもっておられるとたびたび書かれています。イエスは極めて自由にふるまうのです。ユダヤ人の律法を自由に解釈したことは、そのよい例です。当時の人の目には、性格の強い方に見えたことでしょう。

結論を出しますと、イエスはやさしい方でありながら厳しい面も併せ持ち、ものごとをはっきり言える人、当時の権力者の意見に左右されない人でありまし た。決して八方美人や弱虫などではなく、人間として、すべての面においてすぐれた人格者でした。私たちの宗教の創立者であるイエスについて、そういう意味 でもプライドをもつことができると思います。

聖書の他のたとえ話は、私にも分かります。しかし、「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11-32)には納得できません。いくら悔い改めたとはいえ、放蕩 の限りをつくした弟をすんなり赦します。真面目に働き、一所懸命父に仕えていた兄に対して、何のほめ言葉もなく赦してやってくれといっても無理ではありま せんか。正直者はバカをみるということになりませんか。

A. 他のイエスのたとえ話が理解できても、放蕩息子のたとえ話に納得いかないということですが、マタイ20:1-16の、ぶどう園の労働者のたとえ話にも賛成できないかもしれません。

まず第一に、私はあなたのご意見にまったく同感です。第二バチカン公会議以前は、今のように3つのサイクルがなくて、毎年の同じ日曜日に福音の同じ箇所 が読まれていました。若かった私は、神父様の詳しい説明にもかかわらず、放蕩息子のお父さんの態度に毎年毎年抵抗を感じていました。おまけに長男だったか ら!

確かにご指摘のように、そういうことが一般になったら、正直者がバカを見るということになります。黒澤監督の映画の題名のように「悪い奴ほどよく眠る」 世界になるでしょう。確かにすべての罪人がすんなり赦されるのであれば、悪い人たちの方が有利になってしまいます。しかし、ご安心下さい。全世界の国々と すべての宗教(キリスト教を含めて)は、その放蕩息子のお父さんのやり方を実行しません。今でも悪い人たちはちゃんと罰せられ、場合によっては裁判にかけ られます。

またキリスト教の始めから、罪人の罪を赦しても必ず償いを命じました。復讐はダメだと言いながら、聖パウロは1コリント5:13では一人の男の信者を破 門します。教会にも教会法があります。そしてそれを守らない人には適した罰があります。イエスご自身も(マタイ5:15-18)「わたしが来たのは律法や 預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」悪い人はいつか、この世かあの世かで罰を受けると教えておられます。人の罪をすんなり赦すことはありませ ん。

では、どうして放蕩息子のお父さんは、簡単にその罪を赦し、またお兄さんにも赦すように勧めるのでしょうか。

まず、放蕩息子のたとえ話について、誤解されているところを少し正します。いくら悔い改めたとはいえ、Qでおっしゃいましたが、放蕩息子が実際十分に悔い 改めたとは言えないと思います。ただ外国で途方にくれて家に戻りました。自分の方から僕にしてもらうだけでいいと言ったのですが、それは絶対に息子として 認められるはずがないから、あきらめただけのことです。それに比べてお父さんの態度はとても寛大です。そこで、このたとえ話を放蕩息子のたとえ話と呼ばな いで、「愛するお父さんのたとえ話」といった方がいいという人もいます。このお父さんの愛のしるしは、彼に指輪をはめるようにという言葉で表されています (指輪は当時の印鑑でもあって、息子としての全権の回復を意味します)。

余談になりますが、仏教の法華経の四章にも、聖書の放蕩息子のたとえ話に似たものがあります。お読みになったら、そちらの方が納得できると思います。なぜ ならそちらの帰ってきた放蕩息子は、何十年もの間お父さんのところで働いて、完全にまともな人間になったことを確かめてから、再び息子として認められる のです。

問題に戻ります。どうしてお父さんはその息子を赦すだけでなく、何もなかったかのように元の状態に戻すのでしょうか。先ほどのマタイ5:17-18の続き を読みますと、律法と預言者を「廃止するためではなく、完成するため」に来たと、イエスはおっしゃっています。また(マタイ5:20)「言っておくが、 あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。ここでは「天の国」が大切な 言葉です。天の国は、イエスがこの世に造るために、天から来られたのです。その「神の国」といえる新しい世界の心構えは、「神の義」です。

その「神の義」と先ほど説明した「この世の義」、つまりすべての人間関係を規則とルールで決める世の中とは違います。その義は根本的に愛です。その愛を、 具体的に知りたいと思うなら、1コリ13章を読んでください。ここでは「すべてを赦し、すべてを忍ぶ」が大切な言葉です。罪の償いとかお返しとか、ギブア ンドテイクの利益の交換の世界ではありません。あふれる愛です。ほどを考えない愛です。利益を越える愛です。その出発点は、神ご自身にあります。

神は無から何の強制もなく自由にこの世を造ったのです。またその御ひとり子を渡すほど、世を愛されたのです。我々人間もこの神の国に入るためにはそういう 愛の心が必要です。ついでに言いますが、この「神の国」とあの世の状態である「天国」とは違います。イエスは神の国と言って、あくまでもこの世を神のみ 旨のとおりに造り直したいと思われたのです。もちろん世の終りに、神の国と天国はひとつになります。

ここで大切な結論が出ます。この放蕩息子のお父さんは、神ご自身であります。放蕩息子は、我々人間であります。(質問なさった方ももちろんその一人で す)我々みんなお互いにも神様と同じ愛を実行するように招かれています。もう一度よく、お兄さんに対するお父さんの言葉を読んでください。命令ではなく勧 めです。(参照マタイ5:43-48)

全体の結論として、我々人間はまず第一にこの世の常識である、罪を避け償いを果たすいわゆる正しい人間の務めを行わなければなりません。そしてその上に、力のある限り愛を実行いたしましょう。それはいわゆる義務ではなく、自由な行いです。

イエスは、自分の新しい掟である山上の説教を発布したときに、その冒頭に「幸いなるかな」という言葉を唱えました。先ほどのギブアンドテイク、義務と権 利だけの人間関係では、我々は満足できるかもしれないが、幸せにはなれないのであります。なぜならば、ちょうどいいギブアンドテイクというものは、なかな か無いものです。争いの可能性が、常にあります。それを、愛をもって超える必要があります。

そしてもう一度締めくくりとして申しますが、あくまでもこれは我々の自由な愛と力によるものであります。

たいへん難しい問題ですので、もし納得できないようであれば、このQを出した方でも他の方でも、更なるご質問やご意見を遠慮なくお出しください。

Q. 旧約聖書の「神」と新約聖書の「神」について
(1)
「神」は一つであるが、旧約聖書と新約聖書でのとらえ方が違うだけなのか。
(2)
「神」は一つであるが、二面性(父性的・母性的)をもっているのか。
(3)
旧約と新約の「神」はそもそも別の神なのか。
(4)
ミサの中で旧約聖書と新約聖書を、両方読むのはなぜか。

A. こんどの4つの旧約聖書と新約聖書の神の違いについての質問に、いちいちお返事する前に、聖書について根本的な知識をまず書きたいと思います。むずかしい問題ですが、なるべく簡単に説明するつもりです。
 

1. たしかに、旧約聖書と新約聖書を注意深く読むと、神が違うという印象を 受けます。神ご自身は永遠から、宇宙が存在する前から、そしてもちろん聖書が書かれる前から存在しておられました。宇宙ができる前の神の存在のあり方、そ の内面は、我々人間の不完全な知識では、いつまでも把握することはできません。神は我々の知識をはるかに超えています。

 
けれども私たち信者は、神がその存在と性格、あり方などを、ある程度まで啓示してくださったと信じております。その神についての啓示はおもに聖書を通して であります。(もちろん大自然を通して、また他の宗教の教えを通してなどでも、ある程度まで神のことを知ることができます)。しかしやはり聖書には、そ の啓示が一番決定的な、適切な言葉で言い表されているというのが私たちの信仰です。

ところで、今から書くことは、この記事で一番大切なことです。つまり、神についての啓示は漸次、少しずつ、一歩ずつ行われたということです。もっと簡単 にいえば、聖書のはじめからイエス・キリストの啓示まで、神についてのイメージは少しずつ変わってきました。もちろん、神ご自身は変わることはありませ ん。

ご質問の中にあるようなこと、つまり旧約聖書と新約聖書の神は、別な神であるかどうかは、この神ご自身のことでなく、そのイメージのことであります。も う一度繰り返しますが、神ご自身ではなく、神のイメージだけが変わってきたのです。たとえば、ある人を知り始めたころと、その人と長くつきあってからとで は、そのイメージも大分違うでしょうが、でもその人は同じ人であるに違いありません。神の場合も同じです。

ここで、次のような疑問を抱くかもしれません。なぜ神は、初めからそのまことのイメージを教えてくださらなかったのでしょうか。もちろん神だけがその理由をご存知でしょうが、たいてい次の理由が挙げられます。

つまり、神はよき教育者として、我々人間の知識、把握力と、それぞれの時代の文化の程度に合わせて、その時代の人によく分かるように、丁寧に説明してくださったのです。人間の考え方、文化、習慣などに配慮して、ゆっくり説明してくださったわけです。

2. ここで、旧約聖書のはじめからキリスト教までの、神の啓示の発展を、できるだけ簡単に説明いたします。
a.ここで大切なことに注意してください。聖書は世の創造の話から始まりますが、その創世記の最初の部分(1-11 章)は、ずっと後で啓示 され、書かれたものだと専門家は言っています。したがって、神と人間の最初の出会いは、アブラハム(およそ紀元前1800年)の話に始まります。そこで神 は初めて人間に出会ったといえます。しかし、アブラハムにとって、その神は「部族の神」に思われたはずです。日本的にいえば氏神みたいなものでした。

この神は、イスラエルという一つの民族と契約を結んで、ご自分のことを少しずつ啓示なさいました。後にモーセ(およそBC1200年)が、アブラハムの 神にまた出会って、神の名前(ヤーウェ:在って在るもの)まで教えてもらいました。そのときもまだ、ヤーウェは、イスラエルという民族だけの神だと信じら れていました。決して他の民族の神の存在を否定していません。

たとえば十戒の第一戒は、わたしの他の神を拝んではいけませんというだけで、他の民族の神の存在をまだ認めています。したがって、よく誤解されているよ うに、モーセの神についてのイメージは一神教ではありませんでした。宗教用語でいう「単一神教」にすぎませんでした。もちろんイスラエルは一人の神だけを 拝んでいました。当時の他の民族とちがって、その時から多神教を信じなくなったのです。それは当時としては革命的な教えでした。そして神のイメージとして たいへんな進歩でした。

そしてその神は、単に自然現象の説明であったり、自然の中の力であるように思われていた多神教の神々とは、大きくちがっていました。モーセの神は”個 的”な存在で、イスラエル人と契約を結ぶ神でしたし、イスラエルの歴史に深い係わりをもっていました。イスラエルの神は、大自然の力を支配しているだけで なく、イスラエルの歴史をも支配する神でした。その時からイスラエルの宗教は、自然宗教だけではなく、同時に歴史的な宗教にもなったのです。そういうこと は、私たち今日のキリスト信者にとっては、まったく当たり前のようですが、多神教に囲まれていた小さな民族イスラエルにとって、ヤーウェの神だけを拝むこ とは、どれほど分かりにくく難しい課題だったか、聖書を読めばよく分かります。何回も何回もイスラエル人は、偶像崇拝(つまり自然宗教)に戻りました。

b.紀元前700年から600年ごろまで、神はある人を預言者として選んで、イスラエル人にご自分のことをもっと詳 しく説明することになさ いました。そのときのイスラエルの文化のレベル、知識と把握のレベルは、預言者のメッセージが分かる程度まで進んでいたのでしょう。したがってそのとき、 神はさらに深くご自分の意味を説明なさいました。

特にイザヤ預言者は、神がただ一人だけである、他の神はないと、つまり真の一神教を啓示していました。「イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍 の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競っ てみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げ てきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない」(イザヤ書 44:6-8)。

この一神教は単に数学的な問題でなく、神はイスラエル人だけでなく、全人類・全宇宙の唯一の神であると啓示されたのです。これをもって、神の本質について の考え方の、発展は終わりました。今日のユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、その唯一の神だけを信じ、拝んでいます。

3.a.はじめのご質問に、旧約聖書と新約聖書の「神」は違うでしょうかとあります。どの時代でも同じ一つの神で、やはり神は一人しかいない、他の神々は存在しないと、今までの説明でお分かりになったと思います。

しかし、あなたの疑問には一理あると認めます。やはり旧約聖書の神とイエスが教えてくださった神は、だいぶ違うような気が、誰でもすると思います。

こんな面白い実話があります。
あるエホバの証人が、無神論者の家を訪ねて、聖書を勉強しませんかと誘っていました。その無神論者は、こう答えたということです。「実は私は聖書を読み 始めたのですが、聖書の神がこんなに恐ろしい残酷な神だと知って、二度と聖書を読む気がしなくなりました。もう帰ってください」。たしかに、旧約聖書のあ ちこち、特にモーセ五書と歴史書の中で、神は度々残酷な振る舞いを命じられています。いろいろありますが、二つだけ挙げます。民数記31章1-24節、ヨ シュア記8章14-25節を参照してください。

2のaで説明したように、アブラハムとモーセの時代の神は、一種の氏神、民族の神と信じられていました。当然その神は、イスラエルと共に敵と戦うはずで す。「主こそいくさびと、その名は主」(出エジプト15:3)といわれているほどです。こういう言い方は、当時の神についてのイメージに由来するので す。(まことの神にそういう残酷さのあるはずはありません)。さきほどの無神論者は、こういう聖書の言葉にこだわったのでしょうが、もっと先まで読むべき だったと思います。新約聖書を読めば、彼の「残酷な神」という印象は消えたことでしょう。

今まで言ったことに関連して、とても大切な注意をいたします。旧約聖書は、私たちキリスト信者の信仰の基準ではなく、信仰のルーツにすぎません。私たち の信仰の基準は、イエスの教えです。そしてイエスは、私たちを無条件に愛してくださる神のイメージを教えてくださいました。ナジアンズの聖グレゴリオは次 の大切な言葉をのこしました。「さあ、私たちは律法(旧約聖書)を受け容れましょう。しかし文字どおりでなく、福音的にそれを受け容れましょう」。

結論をいいますと、神は永遠から永遠まで変わりませんが、そのイメージは時代とともに、また一人ひとりの人によっても変わることがあります。イエスが教えてくださった神のイメージを、正しく受け容れましょう。

b.神に父性的・母性的な二面性があるのかという質問ですが、おそらく質問者の頭には、旧約聖書の神は父性的で、新 約聖書の神は母性的では ないかという考えがあるのではないでしょうか。たしかに旧約聖書の神は、おもに父性的に描かれています。それは、イスラエルという文化が、とても父性的、 また男尊女卑的なものだったからでしょう。その結果、神を考えるとき、当然のように神の父性的な面が強調されました。

しかし、まれではありますが、旧約聖書にも神が「母」として描かれているところもあります。「誰の腹から霰は出てくるのか。天から降る霜は誰が産むの か。」(ヨブ記38:29)「主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房 に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」(イザ ヤ66:12-13)などです。

もちろん、神ご自体に性はなく、男でも女でもありません。我々キリスト信者は、神を父としても母としても想像していいのです。でも、聖書はたいていの場合、神を父と呼んでいますので、それを今さら変える必要もないと思います。

ご存知のとおり、イエスは神を呼ぶとき父(ヘブライ語のアブ)ではなくパパ(アバ)という言葉を使いました。イエスは神が父であると認めながらも、その イメージを変えたのです。パパのようにやさしく、私たちをとても愛していらっしゃるという意味です。こう考えますと、私たちキリスト信者は、神が父性的で あるとか母性的であるとか、あまり気にする必要はないのではないでしょうか。

しかしついでに言いますが、旧約聖書ほどでなくとも、新約聖書にもある程度男尊女卑は感じられます。イエスにはありませんが、パウロにはそういう傾向が 感じられます。しかし、この記事のはじめに言ったとおり、神のイメージが少しずつ発展してきたと同様に、現在では男尊女卑は時代遅れだと教会も私たち信者 も認めています。

c.旧約と新約の神がそもそも別の神であるかという疑問には、aで既に十分に答えたつもりです。

4. ミサの中で旧約聖書と新約聖書を、両方読むのはなぜか。
3のaでいったように、新約聖書は私たちの信仰の基準ですので、読むのは当たり前として、なぜ旧約聖書も読むのかという疑問が出てくるのは当然だと思います。

すでに初代教会からそういう問題はありました。マルシオン(Marcion:AD85-160)という人は、全聖書を、ルカの福音書と聖パウロのいくつ かの手紙に限定しました。どうしてかというと、聖パウロは旧約聖書の律法に対してたいへん批判的だったからで、マルシオンはパウロの考え方をさらに進め て、教会が旧約聖書を使ってはいけないと教えていました。ルカはパウロの弟子だったので、ルカも認めたわけです。

マルシオンは、おそらくシェルドン(Cerdon:AD136年ごろ)が教えたグノーシス(GNOSIS)という異端の教会のメンバーの意見を、自分の ものにしたと考えられています。このシェルドンが、旧約聖書の厳しい神と新約聖書のやさしい神が対立していると、初めて教えました。しかし初代教会は、マ ルシオンとシェルドンの考え方を退けました。キリスト教にとって、旧約聖書は今でも大切な本だからです。

旧約聖書のある箇所は私たちの信仰に合わないと認めても、その大部分はとても意味深い大切な教えを含んでいます。イエスご自身もその弟子たちも、たびた び旧約聖書を引用しています。エマオの話(ルカ24:13-35)を読めば分かるように、そこでイエスは、旧約聖書をすべて成就したとおっしゃっていま す。

そういう意味で当然のように、また理に合うように、今も教会は第一朗読として、たいてい旧約聖書を使っています。第一朗読を注意深く読めば、その日の福音の適切な準備になっていることに気が付くと思います。

もちろん、いつでもその第一朗読だけで十分わかるというわけにはいきませんので、聖書と典礼の研究会、また聖書100週間に参加なさるようおすすめしま す。忙しい方、体の弱い方はそこまでやれないかもしれませんが、よく分からなくても尊敬をもって、第一朗読を聞いてください。教会が二千年前から旧約聖書 を使ってきたという歴史を大切にいたしましょう。

Q. 脳死について、カトリック教会はどう考えているのですか。見解が聞かれない気がするのですが。以前、加賀乙彦氏の『生きている心臓』という小説の中に、カトリックは脳死を死と認めるようなことが書いてあり、考え方がはっきりしているので感心したのですが、実際はどうなのでしょうか。死に対して宗教としては一つの見解をもち、リーダーシップをもつべきではと考えます

A. まず、この問題を取り上げる前に、キリスト教の大切な原理を述べます。それは、「人の命は神からいただいたものである」ということです。

我々信者は、神がすべてのものの創造主であると信じています。その上に、人間は、神から特別な尊厳を授けられています。したがって、一人ひとりの人間は、自分自身の命の持ち主ではありません。神からいただいた命について、神に対して責任をとらなければなりません。

神道と儒教の影響が強いわが国では、むしろ個人の命は、親とご先祖様からいただいたものだと考えられていて、命についての価値観は異なります。

もう一つの考え方は、人間一人ひとりが自分の命の持ち主だというものです。たとえばごく最近、いわゆるキリスト教国であるオランダで、ある条件を満たす 12歳以上の人は自分の生死を決定する(死を選ぶ)ことができるという法案が国会に提出されました。もちろん、オランダのプロテスタントとカトリックは、 共にその法案に反対しています。

日本の考え方に戻りますと、日本ではまず、死ぬということは社会的なもので、「社会常識」が、死んでいいか、いけないかの判断の基になります。日本では 往々にして、自殺が美しい行動とされます。(例えば昔の切腹、自決などを潔いとする風潮は現代にも通じるものがあります)

ところが案外、こと安楽死になりますと、日本の法律と一般の日本人の考え方は、キリスト教よりも厳しいような気がします。

キリスト教では、もちろんどんな場合でも、積極的な安楽死は認めていません。先に説明した考え方、つまり、神だけが命の持ち主であるという信仰に基づいて います。しかし、間接的な安楽死は、キリスト教でも考えられます。それは、その名のとおり、ある人を直接死なせるのでなく、他の目的で行なったことにより 間接的に、結果としてその人が死んでしまう場合です。
少々難しい理論ですので、分かり易いよう、二つの具体的な例をあげて説明します。

1. 耐え難い痛みに苦しんでいる患者に、その苦しみをやわらげるために、薬または麻薬(多くの場合モルヒネ)を投与して、その結果その人の命を縮める例です。つまり、薬を飲ませるのは、死なせるためでなく、痛みをやわらげるためです。

2. 膨大なお金がかかるとか、たいへんな苦痛を伴うなどの特別治療をしていた人が、それをやめることによって死ぬ例です。

結局、医学の進歩の結果生かされているが、ふつう自然(神のご意思)に任せれば、その人は死ぬだろうという前提のもとです。たとえば機械によって心臓や 呼吸、その他の機能を動かす場合です。もちろんその患者が、そういう機械の助けによって、人間らしい生き方が出来るのあれば別です。たとえばペースメー カー、人工的な心臓や肺といったものなどです。

ほとんどが意識が戻ることはないと確認された場合、また、すでに脳死が確かめられた場合のことです。こういう場合キリスト教では、先ほど言った特別治療をやめることは問題ありません。

3.問題点
人工的な食事はどうでしょうか。
それについては、キリスト教内部でも、まだ意見がいろいろです。たとえばチューブを通して流動食をあげるべきかどうか、見解がはっきりしていません。なぜかというと、誰でも食べる権利がありますから。

自分が脳死になったり、人間らしい生活ができなくなった場合に備えて、そういう特別な治療を、前もって断わることができます。いわゆる「尊厳死」で、遺言によってはっきりしておくべきでありましょう。

これ以上のことを詳しく知りたい方は、『カトリック大事典2』296頁~299頁を読んでください。(教会にあります)

Q. ヨハネ2027節の復活について。霊の復活についての理解はともかく、からだの復活は、どうしてもイメージしにくいです。人は生きているときに、すでに復活しているのでしょうか。毎日毎日自分を変えて新しくするのも復活に入るのか。からだの復活は、信じるのみでしょうか。

A.ご質問を読んで、それはイエスと我々人間の復活のあり方のことだと理解しています。したがって今回、救いの業としてのキリストの復活を取り上げるつもりはありません。ご質問に詳しく触れる前に、まず復活それ自体を説明させていただきます。復活とは、生き返りではありません。というのは、我々が今生きている状態と、まっ たく同じ存在のあり方に戻るということではありません。イエスは、ナインのやもめの息子や、マルタとマリアの兄弟ラザロを生き返らせましたが、その人たち は後で普通の人と同じように死んだのです。彼らは、もう一度この世に戻ったのですが、”復活”したとはいえません。
復活とは、まったく新しい神の創造です。黙示録の21章1-4節には、この世の終わりがあってから、新しい天と地ができると書いてあります。しかし、この新しい天と地は天から降ったもので、この世と同じものが再びできるという意味ではありません。

ここでご注意ください。人間だけが復活するのではありません。ミサの第四奉献文には、次のように、それが正しく表現されています。「神の国は、罪と死の腐 敗から解放された宇宙万物とともに・・・」。つまり、宇宙万物も復活するのです。したがって、あの世に存在するのは、我々の霊たちだけではありません。

もちろん私たちが死ぬときには霊だけがあの世に行くのですが、人間のからだは、世の終わりに復活します。

ついでですが、初代教会の時代にはプラトン哲学が盛んでした。それによると、もともと霊たちは神のもとにあり、しばらくの間ある人のからだといっしょに なって個人の人間となりますが、死ぬと再びその霊は解放されて、神の御もとに戻るのです。今日でも多くの人が同様に考えています。仏教にもそれに似た考え 方があるので、一般の日本人もそのように思っています。

ところが聖書によると、人間はただ霊だけの存在ではありません。人間は、霊とからだを合わせて、初めて本物の「人間」になります。霊がなければ人間ではあ りませんし、同じくからだもなければ人間ではないのです。聖書は、唯心論(精神主義)を認めていません。また、聖書は、からだを劣等なものともみていませ ん。霊もからだも、ともに神によって造られた尊いものなのです。(創世記1・2・3章)

1.第一の質問に移ります。からだの復活がイメージしにくいとおっしゃいますが、たしかにそのとおりです。
イエスも聖パウロも、人間の復活のあり方に短く言及します。マルコ12章でイエスは、私たちのからだが天使のようになると言って、復活したからだが霊的な からだだとほのめかしています。一コリント15:49では、パウロが「天に属するその人(イエス)の似姿にもなるのです」と言っています。

面白いことに、聖パウロは復活したイエスを見た(一コリ15:8)のですが、そのからだのあり方について何も教えていません。福音は、少しだけ復活したイエスのからだの様子を説明しています。

たとえばルカ福音書の、エマオへ行く弟子とイエスの出会いの場面(ルカ24:13-35)では、イエスは急に見えなくなったと書いてあります。またヨハネ 20:19では、戸が閉まっていてもイエスが部屋に入ってきます。なんとなく霊的なからだになっているという印象を受けます。

一方ルカ24:36-42では、イエスが現実のからだをそなえていたことが強調されています。弟子たちがイエスのからだに触ったり、イエスが食べたりなさるのです。そして、ご質問の中のヨハネ20:27でも、聖トマスがイエスの傷痕に触ります。

聖パウロも他の弟子たちも、もう少しイエスの復活したからだがどんな様子だったのか、説明して欲しかったというのが、私たちの率直な気持ちだと思います。 しかし、イエスもパウロも、その説明をあえて避けたわけではありません。新しい天と地、復活した人間の新しくなったからだは、私たちの目も知恵もとうてい 及ぶものでなく、詳しくイメージ(想像)することは不可能です。まったく新しい生き方なのです。ときどき映画に出てくる宇宙人のような、へんな姿ではあり ません。
 一コリ2:9に書いてあるように、神が私たちのために準備してくださった新しいあり方を、想像することもできません。私たちの知恵と想像力をはるかに超 えているからです。そういうわけで、イエスもパウロも、私たちにはっきりイメージを伝える説明はできなかったのです。ご質問の終わりに書かれたとおり、信 じるしかありません。

しかし、その“信じること”を、あきらめのような消極的なものであると思わないでください。現実的な例として、子どもが親からのクリスマスプレゼントを一 所懸命待っているとしましょう。そのプレゼントが何であるかは分かりませんが、親の愛を信じているから、きっとすばらしいプレゼントだと分かっています。

からだの復活も、どんなものになるのか想像もつきませんが、絶対にすばらしいからだであることを確信できます。あの世がどんなものか、そこでの私たちの存 在のあり方がどんなものか、想像できませんが、そのすばらしさは確実です。ミサの信仰宣言の終わりに唱える「からだの復活を信じます」とは、そういう意味 です。

2.ご質問の第二部の方が、今の私たちにとって大事なものだと思います。つまり、毎日毎日自分を変えて新しくするのも”復活”に入るのですかという質問です。
そのとおりです。復活は神からのプレゼントでありましょうが、同時に私たちの生き方にもよるのです。もちろん神からいただく新しい存在は、私たちのこの世 での生き方、努力の成果よりも、うんとすぐれたものではありましょうが、だからといって、この世における私たちの生き方になんの意味もないとはいえませ ん。一コリ15:35-44をもう一度読んでみますと、パウロは、復活したからだたちの間に差があると教えています。

また同じく、イエスが教えてくださったタラントンのたとえ話(マタイ25:14-30)も、あなたの質問の適切な返事であります。
その中でイエスは、3人の人の態度をあげます。まずその3人は、それぞれ違った額のお金を主人からもらいます。その意味は、私たち一人ひとり違う役割、可 能性、才能などを神からいただいているということです。神は同じ人間、クローンみたいなものは造りませんでした。違っていることによって、豊かなバラエ ティのある人類を目指したのです。

そのタラントンの話を続けて読みますと、はじめの二人はともに一所懸命もらったお金を倍に増やしました。同じように、私たちはもらった才能を短い人生の間に増やすはずなのです。
さらにその先を読みますと、二人とももらったお金を倍にしたのですが、一人は10タラントン、もう一人は6タラントンに増やしたのです。でも、主人から同 じほめ言葉をもらっています。はじめにもらった金額が違ったとしても、彼らの努力が同じだったので、報いも同じでした。

3人目は逆に、もらった1タラントンを隠して主人にそのまま返しますが、たいへんなお叱りを受けます。手ぶらで帰されます。

このたとえ話から、次の結論を出すことができます。私たちは皆ちがう可能性、才能などをもらいますが、あの世で、それぞれこの世の努力次第の報いを受けるのです。もらった才能の程度でなく、この世の努力の程度に応じた報いです。

もうお分かりになったでしょう。私たちのこの世の生活は、すでに私たち一人ひとりの復活のあり方の実現になっています。おっしゃるとおり、毎日毎日自分を 変えて新しくすることから復活は始まっています。その結果として、あの世でもみんな違うのです。まず一人ひとりの個性に加えて、この世における努力の差に よっても違うはずです。俗っぽくいえば、この世の業績次第です。こう考えれば、私たちのこの世の生き方がどうでもいいわけはありません。神が私たちを裁く とき、もらった可能性を基準になさるのでなく、それをどれだけ増やしたかによって裁くのです。

イエスがたびたびおっしゃった言葉を、ここで思い出します。場合によって、この世で一番小さな者が、あの世で一番になるのです(マルコ10:14)。また、先の者が後になり、後の者が先になる(マタイ19:30)、その意味なのです。

ここでちょっとイエスのたとえ話から離れますが、次のことも想像できます。たとえば、5タラントンもらった人が1タラントンしか増やさず、6タラントンに しかならなかったとしたら、この人はどういう報いを受けるでしょうか。イエスはこの場合をとりあげませんでしたが、その人は少しは努力したにせよ、十分努 力したとはいえないわけです。こういう人は、あの世でどうなるでしょうか。それについて確かな答えを知ることはできませんが、やさしい裁き主イエスは、そ れぞれの人の事情を配慮してくださると思います。何の努力もしなかった3番目の人だけを手ぶらで帰したのです。

今言ったことは、いわゆる煉獄と関係があると思います。(「煉獄」という日本語はあまりふさわしい翻訳でないように思います。それよりもラテン語のプルガ トリウム:PURGATORIUM、すなわち「潔めの場所(可能性)」という方がいいと思います。)つまりこの世で十分に自分の復活を準備しなかった人が 煉獄でもう一つのチャンスをいただくのだと、カトリック教会は昔から信じてきました。考えてみますと、これこそ神の、私たち弱い人間に対する思いやりでは ないでしょうか。

結論をいいますと、煉獄の潔めをあまりあてにしないで、私たちに与えられた人生の間に、一所懸命自分の復活のあり方を準備しましょう。しかし、忘れてならないのは、私たちの努力によるよりも、すぐれた復活のからだを神からいただくのだということです。

Q. 聖書にときどき出てくる「証し」の意味をお教えください。;証明と同一なら客観的な証拠、証明が必要と思いますが。

A.このことについて字引を調べましたが、証しとは「身の証明を立てる」と書いてあります。たとえば自分が有罪を疑われたとき、罪がなかったことの証拠を見せることです。また、その証人になることでもあります。字が違いますが「あかし」(明し)にはまた、あかるみに出すとかあきらかにするという意味もあります。たとえば、ある秘密をあきらかにする、などです。ご質問を読みますと、あなたは前の方の意味をお考えになったと思います。もちろん、この場合は信仰の証しです。それを上の定義に合わせると、自分の 信仰をあきらかにする、あかしするという意味になります。おっしゃるとおり、証拠と説明がその方法になります。つまり、証拠のない証しはおしゃべりに過ぎ ません。
非常に広い範囲のご質問ですので、3つの勧めに限ってお話ししたいと思います。

1. 一番大事なことは、自分が信者であること、イエス・キリストを信じていることを、他の人に証しすることです。この場合の証拠は、自分の信仰のよろこびでしょう。
自分が信者であることは自分にとってとても良いこと、幸せのもとであり、人間としての成長につながるものだと、なんとなく他の人にほのめかすことです。 場合によっては、はっきりした言葉で説明することもあります。抽象的な、あるいは神学的な説明ではなく、信仰が自分にとってどんなに良いものであるかを説 明することです。ですから、自分が信者であることを隠さずに、なるべく公にすることが必要です。
ここで一つ注意を加えます。日本人は、宗教イコール道徳と思いがちです。ですが、自分自身がそんなに良い人であると思わなくても気にせずに、信者であることを隠さない方がいいと思います。そして、宗教=道徳の偏見を正せばいいのです。以前の「信者のくせに」という記事に、道徳は信者であるなしにかかわらず、誰にとっても同じであると説明しました。それを参考にしてください。

2. 第二の勧めは、信仰の具体的、専門的な内容の説明を信者でない人から求 められる場合です。そういうときには、自分の信仰についての知識や、その相手が信者になる方法を説明できることが必要でしょう。そのために、やはり信仰についての勉強も大切です。難しい神学は必要ありません。そういうことが上手になるためには、やはり実行であります。経験を積むと上手になるはずです。ここでも一つ注意を加えます。信者になることは難しいことだとは決して言わないで、案外簡単だと主張することです。もちろんセールスマンのようにおおげ さに言ったり、嘘をついたりする必要はありませんが、セールスマンにならって、上手に人を誘うことを覚えた方がいいと思います。3. 第三の勧め 証しは人間のしわざではありません。聖霊の力が必要です。適切な言い方ができますように、聖霊に祈ることが大事です。また、信仰のよろこびをもっともっと自分でも体験できるよう、自分のために祈ることです。結論として、魅力的な信者になるために聖霊とともに努力いたしましょう。
最後に、ニーチェの有名な言葉を引用します。「キリスト信者は自分が救われていると言いますが、あまり救われた顔はしていない。」

Q. 酒を飲むことは罪ですか?

A.当然のことながら、酒を飲むことは罪ではありません。酒も神の恵みの一つです。詩篇104:15に「ぶどう酒は人の心を喜ばせ」と書いてあります。でも酔っぱらうことになりますと、話が違ってきます。

私と同じフランダース人ウィレム・ド・ルブルックは、フランシスコ会の神父で、1241年ごろ当時のフランス王ルイ9世の使節として、モンゴルの元王朝 の首都に送られました。その旅行についての、たいへん詳しく面白い日記を残しているのですが、その中にこんなことが書いてあります。「モンゴル人が、必ず 酔っぱらうまで飲むことに、たいへん驚きました」と。

実は、私自身も47年前日本に来たときに、日本人もよく酔っぱらうまで飲むのだと驚いたのです。さらに驚いたのは、酔っ払いに対して皆がたいへん同情的で、事故を起こしても“酔っぱらい”が減刑事由になっていたことです。ですから、恐縮しながらご質問にお答えします。

飲むことは罪ではありませんが、自分の行い、話、判断をコントロールできなくなるまで飲むのは罪です。場合によって大きな罪にもなります。たとえば、酔っぱらい運転によって人や物に損害を与えたときにはいうまでもありませんが、事故に至らなかった場合でも、事故を起こす可能性があるほど酔っぱらうことは罪になります。

Q. 洗礼を受けると、それまでの罪と罪の償いが赦されると聞きましたが、罪の償いが赦されるということは、洗礼を受けるまでの罪に対する煉獄での罰も赦されるという事ですか?

A.もちろん、おっしゃるとおりです。しかし、洗礼を受けたあとで犯した罪の償い は、この世で(祈りや善行などによって)果たすか、それが間に合わなかった場合、死んでから潔められることになっています。それが、カトリックの伝統的な 教えに基づく煉獄の意味です。愛する神が、私たちに第二のチャンスを与えてくださるわけです。

Q. 教皇様、司教様、神父様方の祝福と、聖体拝領のときの修道者、信徒の方々の祝福とは違いがありますか。

A.聖体拝領のときの、司祭と聖体拝領奉仕者の祝福は同じです。
司祭も信徒も、洗礼および堅信の秘跡の結果イエス・キリストの祭司職にあずかっています。そういう祭司職のほかに、教会の中には特別奉仕者がおります。おっしゃるように教皇、司教、司祭、助祭がそうですが、そういう人たちは叙階によってその奉仕の資格をもらうわけです。

最近司祭の数が減ったために、信徒でも教会の中でいろいろの奉仕職を許されるようになりました。日本では、今は私が知っている限りでは聖体拝領奉仕に限ります。

その人たちは、司教または司祭から、その奉仕の正式な任命を受けています。彼らは、司祭と同じ意味の祝福を授けることができます。

Q. ミサで福音を読まれる前に「ひたい」と「口」と「胸」に小さい十字を切りますが、それぞれ意味があるとうかがいました。どのような意味でしょうか。

A.この質問をなさった方は、もう既に気が付いただろうと思いますが、神父によっ て、また信者によって、福音の前の動作をしない人もあります。ローマの典礼の規則としては、司祭だけが聖書にまず十字を印して、その後、自分の額、口、胸 に十字 を切るようになっています。信者については、なんの指示もありません。日本司教団は「司祭が、聖書だけに」十字を切るようにと定めています。

でも、昔からほとんどの国で、カトリック信者もその動作をやってきました。やっている意味がよく分からないままに次々十字を切ることはよくないし、魔術 のように見えるという理由もあり、教会によって、また神父によっては、その動作をやめるように指導することもありました。

まず、その意味を説明します。額に十字を切るとは、額が頭の一部ですので、これから聞く聖書の言葉をよく理解できるようにと願う意味です。口にするの は、聖書のメッセージを、他の人にも伝えることができるように。胸にするのは、胸が心を意味しますので、聖書のメッセージを心に留め、なるべくそれを実行 できますように。

次に、どうして十字を切るかというと、昔から十字を切るという動作は、ある人・あるものを祝別するという意味でした。祝別は、その人・そのものに特別な 力を与える意味です。十字を切ることによって、先ほどの三つのことが実行できるように、その力が与えられるよう願うのです。

最後に、私個人の意見を述べると、信者もその動作をするのはいいことだと思います。日本の典礼委員会では、それを別に禁止していませんのでご安心ください。

また、次々動作をやめるだけでは、典礼がよくならないと思います。もちろん十字を切るのが日本的でないなら、その替わりになる日本的な動作を考えればいいでしょう。最近の典礼は、言葉が多すぎて動作が少ないというのが、私の率直な意見です。

Q. 聖金曜日の典礼の最初の方で、神父様が祭壇の前で、バタッと伏したのにはどういう意味があるのでしょうか。あの姿が心に強く残りました。一種のショックとして。神にとらえられた人とという感じがして。

A.どの文化でも、神の前に、また偉い人の前に体を低くすることは、その人を特別に 尊敬 する、神の場合であれば神を礼拝するという意味です。キリスト教でも、時代と国によって、その動作が違います。例えば西洋では、跪くこと(片膝または両膝 を折る)は普通のやり方です。第二バチカン公会議の後に、日本の司教団はその「跪き」を「深いお辞儀」に変えました。お辞儀の深さにいろいろあって、場合 によって違えるでしょうが、神の前、ご聖体の前での場合、普段よりも深いお辞儀が適切だと思います。ときたま信者のお辞儀は、ちょっとお粗末なような感じ がします。

ところが、非常に荘厳な典礼の場合には、更に尊敬の強い表現を用います。それは、ご質問の中にある、「地にひれ伏す」という動作です。今の典礼では、聖 金曜日の式の前に、司教・司祭・助祭の叙階の前に、また修道者の誓願の式でも行います。聖金曜日に、イエスが私たちのために命を捧げてくださったことを思 い出して、とても深い尊敬を表わすわけです。私自身も毎年それをいたしますが、ショックこそありませんけれど、でも、心と体がシンとする感じがします。特 にそのときに歌も音楽もなく、深い沈黙のうちに行いますから。

ついでに言いますが、ひれ伏すという動作は非常に東洋的で、日本ではあまり見たことはありませんが、たとえば韓国には、仏像の前で何回も繰り返しひれ伏 す習慣があり、とても印象深いものでした。東洋文化に対する土着化の一つとして、信者も、場合によって、そういう形の礼拝をすることができれば、信仰を深 める一つの方法になるのではないかと思います。

Q. エルサレムの神殿に始まるキリスト教世界の「神殿のイメージ」の持つ意味と、その変遷について教えてください。

A.
a.ま ずはじめに申し上げたいのですが、キリストとキリスト教の世界は、神殿に始まったのではありません。神殿は、あくまでもユダヤ教の聖なる場所、日本的にい えば「総本山」にすぎません。(マホメットが生きたまま神殿から天に昇ったと、イスラム教徒は信じていますので、彼らにとってもとても大切な尊い場所で す。今日のイスラエルとイスラム教徒の争いの原因の一つです)「旧約の神と新約の神」の 記事に詳しく説明しましたように、ユダヤ教はキリスト教のルーツであり準備でもありますので、エルサレムの神殿の場所は、私たちキリスト信者にとっても尊 いものです。アブラハムの子イサクのいけにえの場所とも信じられており、またイエス・キリストとその弟子たちが、ユダヤ教のしきたりを守ってたびたびお参 りしたからです。

イエスの足跡も、神殿とエルサレムに深く残されているので、キリスト信者はその場所に敬意をもっており、巡礼にも行きます。しかし、さきに言ったよう に、キリスト教は神殿に始まったのではなく、イエス・キリストの生涯と、特にその死と復活の救いの業に始まったのです。その後、神殿はキリスト信者にとっ て、さきほど言ったようなルーツの意味に限られてきました。

イエスご自身もこうおっしゃっています。「イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼 拝する時が来る。 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者た ちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』」(ヨハネ4:21-24)

旧約聖書の教えでは、エルサレムだけがヤーウェの神を拝む場所として決められました(イザヤ2:3)。ヤーウェを他の場所で拝むことは禁じられたほどで す。でも、さきのヨハネ福音書の言葉では、まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって父を礼拝するのですから、場所は問題にならなくなってきました。

もちろん聖堂、カテドラル、巡礼所などは礼拝にふさわしい場所でありますし、またイエスの模範に従って、寂しい所で一人で礼拝することもできます。しか し、信者は共同体の一員ですから、いっしょに神を礼拝する(いっしょにミサに与る)ことは教会の掟になりました。でも、その場所はどこでもいい、どの聖堂 でもいいわけです。カトリック教会には総本山も本山もありません。この教会の信者にとっては松原教会がいわば「本山」、初台教会の信者には初台教会が「本 山」であります。

b.次の質問、神殿の変遷について説明いたします。 ダビデ王の時代、BC1000年ころまで、ヤーウェを拝むいくつかの場所がありました。ここで聖書の引用をすると長くなりすぎるので省きますが、興味があればサムエル記と列王記を全部読むとよく分かります。

その神殿には、出エジプトのときにシナイ山からもってきた聖櫃が納められました。その中には、おもに十戒の石板が置かれていました。エルサレムを占領し たダビデ王は、その聖櫃をエルサレムに運んでテントに納めていましたが、ソロモン王によって初めて神殿が建てられたのでした。しかしその神殿は、バビロニ ア捕囚のとき、BC600年ごろバビロニアの軍隊によって完全に破壊され、そのときに残念ながら聖櫃が紛失しました。

ペルシャの帝国になって、BC500年ごろ神殿を復興することができました。ソロモンの神殿に比べれば、わりに粗末な建物でしたが、BC8年からヘロデ 大王が神殿を修理して、当時の世界でもすばらしい建築物として有名になりました。しかしイエスの預言のとおり(マタイ24:1-2)、神殿は再び西暦70 年にローマの軍隊に破壊されてしまいました。そして今日に至るまで破壊されたままです。 一部のユダヤ教の宗派はできるだけ早く神殿を再興しようとしていますが、大部分のユダヤ人は、今もまだ待ち続けている”来るべきメシヤ”に、再建するかどうかの決定を任せた方がいいと思っています。

Q. 利己心を捨てる道をお教えください。

A. お気付きと思いますが、このQ&Aでは、ご質問にお答えする前に長い理論を述べるのが常です。それは、正しい行為の前に、正しい考え方が必要だと考えるからです。今回は特に理論が長くなりますが、ご辛抱ください。

a.「利己」というのは、”己(おのれ)”と” 利益”を合わせた言葉ですので、利己心とは、自分の利益を第一の価値とする心構えだと思います。もちろん、己・自分それ自体は、神が造ってくださったもの ですから、決して悪いものではありません。”己”と”他”の関係の、適切なバランスが問題にな ります。どういう風にしてそのバランスをとるのか、質問された方の聞きたいのはそこだと思いますが、それについてはこの記事のbに書きます。

ちょっと余談に見えるかもしれませんが、利己心といえば、自己・自我(self)の問題も関係します。日本の文化は大きく仏教の思想の影響を受けていますので、仏教の中での自己・自我の意味を短く取り上げます。

『わかる仏教史』(宮元啓一・著)という本の説明によれば、日本の仏教が無我説を強調しているため、自己・自我というと、なんとなく悪い印象を受けてし まうということです。「出るくいは打たれる」という考え方は、日本の文化の中で大きなウェイトを持っています。自分を強調しすぎるよりも、自分をなるべく 低くした方が(低い姿勢)いいと思われています。周りの人に常に気を配って生きることです。その結果、自分のよいところまで押さえることになりかねない場 合が多いのです。

ところが、宮元啓一氏は、ブッダの教えは無我説ではないと言っています。無我というより「非我説」だそうです。非我というのは、”我”を間違って考える ことです。ブッダは、我それ自体を否定したのでなく、我に執着しすぎることを避けるべきだと教えたのです。我執をはらうことです。そうしてみますと、仏教 においても”我”は必ずしも悪いものではないようです。

仏教はともかくとして、キリスト教では、我・自己・自分・”個”などは根本的に良いものです。神が創造なさったものだからです。創世記第一章によれば人 間は神の似姿であり、創造なさった後、極めて良かったとおっしゃいました。そして、どの個人もすべて神から永遠のいのちをいただくはずなのです。

ところが、創世記第三章で教えられたように、人間が罪を犯した結果、”我”と”他”のバランスが狂ってしまいました。利己心はそのときから始まったのです。さっそくカインがアベルを殺す事件さえ起りました。

しかし、イエス・キリストは、それについて正しい生き方を教えてくださいました。「自分と同じように他人を愛すること」を、利己心のアンバランスを直す 方法、愛の掟として示されたのです。自分と同じように他人を愛すること、それは、キリスト教において利己心を克服する唯一の方法です。

ここからまた少し理論に入ります。

キリスト教の文化では、「個」を表すのに二つの言葉があります。英語でいう individual と personの二つです。individual(文字通り訳すと「分けることのできないもの」。in:否定,divide:分ける)とは、他と個人との区 別を強調する言い方です。そこからIndividualism(個人主義)が生まれますが、一人ひとりの人間は他の人間と根本的に違うのだということを強 調しすぎて、自分だけを大事にするニュアンスがついています。

一方、person(personalism:個性)といえば、他人との深い交わり、つながり、共同体の中での自分を強調する言い方です。ペルソナ personaの語源は、ラテン語で劇で使うマスク(仮面)の意味でした。劇の公演のとき、それぞれの役割をはっきり見せる工夫としてマスクを使っていま した(日本の能と同じです)。役者にもそれぞれ強いパーソナリティがあったでしょうが、あくまでも劇全体をうまくとり行うためにマスクを使ったのです。

キリスト教の個・自己についての正しい解釈をするには、さきに述べた individual と personの違いを前提にしなければなりません。決して自己を悪いものと考える必要はありませんが、各個人は、全人類を豊かにするために存在するペルソ ナです。我々一人ひとりがすばらしい個人であればあるほど、それは人類全体の成長に役立つものです。

考えてみますと、神ご自身の中にも三つのペルソナ、父・子・聖霊があって、お互い完全な愛で一致しています。神は愛であると、ヨハネの手紙一4:16に も書かれています。さきほどのイエスの言葉のとおり、人を自分と同じように愛することこそが、利己心につける唯一の薬なのです。

b.(1) これから、利己心を捨てる道は?というご質問それ自体にお答えいたします。
いうまでもなく、己を捨てるという意味ではないはずです。前の理論でいいましたように、”個人”は神が造られたものだからです。

ここでもう一度、イエスの言葉を思い出しましょう。「自分と同じように人を愛しなさい」。自分を愛する、大切にすることは第一です。自分を愛するとは、 神から与えられたタラントン、才能、可能性を伸ばすこと、また道徳的にも、礼儀作法としても、なるべく良い人、魅力のある人になることです。”自分”は神 が造った芸術品ですが、その芸術品も、生まれたときにはまだ未完成で、神さまとともに自己を完成することは、我々の一生の課題です。決して他人をまねるこ とではありません。他の人を模範にしてもいいでしょうが、自分の個性を伸ばすことが大切です。へんな謙遜、遠慮はよくないことです。心理学者がいうよう に、劣等感と自己嫌悪は、いろいろなコンプレックスの原因となっています。

イエスの言葉を、もう一つ思い出します。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのであ る。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためであ る」(マタイ5:15,16)。ここの最後の部分に注意してください。あなたの立派な行いは、あなた自身のためだけでなく、御父のためになるのです。

そしてまた、イエスの言葉です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)。 さきほど言った自分のタラントン、才能、可能性は、自分のためだけでなく、神と他人のためでもあると常に考えると、利己心は大分消えてしまうでしょう。そ れはまた、前の記事で言ったペルソナの意味でもあります。

中国の知者、老子も、同じようなことを教えています。「我々は自己を保つために常に恐れおののいています。しかし、もしその自己を自分のものでないと思ったら、何を恐れる必要があろうか」。
もちろん他人を愛することは、決して楽なことではありません。有名なアッシジの聖フランシスコの『平和のための祈り』には、「愛されることよりも愛する ことを」「慰められることよりも慰めることを」などなどの言葉が続きます。そして最後の言葉が、この祈りの土台であります。「死ぬことによって永遠のい のちを受けることができる」。

この言葉の意味するところは、人を愛することには自己犠牲が伴います。一種の「死ぬ」ことです。そこで私たちが一番陥り易い間違った考え方は、人のため につくすと、なんとなく自分が損をすると思うことです。その逆です。人のためにつくせばつくすほど、自分の心が豊かになるのです。

(2) これから、今まで言ったことを実行するための具体的なヒントをいくつか挙げますが、ご自分でもいろいろ工夫してみてください。

まず、偉大なる他である神との関係を深めることです。神との関係は、他人との関係の土台です。旧約聖書でも新約聖書でも、神を愛することは、第一の掟になっています。

具体的にいえば、祈りと秘跡を大事にすることです。それを通して少しずつ神との一致に近づくことによって、キリストのように考え、行い、愛することがで きるようになるのです。神とのつきあいを深めることによって、神の愛の心を身につけるのです。山上の説教(マタイ5:45)の教えに従って、「悪人にも善 人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」神さまのようになるのです。

<2> 他人のために自分の時間を割くこと。たとえばボランティア活動、病人の訪問、喜んで人を手伝うことなど。私たちはいつも、自分の時間が足りなくなるのではないかといらいらしてしまいます。時間についての心配が減ると、心が安まります。時間の奴隷にならないことです。

<3> 自分のお金の一部を、慈善事業などのため、また人を喜ばせることなどに使うことです。
イエスは、お金(マンモン)が人間の一番の敵だと教えました。お金こそが人間を奴隷にするのです。少しでもお金から解放されると、心が豊かになりま す。(カトリックの神学者によると、映画俳優やスポーツ選手など莫大な収入を得る人は、その余分な財産を慈善事業、文化施設、教育施設などに寄付する道徳 的な義務があるということです)。

<4> 自分の才能や特技を、他人に役立てることです。このことは、前に十分説明しました。

<5> 他人の成功、いいところ、幸せをともに喜ぶことです。
一番人間の心の平安を乱すものは、嫉妬、ジェラシーです。それこそ心の毒です。人と一緒に喜ぶと、その人の喜びを分かち合うことによって、自分の心も豊かになります。

<6> 人の悲しみ、悩み、心配などを分かち合うことです。わざと「慰める」と言いませんでした。
慰めるときは、ある意味で、他人の悲しみや悩みを外から見ることになります。もちろん、慰めることも悪いことではありません。でも「分かち合う」とき、人の心と触れ合って、自分の心も豊かになります。

c.結論
(1) もうすでにお気づきと思いますが、他人に対する愛の工夫の一つ一つは、他人のためばかりでなく、自分のためにもプラスになります。「人のために死ぬことはいのちを得ること」というイエスの言葉は、まさにその意味なのです。

(2) 今挙げた6つのヒントの他にも、人を愛する機会とやり方はいっぱいあって、常に注意していればいくらでもみつかると思います。ただ、経験から分かるよう に、決して易しいことではありません。やはり人間の利己心は、すごく強いものです。でもここで、ケネディ大統領の就任演説を自分のものといたしましょ う。”Let us begin.” (とにかく始めようではないか!)

おわりにもう一度、イエスの言葉で締めくくります。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)。

Q. いつまでも戦争はあるでしょうか。

A. ちょっと別の話でこの記事を始めます。
私は1964年から松原教会の敷地内にあった淳心寮の責任者でした。まだ覚えていらっしゃる方が大勢いらっしゃると思います。1970年あたりから、大学 生を中心に、日本の政治制度や大学のやり方に対する抗議のデモと暴動が、特に東京で盛んに起りました。東大安田講堂の占拠はそのシンボルでありました。学生の間にいろいろな派がありましたが、淳心寮生はおもに革マル派に属していました。彼らは主としてマルキシズムの影響を受けたので、たびたび私との間に対話、場合によっては激しい論争があったことは、今も私の記憶に生き生きと残っています。

その論争の中で、イエスの次の言葉が大きな問題となりました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マタイ26:11)。つまりその学生が言 うのに、イエスとその後のキリスト教は、そういう発言を以って貧しい人の解放を妨げたと。しかしイエスのこの言葉は、現実について述べたにすぎません。イ エスご自身が貧しい人々に対して特別な配慮をしたことを、誰も否定できないと思います。

さて、いつまでも戦争はあるだろうかというあなたの質問に「はい、そうです」と答えれば、それと同じ批判を受けるかもしれません。でも「いつまでも戦争 はあるだろう」というのは、決してしようがないから、或いはあきらめて、何もしないという意味ではありません。私の返事を注意深くお読みください。

たぶん、いつまでも戦争はなくならないでしょう。しかし、人間として、平和の君であるイエスの弟子として、戦争が起らないよう懸命に努力すべきです。 ひょっとして、いつか戦争がなくなるでしょうか。もしそうなったら、私にとってもあなたにとってもたいへんな喜びです。しかし、現実はもっと厳しいもので す。いかがでしょう。いつか、人間どうしの争いや憎しみがなくなると思いますか? たぶんあなたの返事は否定的だろうと思います。

個人どうしがそうであるなら、個人の集まりでできているグループ、派、民族、国、大陸などの間には、いつまでも何らかの問題、ゴタゴタ、争い、場合によっては戦争が起るのではないでしょうか。

質問者はたぶんキリスト信者でしょうから、頭の奥に、神さまが何とかしてくださらないのだろうかという疑問があるのかもしれません。これは神学的、哲学的 に難しい問題です。このQ&Aシリーズでは『この世の悪』についての記事にかなり詳しく書きましたので、参考にしてください。

Q. ミサの奉納のとき、司祭はぶどう酒の入ったカリスの中に少し水を入れるようですが、どんな意味がありますか? 2.平和のあいさつの後、司祭はホスチアの小片をカリスの中に入れていますが、どんな意味がありますか?

A. 1.どうして司祭が奉納のとき、ぶどう酒に水を入れるかは、イ エスの 時代のぶどう酒の飲み方に遡ります。お金持ちを除いて、たいてい当時の人たちは、自分の庭にぶどうの木を植えて、それで毎年ぶどう酒を造っていました。新 しいぶどう酒でしたし、また普通の造り方だったので、かなりアルコール濃度の高いものになり、これを子どもまで飲むため、いつも水割りのかたちで飲んでい ました。また初代教会のミサでは信者もみんな御血をいただいたので(今のように”浸す”のと違って)、余計に強いぶどう酒を避ける必要があったはずです。

教会は、そのイエスに遡る習慣をずっと守って今でも同じことをしています。ついでに言いますと、水割りは3倍に薄めていたので、今でも3倍まで水を入れていいというわけです。

後の時代になりますと、段々信者が御血を飲まなくなったので、そのやり方にシンボル的な意味をもたせてきました。

司祭が水をぶどう酒に入れるときに唱える言葉がミサ典書にこうあります。「この水とぶどう酒の神秘によって、私たちが、人となられた方(イエス)の神 性にあずかることができますように」。つまり水は我々信者のシンボルで、ぶどう酒はイエスの神性を表しています。神の御ひとり子が我らの人性にあずかって いるように、私たちもイエスの神性にあずかるのです。

2.司祭がホスチアの一部をぶどう酒に入れるのも、初代教会の歴史に遡る習慣です。当時は、それぞれの教会(共同体)の間の一致をシンボ ル 的に表すために、イエスの体となったパンを他の教会に持っていく習慣がありました。よその教会からいただいたその御聖体を、次の日曜日に御血に入れてい ました。今はさきほどの習慣は消えましたが、それでも御血に少しの御聖体を入れることはずっと続けられてきたのです。

今日、ある神父たちは、意味のない習慣であるとして、それをしなくなりました。私自身はよその教会との心の一致を思い出して、続けて入れています。

最後に、教会の典礼はなんとなく保守的で、簡単に昔の習慣をやめない傾向があるとお分かりになったでしょう。

Q. 私は、学生のときから現在に至るまで、マルコによる福音1616節の「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」という言葉につまずいています。イエスさまはどういう意味をこめてお使いになったのかお教えください。

A. 質問なさったマルコ16:16の言葉ですが、日本語の訳が原文とちょっと違っていると、ギリシャ語を調べて分かりました。「滅びの宣告を受ける」となっていますが、ギリシャ語では「宣告を受ける」とだけなっています。

簡単な日本語で言い直せば、「信じない人はそれについて責任を取らなければならない」という意味です。それはともかくとして、キリストを信じないのはよくないことだという意味です。信者でない質問者にとって、たいへん厳しい言葉だと思われるのは当然でしょう。

ところで、聖書を文字どおりに読むことは、危ないことだと昔からいわれてきました。

ご安心ください。まず第一に、第二バチカン公会議(1962-1965)に行われた、全カトリック教会の司教たちの集まりで、次のような権威ある文書を 出しました。「事実、本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音と教会を知らずにいて、なおかつ、誠実な心を持って神を求め、良心の命令を通して認め られる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人は、永遠の救いに達することができる」(教会憲章16条)。同じことが『カ トリックカテキズム』847番にも書いてあります。

上のことをまとめてみますと、個人の責任が問われているわけです。キリストの教えと洗礼の意味を理解しそれに納得しても、それでもなお洗礼を受けない人は、当然神のみ前で責任をとらなければなりません。

ここで洗礼の意味を説明します。洗礼の水を受けることによって心が潔められ、同時に神の子どもに、そしてイエスの神秘体である教会の一員になるのです。

いうまでもなく、これは誰にとってもすばらしい恵みになりますし、我々の人生に新しい意味と目的を与えてくれます。そしてもとより洗礼を受ける前に、イエス・キリストに対する信仰が必要です。

この信仰とは、まずイエスが人間でありながら神の御ひとり子であることを認めることです。次に、このイエスが唯一の救い主であることです。つまり人類に は、イエスの死と復活によって罪が赦され、永遠のいのちが与えられるという意味です。信者になるつもりの方は、もっと詳しくイエス・キリストのことを勉強 するでしょうが、ここではこれくらいにしておきます。

ここであなたの疑問に戻って、もう少し詳しく説明します。たしかに、信者でない方(あなたを含めて)にとって、イエスの教え、洗礼の必要性、キリスト教 が唯一正しい宗教であることなどについて納得がいくかは、疑問の余地の大きいものであると認めざるを得ません。つまり、あなたのようにマルコの福音のこの 箇所にこだわる方は、当然まだキリスト教に納得していないわけです。ですから、前の教会憲章の言葉にあるとおり、納得できない人が洗礼を受けなくても、決 して滅びるはずはありません。

しかし、キリスト教に対し、もうすでに関心をお持ちのようですので、これから教会の指導のもとに、もう少しキリスト教の深い意味を研究して悟るように、 努力してみてはいかがでしょうか。神の恵みによって確信ができたならば、必ずや人生の意味、神の愛や隣人愛などを知ることによって、深い安心感、心の喜び を味わうことができると約束いたします。

おわりにもう一度繰り返しますが、キリスト教に納得いかない人や、キリスト教を十分に理解していない人には、マルコ16:16に書いてある責任などある はずがありません。神は愛そのものなのです。ヨハネによる福音書10:16にこうあります。「わたし(イエス)には、この囲い(教会)に入っていないほか の羊(人)もいる。その羊をも導かなければならない」。

イエスは、すべての人を羊飼いの心をもって、永遠のいのちに導かれるつもりです。

Q. コリントの信徒への手紙一』7章では、「男は女に触れない方がよい」「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」と言い、「みだらな行いを避けるために」「自分を抑制できないと思うなら」結婚するようにと言われています。  『マタイによる福音書』19章では結婚を認め、独身を保つ運命の者もいるが、それを受け入れられる者は受け入れなさいといわれており、それぞれ「結婚し ないのが基本だが、情欲を抑えられないなら結婚した方が良い(コリント)」、「結婚するのが基本だが、独身の運命の者はそれを受け入れるように(マタ イ)」と、逆のことを言われているように思えます。 『コリント』726節では「今危機が迫っている状態」とありますから、神を忘れるほど現世に捕らわれるような危機が目の前にある場合限定で読むべきなのでしょうか? あるいは、人間は情欲を抑えられないものだという前提があるのでしょうか?  結婚や性交渉に対する解釈の流れと合わせて、現代の解釈を教えていただけたら、と思います。

A. ご質問の中で、二つの信者の生き方、「結婚」と「独身」をとりあげていらっしゃるようです。

1.まず、結婚について
(a) イエスの教え
マタイ19章で、まずはっきりしていることは、イエスが結婚生活を非常に高く評価しておられるということです。「イエスはお答えになった。『あなたたち は読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人 は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』」(マタイ 19:4-6)

ここでイエスは、旧約聖書の創世記第2章のことばを繰り返しておられます。「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の 一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は 言った。『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こ ういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:21-24)
同じ19章で、独身もとりあげていますが、それは2.で説明いたします。

もう一つの例は、イエスがカナの結婚式に参列していることです(ヨハネ2:1-11)。

(b) パウロの教え
 聖パウロも結婚生活を高く評価しています。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストが そうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝 く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソの信徒への手紙5:25-27)  結婚生活が神秘だといっているのは、結婚が教会で7つの秘跡の一つであるという教えのもとです。また、キリストと教会の関係にたとえているのは、結婚を 高く評価しているしるしです。

(c) 結論として
イエスも聖パウロも、また後の教会も、結婚生活を高く評価しているといえます。イエスの12弟子も妻帯者でした。最近ヨハネパウロII世もたびたびの説教のなかで、今日危機的状況にある結婚生活を弁護し、評価しています。

2.独身について
(a) イエスの教え
引用されたマタイ19章の中で、イエスは独身者のこともとりあげています。 第一の「結婚できない」人は、性器のないまま生まれた者、身体障碍の人のことです。 二番目は、日本語で「結婚できない」という言い方になっていますが、原文では”宦官”となっています。ご存知のとおり、昔の王たちのハーレムには、去勢さ れたいわゆる宦官が働いていました。

イエスが三番目に「結婚できない」といっているのが、自由な意志で、天の国のために結婚しない人たちであります。神の国とは、イエスの目指す理想的な世界 です。 ご質問の中に「独身の運命」とありますが、第一と第二の人たちはそうであっても、第三の人たちの場合、み国のために独身を選ぶのは運命ではなく、自由な選 択であることは明白です。 イエスも、そういうことをあきらかにされ、19:12では「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」とおっしゃいます。つまり、自由にお決めく ださいということです。

(b) 聖パウロの教え
 独身についてのパウロの教えは、やや分かりにくく、恐らくあなたの疑問はそこから来るのだと思います。パウロ自身は独身者でした。そして、確かに聖パウ ロは、独身生活の方を好むのです。 その理由の一つとして、パウロも当時の信者も、この世がすぐに終わるだろうという確信をもっていたのです。それは、引用なさったコリントの信徒への手紙 一7:29-40に詳しく書いてあります。特に29節は大切です。「定められた時(イエスの再臨)は迫っています。」31節「この世の有様は過ぎ去るから です。」
 繰り返しますが、世の終わり(イエスの再臨)が近いから、独身、つまりイエスがおっしゃった神の国のために専念する方がよいという考え方です。29節で パウロは、結婚している人にも結婚していない人にも、貞潔をすすめるほどです。そうはいっても聖パウロも、情欲(性欲)が強いと認めて結婚することを禁じ ていませんし、性交も許します。

この箇所を見ますと、聖パウロが比較的性を見下しているような印象を受けると、率直に認めざるを得ません。考えてみれば、パウロはイエスの考え方と大分 違うわけです。イエスの場合、結婚が普通で、独身は例外です。パウロの場合は、独身生活が望ましく、結婚はしかたないときだけという印象を与えます。

しかし、実を言いますと、先ほど引用したエフェソの手紙では、聖パウロは結婚生活をもっと積極的に評価しています。エフェソの手紙が書かれた時期は、コ リントの手紙よりずっと後であったため、そのときには、イエスの再臨がそうすぐではないと、パウロも感じるようになったのでしょう。

3.現代の解釈
まず、われわれキリスト信者の信仰の基準では、イエスの教えが一番大きなウェイトをもっていることを忘れてはいけません。ですから、パウロの意見よりも、 イエスの意見が、より大切です。  もちろん前のパウロの意見は、当時の事情の影響を受けていることを差し引いて考えた方がいいと思います。それでもパウロの教えが、長い間、教会の結婚生 活についての考えに、暗い影を落としたことは否めません。

特にオリゲネス(185-254)と聖アウグスティノ(354-430)などは、あきらかに結婚を見下していました。アウグスティノは、プラトン哲学、 新プラトン主義のプロティヌスの哲学に影響されて、結婚生活は独身生活よりも劣っていると教えていました。たとえば性交は子どもをつくるときに限るべきだ と指導しました。

もちろん、今の教会はその考え方を否定しています。独身生活も結婚生活も、どちらも信者の正しい生き方で、どちらがより良いかなど議論するのは意味のな いことです。神の召し出しに従って、どちらを選ぶかは、信者の自由な選択です。いうまでもなく、独身を通して全面的に神の国の建設のために働くことは、今 でも高く評価されるべきです。

今も教会はイエスの教えに従って、独身生活が、教会と社会にとって、とても大切だとひき続き教えて、独身への召命を促進しています。

4.あとがき
ご質問の範囲を超えると思いますが、今日、イエスご自身予見しなかった新しい問題が出てきました。2.に述べた独身生活を送る三つの理由の他に、最近、個人のいろいろな都合のために独身を選んだり、あるいは結婚しない人が増えてきたのです。

広い意味での”神の国の建設のため”なら、たとえば学問や慈善事業などに専念するためなら、なんとか納得できるのですが、結婚の負担から逃げるためだけ ならば、どうも問題ではないかと言わざるを得ません。それぞれにいろいろな理由があるでしょうが、今の時代でも、結婚生活が望ましいと思います。もちろん 結婚するもしないも個人の自由な選択でありましょうが、結婚を選ぶ人があまりにも減っていることは(特に日本のような先進国の場合)、その国にとって健全 とはいえない傾向であり、反省した方がいいと思います。

特に先進国では、結婚する人だけでなく、修道者や聖職者になる人が著しく減っています。その理由の一つとして、若い人たちが、エンゲージメントあるいはコ ミットメント、つまり「いつまでも続く約束」を恐れているのではないでしょうか。  確かに、結婚生活も修道生活も大きな冒険ではあります。しかし同時に、聖なる尊い決心であります。そういう決心をする人たちは決して一人ぼっちではな く、神様が彼らを助け、護っておいでになります。

Q. ミサにおいて「ひざまずく」習慣は、なくなったのでしょうか。ここ数年で私の教会でもひざまずき台は撤去されました。これは全国的なものなのでしょうか。ミサ中の「鐘」もここ数年は鳴らしていません。鳴らしている教会もありますが、「鐘」は大人数の大きな教会での後方にいる人達への一種の合図だと思っていた人もいます。 「主の平和」という信徒同士の挨拶もやったりやらなかったりです。これもそんなものなのでしょうか。  転勤、移動などで神父様が変わる度に、様々なミサ式次第を経験します。色々な考え方があるとは思いますが、ミサにおいては統一されたものを希望します。  余談ですが、神父様の人数が少なくなったと言われる現在、教会の信徒が自ら活動してきたことが色々ありますが、神父様が代わる度に規制がかかります。

A. ご質問には「典礼」と「神父」の二つの問題が取り上げられていると思います。

1.典礼の問題
ミサの典礼には、いつまでも変わらない部分があります。たとえばみことばの祭儀、奉納、奉献文、聖体拝領はミサの必要不可欠な部分です。時代とともに少 しだけ変わることがあっても本質的なところは変わりません。その他の部分は時代、文化によっていろいろな形をとることがあります。

もし機会があれば、ニコライ堂の日本正教の聖体礼儀(ローマカトリックのミサに値する)に出てみればよく分かると思います。さきほどいった四つの部分はあるのですが、だいぶ様子が異なります。それでも我々はそれを、ちゃんとしたミサとして認めています。

()「ひざまずく」ということについて質問なさっていますが、初代教会にひざまずく習慣はありませんでした。皆立っていました。中世になってご聖体に対する信心が強くなり、ひざまずく習慣ができました。これは両膝をつくひざまずき方の話です。

また西洋では今日でもしていますが、日本でも第二バチカン公会議まで、御聖堂に入るときなどに片膝でひざまずく習慣がありました。けれども日本の文化に合わせるため、日本の典礼委員会は、それをやめて、その代わりにお辞儀をすることにしました。
両膝でひざまずいて祈ることは今も変わりませんが、便利だからという理由でひざまずき台をなくす新しい教会も増えてきました。

たしかにひざまずいている姿勢は礼拝の心をよりはっきり表すでしょうが、ご聖体の前に座るのもいいと思います。私個人の場合は、その方が落ち着く気がしますし、お年寄りにも楽なものです。

()鐘を鳴らすことは、おっしゃるとおり信者を集めるための合図でしたが、日本のたいていの信者は教会の鐘の聞こえない所に住んでいま す ので、その意味が薄くなっているかもしれません。しかし、ミサの前に鐘を鳴らすことは(近所迷惑にならない限り)、今でも大いに意味があると思います。

「教会」という日本語(教えるためか、教えるための集い)はあまり適切ではなくて、もともと教会はエクレジア(ECCLESIA)といいました。これは 「呼び集められている」という意味ですから、教会の鐘は神の声として私たちを呼び集めていると思えば、いいものではないかと思います。

()平和の挨拶は、第二バチカン公会議を機会に決まった、初代教会に戻った動作ですが、とても大切なものです。参加者同士が互いに挨拶して、司祭とともにミサを捧げていることを意味しますので、是非やって欲しいものなのです。

日本ではただお辞儀するだけで多分に礼儀作法的ですので、信者の共同意識をどこまで深めているのか少々疑問です。握手の方がいいように思いますが、そこにも文化の影響があります。
このとき「主の平和」と言うのですが、これは世界の平和だけでなく、信者同士の一致、思いやり、愛などを表します。

最後に、これまで言ったことは、それぞれの教会の雰囲気、習慣、聖堂の形などによって、いくらかの違いはやむを得ないと思いますが、おっしゃるとおり教 会によってあまりにも違うと、新しい信者は違和感をもつかもしれません。特に日本という国は、かなり一致した文化をもつ国ですから、全国で同じような動作 などが望ましいと思います。しかし初めに言ったように、典礼の本質さえ守っていれば、他のことにこだわりすぎることは避けた方がいいと思います。

2.神父の態度の問題
私も神父なので分かりますが、たしかに神父達は別の教会に移っても、前任の教会でやったことを続けてやりたがる傾向があるものです。それは必ずしも悪い ばかりではなく、場合によってはより良いこともあるかもしれませんが、今日の教会の雰囲気では、神父が独裁者みたいに何でも決めていい時代ではなくなりま した。信者も、教会の責任を司祭と共に果たしていますので、新しく任命された司祭が信徒の声(典礼委員会の声だけではなく)をよく聞くべきだと思います。

任命されてから1年間は何も変えない方がいいという、昔からのルールを守ってもらうのが望ましいでしょう。年寄りの神父にとっては、それは難しいことか もしれないのですが(本当は年寄りの神父は定年にした方がいいと思いますが、今は神父の数がどんどん少なくなって、司教はしかたなく年寄りの神父も使いま す)。ですから信徒の方でもある程度の理解が必要だと思います。 神父の召命のために祈るだけでなく、それを積極的に促進することこそ信徒の大切な務めではないでしょうか。

Q. キリスト教原理主義について、その歴史、各派の主張、それに対する我々の対処法について教えてください。

A. 1.ご 質問はキリスト教の原理主義についてですが、ついでに言っておきます。原理主義はキリスト教だけに限ったものではありません。イスラム教、ヒンズー教、仏 教にもある現象です(仏教の場合、原理主義とは、ある一つのお経だけを本物のお経だと教えることです)。したがって、しばしば言われるように一神教だけの 問題ではありません。
たとえばインドでは、ヒンズー教だけがすべてのインド人の宗教であるといって、イスラム教、キリスト教などを迫害する、いわゆる原理主義的な運動が最近盛んです。

ただやはり今日では、イラク戦争、イスラエルとパレスチナの戦争が、イスラム教対キリスト教の問題として目立っているために、この二つの宗教の原理主義が注目されています。

辞書によれば、「原理主義」とは、近代主義に反発して20世紀初期に起った米国のプロテスタントの中の運動だそうです。キリスト教の伝統的な基本理念(原理)への固執です。

簡単な例をあげますと、神は世界を文字どおり6日間でお造りになったとか、ノアの 方舟が実際にあったとか、進化論は聖書に合わないので間違いであるとか・・・ すなわち、すべての聖書のことばを神のことばとして、文字どおりに信じるべきであると主張することが「原理主義」です。

以前の「旧約の神と新約の神」の記事中で、神の啓示が漸次的に、当時の文化に合わせて少しずつ示されたと十分に説明しましたので、そこを読み返してください。

正直にいえばカトリック教会も、いま原理主義といわれている考え方を正当な教えと して、聖書の新しい解釈や科学の発展に反発したこと(ガリレイ事件な ど)もあります。もう大分以前からその考え方は変わってきており、第二バチカン公会議や次々の教皇の発言のおかげで、現在はカトリック教会の中で原理主義 は、ごく一部を除いて存在していないと言っていいと思います。

しかし、アメリカ合衆国の、特に南部のプロテスタントの間では、今も原理主義がかなり盛んであります。たとえば、学校で進化論を教えてはいけないなどの運動がたびたび行われ、テレビを通して全米にそれが放送されています。

この記事の第2部で原理主義と戦争(聖戦)の関係を取り上げますが、そういう原理主義者が旧約聖書に出てくる聖戦を文字どおりに解釈して、今でも聖戦があり得ると教える宗派があります。

プロテスタントにそういう危険性が大きいのは、彼らの信仰の基準が聖書だけにあるというのが理由です。カトリック教会では、聖書は教会を通して与えら れ、また聖書の解釈は教会の監督のもとに行われます。カトリック教会においても、監督者自身が原理主義を促進している場合には、同じく原理主義的になる危 険性がないとはいえません。しかし、今日では聖書を文字どおりに解釈することはほとんどありません。

ところで最近、同性愛者に対するローマ教会の厳しい判断は、同性愛支持者からみれば、聖書の文字どおりの解釈に基づくものだといいます。また、女性がカトリック教会の中で司祭になれないことも、同じくカトリックの原理主義だとフェミニストは主張します。

しかし質問者は、この二つの問題より も、今日のアメリカの原理主義にこだわっているのではないかと、私は感じます。たとえばブッシュ大統領も原理主義者 であるといわれており、イラク戦争を始めた理由にもこれと何らかの関係があるのではないかという意見があります。私の勘違いであればお赦しください。しか し、マスメディアでもそれを取り上げていることでもあり、第2部で細かく述べたいと思います。

2.原理主義と戦争(聖戦)
大いなる一つの偏見を正したいと思います。それは、宗教戦争(聖戦)は、一神教で あるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教だけの問題ではないということで す。フランスの啓蒙主義者ボルテールが、嘘も繰り返し言っていればいつか皆それを信じるようになると言っているとおり、マスメディアが繰り返し書くため、 大部分の人は一神教だけが宗教戦争の責任者または支援者であると思っています。

しかし、現代でも他の宗教どうしの戦争もあります。たとえば、スリランカで仏教徒とヒンズー教徒の間で激しい戦争がおこっています。パキスタン(イスラム教)とインド(ヒンズー教)の間には、常に緊張があります。 

過去にさかのぼると、キリスト教(十字軍)とイスラム教(ジハード)も、たしかに宗教の名によって戦争を行ったことを否定できません。後にプロテスタントができたときに、カトリックとプロテスタントの間の戦争もありました。

しかし同じように、多神教の国々も征服の歴史を繰り返してきたのです。彼らもまた○○の神の名のもとで戦ってきたわけです。

まず日本を例にとりますと、第二次世界大戦では国家神道の名のもとにアジアで征服戦争を行いました。朝鮮に神道を強制したこともあります。もっと昔にさかのぼれば、アイヌエミシに対して征服戦争を行ったときにも、神々か仏の名のもとに戦ったことは想像に難くありません。

『田村』という能に次のようなくだりがあります。――51代目の平城天皇の時代、 坂上の田村麿は東の荒ぶるもの(えぞの民族)を平定し、悪霊を抑え、天 下を太平にする忠勤を励んだのですが、それもまったくこの寺(清水寺)の仏様の御力によるものです。・・・(中略)・・・味方の軍兵の旗の上に、千手観音 が光を放って空に飛び、千の御手ひとつ一つに慈悲の弓を持ち、知恵の矢をつがえ、放つと千の矢が雨あられのように乱れ落ちたので、鬼神(えぞ)はことごと く矢先にかかって討たれました。――

『福音宣教』2003年6月号に、マシア神父(上智大教授)が、細かくその問題を 取り上げていますので、興味があればお読みください。その記事の一部を 紹介しますと、大昔、アリアン族はコーカサス山から出てヨーロッパ、インドなどを征服しました(インド・ヨーロッパ語のはじまりです)。しかし、彼らは多 神教でした。フン人もモンゴルもヨーロッパを征服しましたが、彼らもまた多神教でした。

要するに、多神教であっても一神教であっても、宗教が偏狭な愛国心と混合したり政 治的に利用されたりすることによって、暴力を生み出した事例はいくらで もあります。もちろん第1部でいったように、純粋な宗教戦争もありました(十字軍、イスラム教のジハード)。しかし全歴史の中で、それはむしろたいへんま れな事例であって、たいてい国家や政治家は、宗教の助けを借りて神や神々の名のもとに戦うというスローガンを掲げ、宗教心に訴えて士気を鼓舞してきたので す。軍隊や武器を祝福したり、愛国主義を強めたりもしました。

結論として、すべての宗教がそういう危険性をはらんでいます。聖パウロの言葉を借りて言えば、「すべての人間は罪びとである」だけでなく、「すべての国と宗教も戦争という罪を犯した」のです。

3.何をしたらいい

a.さきに述べた宗教的な原理主義に対して何をしたらいいか

いうまでもなく、ご自分の信仰を常に反省して、そういう考え方をきっぱり捨てるべきです。

もっと難しいのは、原理主義者に対してどういう態度をとるかです。こういう人たちは、自分の意見に疑問の余地はなく、こちらが間違っていると思い込んでいますので、宗教的、政治的な論争をすることは絶対に避けるべきだと思います。 しかし、国全体をおびやかすような運動であれば、選挙のときにその運動を支持する政党に投票しないとか、正しい運動を支持することが唯一の方法になります。危険がある場合には、取り締まることもあります。(オウム教など)

b.他宗教に対する態度
ちがう宗教をもつ人に対する寛大な心を育てることも大切です。自分の確信、信仰を 捨てる必要はありませんが、無理矢理その人たちを回心させようとする必 要もありません。お互いの考えを分かち合い、説明することはいいでしょうが、相手が不愉快になるようなら、すぐに話題を変える方がいいと思います。

しかし、寛容であることが、ことなかれ主義になってはいけません。たとえば神の存 在、キリストの救い、イエスは神であるなどの信仰箇条を、大事でないよ うに思ってしまうことは、キリスト信者としてあってはならないことです。真の寛容は相手の考え方を尊重することで、自分の信仰を捨てることではありませ ん。

逆に、自分の宗教についての確信は、他信教との対話を可能にします。なんでもいいと思えば対話になりません。穏かな態度での思いやりと尊敬の対話が、絶対に必要です。

キリスト教こそ愛の宗教ですのに、過去の歴史において度々弱い人を圧迫してきたこ とは、私たちにとって恥ずべきことで、二度と再び繰り返してはいけない ことです。たとえばキリスト教が植民地で行った愛と正義に反する行為を深く反省し、他民族の文化に昔与えた迫害をやり直し、その権利を取り戻すことは、こ れからの大きな課題であります。

c.宗教と戦争について
昔宗教の名において戦争を行ったことを認めて、ヨハネパウロII世のように、神と 人との赦しを請い願うことは大事です。そして、今後は決して宗教の名に おいて戦争をしない決心を固めることです。もちろん宗教家(たとえば教皇)でもあるいは我々信者でも、ある特定の戦争が正しいか正しくないかという意見を もつのはいいと思いますが、それはあくまで国際法に則って決めるべきです。

Q. 旧約聖書の「神」の名前として、ヤーウェあるいはといったりまた、エホバといったりしているようですが、どれが正しい呼び方でしょうか。教えてください。

A. 旧約聖書では、神の一つの名前はYHWHと書かれています。もう一つ、よく使 われているのはエロヒムです。エロヒムはエル(EL)の複数形で、そのエルは「神」という意味ですが、イスラエルだけでなく、カナアンなどでも使われてい まし た。イスラエル、ガブリエルなど、聖書には”エル”で終わる人の名前がたくさん出てきます。

YHWHに戻ります。ヘブライ語は、原則として子音だけで書かれます。読む人が文脈などから判断して、その子音と子音の間に適切な母音を入れて発音するのです。例として、LHMはLEHEM(パンの意味)レヘムと発音されます。

ところが、モーセに啓示(出エジプト 3:13-15)された神の名前(YHWH)は、極めて神聖なものと思われたため、聖書を読むとき、また典礼においても、YHWHと書かれた箇所は発音す ることをせず、その代りにアドナイADONAI すなわち”主”と置き換えて言っていました。その結果、YHWHの子音の間にどの母音を入れるべきか、イスラエル人も忘れてしまったのです。

ご質問はそのことについてですが、そういう訳で、100%確実なお答えはできませんとお断りしておきます。

ルネッサンスのころから、キリスト教の聖書学者たちは、YHWHの子音の間に”アドナイ”の母音を入れることにしました。その結果、YEHOVAH(イェ ホバ)と発音するようになったのです。本当はアドナイの母音は A,O,A なので、ヤホバという発音になるはずですが、ヘブライ語の語頭の”A”は、しばしば英語の the の e の発音になります。それで”イェホバ”になりました。

しかしながら、今の聖書の専門家はたいてい、YHWHの正しい発音は「ヤーウェ」だと考えています。キリスト教のある教派の人たちは、絶対に「エホバ」 でなくてはならないと主張していますが、それは明らかに間違いです。けれども先ほど言ったとおり、どれにも100%の確実性はありません。

今までのカトリックの翻訳聖書(たとえばフランシスコ会訳)では、神の名前をヤーウェとしてきましたが、プロテスタントとカトリックの共同訳ができてか ら、カトリックでもプロテスタントの用語であった主を使うようになりました。主というのは、ヘブライ語のアドナイの翻訳です。

キリスト教でも主を使う理由は、ユダヤ人が神の名前をそのまま発音するのをはばかったように、我々キリスト教信者もそうすべきだということです。

ただ、私の長い間「聖書100週間」を指導してきた経験から、そこにも問題があると分かりました。聖書に主と書かれているのが、ヤーウェの意味か、 普通の主(主人)か区別がつかないのです。プロテスタントの新改訳聖書では、ヤーウェを指す主を太字で書いているのですが、これはよい考えだと思いま す。今度新しくできるフランシスコ会訳ではどうするのか、まだ決まっていないようです。

先ほど説明した”エル”と同様に、聖書には”ヤーウェ”が付く人の名前もたくさん出てきます。ヤあるいはヨという省略形で使われます。

たとえばエリヤ(エル:神、イ:私の、ヤ:ヤーウェ)は、「私の神はヤーウェである」という意味です。聖書を読みますと、エリヤは、ヤーウェの宗教をイスラエルに戻した人物です。他に、イザヤのヤもそうです。

名前のはじめに付く場合には、ヨという発音になります。たとえばヨシュア(ヨ:ヤーウェ、シュア:救う)などです。 ついでに言いますと、ヨシュアという名前は、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたとき「イエス」と訳されました。マリア様はご自分の子に、イエスではなく「ヨシュア」と呼びかけていらしたはずなのです。

Q. 私は信者ですが、現代科学の世界で生きている者として、個人的には死後の世界とか、肉体の復活ということは信じられません(もちろん、その可能性をまったく否定するわけではありませんが、分からないことなので、分からないものは分からないという意味で疑問として残してあり、信じていません)。ですから、「永遠の生命(いのち)にあずからせてください」とミサで祈るとき、「死後も生き返らせてください」というような気持ちを持ったことはありません。私たちが、生きている今の時間の中で「永遠の生命にあずからせてください」と祈ることの意味は何でしょうか?「永遠の生命」とは何でしょうか?  日々の生活の中で時々感じる深い喜びや、神を感じるような感動、この状態が永遠に続いて欲しいと思うその心の状態が、いわゆる「永遠の命」と表現されるものなのではないか、というような理解でよいでしょうか。

A.「私は信者です」とおっしゃっていますが、キリスト教の大切な信仰箇条である「永遠の生命」を信じていらっしゃらないようですので、ではどういう意味で信者であるとお考えなのか、逆にこちらから質問してみたい気がします。今は誰にでも信教の自由がありますので、自分がどの宗教の信者になるのも自由ですが、ある特定の宗教を選ぶということは、その宗教の内容を選ぶということです。この「永遠の生命」もその一つです。「永遠の生命」の意味を正しく理解していないせいでこの質問をなさったのだろうと思いますので、お答えいたします。

1.まず第一に言いたいのは、永遠の生命とは、我々の今の命の続き、今の私たちのありかた、生きかたの永遠化ではありません。(ルカ7:12に出てくる、ナインのやもめの息子の復活はただの生き返りであって、後には普通に死んだはずです)永遠の生命とは、我々の今日の生きかたとはまったく違うもので、新しい生きかた、いのちであると、強調したいと思います。

楽園という創世記のシンボル的物語で、神は私たちに永遠の生命を約束なさいます。「いのちの木」はそのシンボルです。神は私たちのために、滅びることのない、罪のない、悪のない生命を、生命という夢をみておられたのです。

しかし、もう一つの木(つまり善悪の木)が楽園にありました。その木ももちろん象徴的なもので、人間が自由意志をもって神に創られたということを表してい ます。したがって人間は、はじめから世の終わりまで、自分の行動を自分で決めることができるのです。 残念ながら人間は、(最初の人間だけでなく、今日ま でずっと)たびたび悪を選んできました。そこからこの世に悪が入り込んだのです。教会ではそれを原罪といっています。もちろん、人間はまたよく善をも選ん できました。今の世がまだ続いているということは、やはり人間が善の方を多く選んだのでしょう。

しかし、悪の存在を、私たちは決して否むことはできません。かえって今日、悪がはびこっている気がします。とはいえ、どの時代にも同様の印象があったのか もしれません。それでも神は愛ですから、人間を悪い子として捨ててはおかれませんでした。旧約聖書の時代から、あらゆる方法で人間を指導してこられまし た。また特に、ご自分の御ひとり子イエスを世に送られて、私たちとともに悪との闘いをしておられます。

ここで注意が必要です。神は全能ですが、私たちの悪との闘いと善の実現を、決して私たちの代わりにはしてくださいません。あくまでも”自由”である我々 に、その責任を任せておいでになります。しかし、イエス・キリストと聖霊は、ずっと私たちとともにいて、私たちを助けてくださいます。 また、イエスが模 範を示して、救いの業をともにしてくださいます。イエス・キリストがこの世に来られてから、御父の神がもっておられた夢、永遠の生命、幸せな生命、悪と苦 しみのない生命を、我々とともに少しずつ実現してきました。

いつか(この世の完成のとき)その救いの業がその目的に達して、全人類が、神が最初から夢みて約束された新しい世界(黙示録21章)に入ることができると、私たちは信じています。それはいわゆる「永遠の生命」です。

今日とまったく違う生きかたでしょうが、一つだけ、今の私たちも知ることができます。それは、いつまでも終わらない幸せの世界、私たちのすべての期待を満たす世界であります。ご質問の中にあった「この世でも感じる喜び」は、いつまでも終わらない喜びになります。

その永遠の生命は、世の完成のとき完全に実現されるのでしょうが、今でも、私たちは洗礼によってその永遠の生命にあずかっています。そして、悪を捨てて善を選ぶならば、私たち個人の中にも、また全世界にも、その永遠の生命が成長していきます。

それが信者のあるべき生きかたです。ミサ、祈り、善行、愛の実行をとおして、それを少しでも実現していきましょう。

2.次に、個人の「永遠の生命」についてです。  ここまでは、すべての人、全世界の永遠の生命、その救いを取り上げてきましたが、私たちは当然、世の完成まで生きるはずがありません。「永遠の生命を信 じます」と告白するとき、私たち一人ひとりも、死んだ後その永遠の生命に入ることを信じるのです。普通の言いかたでは、「天国に行く」といいます。

たとえば信者が死んだとき、その方が「帰天した」といわれます。世の完成のときの幸せな生命は、私たちにおいては、自分が死んだときから始まるのです。

3.これまで言ったことは、哲学的にも科学的にも証明することはできません。信者はイエスの言葉に基づいてそれを信じているだけです。 昔から信仰は恵みだといわれてきました。質問なさった方に、この希望の多い永遠の生命への信仰が与えられるようお祈りします。

Q. 原罪をもう少し説明してください。 洗礼には罪の赦しの意味もありますが、どうしてまだ罪のない赤ちゃんも洗礼を受けなければなりませんか。

A. 赤ちゃんの洗礼については、「フォローアップ」のページの『なぜ赤ちゃんに洗礼を授ける?』に説明が出ていますのでそちらをご覧ください。今回は、原罪についての説明をいたします。

1.原罪の定義
原罪とは、自罪(つまり一人ひとりが犯す罪)と違って、誰でも生まれたときからもっている”罪”です。注意していただきたいのですが、日本語の意味として の罪(犯罪)とは違います。むしろ”罪への傾向”とでもいう方がいいでしょう。そしてそれには、人類のはじめまで遡るという意味が含まれているので す。(”原”の意味です)。

このQ&Aのコラムでたびたび繰り返してきましたが、聖書の意味もキリスト教の神学も、時代とともに新しく解釈されるようになります。第二バチカン公会議の内容は、それを何よりも証明しています。

まず、そういう新しい「原罪」の解釈を説明します。今まで皆さんが聞いてきたこととだいぶ違うと、あらかじめお断りしておきます。  イエス・キリストご自身は、原罪に言及なさいませんでした。しかし、人間の罪の状態、神の御心から離れてしまったこと、人間の苦しみとこの世の悪を意識 に留めて、なるべくいろいろな行い(奇跡など)によって、惨めな状態から人類を救おうとなさいました。

しかし、パウロが「ローマの信徒への手紙」で、原罪を初めて神学的に取り上げました。特にロマ5:12~23が大切です。「そこで、一人の罪によってす べての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」(ロマ5:18)。この節の、前 の「一人」とは、もちろんアダムです。

やはり聖パウロは、当時のユダヤ教にならって、アダムを歴史的な人物だと思っていたようです。その”一人”の人間の罪の結果、「すべての人に有罪の判決 が下された」のであると。聖パウロは、創世記1~11章を文字どおりに信じていたのです。そしてごく最近まで、教会も同じことを信じていました。

 ユーモラスな話で、当時の信者の考え方を説明いたします。私の父は農民で、毎日汗を流して重労働していました。そんなとき、よくこう言っていました。 「あの世に行ったら、まずアダムに文句を言うつもりです。彼の罪の結果、私は『顔に汗を流してパンを得る』(創3:19)ようになったのです」。やはり父 も、アダムを一人の実在する個人だと思っていました。

2.原罪についての新しい説明の試み
() どうして原罪を新たに考える必要が出てきたのか。
それは、進化論の原始人についての研究の結果であります。進化論によると、人類の歴史はおよそ三百万年前までさかのぼります。また同じく進化論によると、人類は少しずつある動物から、今日のような人間に進化してきたのです。

当然のことにその原始人は、今日の人間のように、また創世記1~3章に書いてあるほどには、知恵と自由意志をまだ備えていませんでした。全人類の、後の苦しみと堕落(原罪)を決定するほどの決断力と責任が、いわゆる”アダム”にあったはずがないのです。

() 他方では次のことが明らかです。
今日、私たちが生まれてくるとき既に、世界は罪、悪意、残酷、傲慢、権利欲、貪欲、エゴイズムなどに満ちています。悪は事実です。そしてその悪は、この 世に生まれてきた後、私たちの心にも存在します。赤ちゃんにもです。もちろん小さい子どもが自発的に意識して悪をなすわけではありませんが、彼らの心にも 悪への傾向は存在します。

もう一つの思い出話をします。私は、1960年から7年間、この松原教会の敷地の中にあった淳心寮の舎監でした。月曜日ごとに寮生を集めてキリスト教についての講義をしていたのですが、あるとき原罪の問題について話しました。

東洋の思想の一つである性善説(人間は生まれつき善いものである)を引用して、ある寮生が原罪を否定していました。それに対して、やはり赤ちゃんにも罪の傾向はあると、私は答えました。

間もなくその寮生は、クリスマス休暇に自分の家に帰ったのですが、寮に戻ると早速私の部屋に来て、性善説は間違いだったと言いました。私がその理由を尋 ねますと、お兄さんに赤ちゃんが生まれて、同じ屋根の下で暮らしてみると、どれほど赤ちゃんがエゴイストか分ってつくづく嫌になったそうです。赤ちゃん は、朝から晩まで自分のことばかり考えて、ちっともお母さんや我々の都合など考えてくれないと分ったのです。

私は、それだと答えました。赤ちゃんは、可愛くて無邪気ですが、知らないうちにいけないことをしています。結論をいえば、人間は生まれてきたときから罪 と悪に染まっているわけです。  しかし、同時に良い心、良い傾向をもいっぱい備えています。創世記第1章を思い出してください。神が、すべての被造物を、良いものだと宣言なさっていま す。神は人間を良いものとしてお造りになったのですが、その後で悪が入り込んだのです。思えばキリスト教にも、ある種の”性善説”があるといえます。

() もう一度、原罪の問題に戻ります。罪はどこから来たのでしょうか。
(「クリスチャン神父のQ&A」の『この世の悪』<を参照してください)。この、悪についての記事の中で、いつになっても完全に悪を理解することはできないといいました。やはり、悪は一種の謎です。

イエスご自身は、先ほどもいったように、悪の原因について何の説明もしてはくださいませんでした。キリストは、悪を説明するために来たのではなく、私たち を悪から救うために来たのです。  しかし、それでも、私たちは探りたいのです。質問者はやはりいくばくかの説明を求めていらっしゃるようですので、ある程度まで書きます。

() 次の説明は、一種の仮説にすぎません。しかし私個人にとって、その説明はかなり満足できるものです。
結局、悪や苦しみは私たちの存在の条件です。また、人類(原始人)がこの世に出現する以前から、すでに悪はあったのです。  自然法によると、動物は共食いすることによって生きています。共食いなしに自然はうまくいきません。この自然法は、人類の道徳よりも前から存在していま す。我々人間の課題は、ちょうどそこから始まるのです。

この共食いの自然法をなるべく抑えて、とくに人間同士の共食い(互いに対して犯す悪)をなくすことです。すべての人の良心にその法が刻まれているのですと、パウロはローマの信徒への手紙でいっています(2:12~16を参照)。

しかし、実際のところ人類は、多くの場合その課題を果たしませんでした。人類の歴史は戦争、殺人などの連続する物語です。我々信者にとって、その悪の歴 史は、やはり大きな問題です。なぜ全能の神、愛である神は、それを許可してこられたのでしょうか。この問題を「この世の悪」の記事で十分取り上げました が、短く繰り返します。

自由な人、自己責任のある人を創造するか、または操り人形のような人間を創るか、というのは、神のジレンマだったのです。しかし神は、私たちの自主性、 つまり私たちが神とともに世界を創造し、つくり上げることをお望みになりました。神が何もかもしてくださるのではなく、私たちの協力、努力も世界の完成に 役立つことを望まれたのです。

() その上、神はその御ひとり子を送って、私たちとともに全き人間として、私たちの悪との闘いを、共に闘ってくださるのです。イエスの昇天の後は、聖霊をとお してその救いの業を続けていらっしゃいます。そしてイエスの再臨のときに、神は、私たちの努力を含む新しい世界をおつくりになるのです。

3.創世記2章と3章には、どういう意味があるのでしょうか。
これまで言ったことは、哲学的にも科学的にも証明することはできません。信者はイエスの言葉に基づいてそれを信じているだけです。  昔から信仰は恵みだといわれてきました。質問なさった方に、この希望の多い永遠の生命への信仰が与えられるようお祈りします。

4.原罪は、一種の遺伝でしょうか。
ロマ5:12にこう書いてあります。「このようなわけで、一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」(もちろん3.(c)の意味です)。やはりパウロは、原罪を一種の遺伝と考えていたようです。

パウロの言い方は、昔のアダムの意味に基づいていますが、ある意味で悪は遺伝であると、今も言うことができます。私たちは、はじめから罪の多い世の中に 生まれてきますし、1.でいったように、すべての人の心に罪への傾向があります。したがって、原罪というよりも、人類の罪といった方がいいかもし れません。

5.救いと贖いの意味
() 2.の(d)でいいましたように、神の御ひとり子が、我々の悪との闘いに、戦友のように参加してくださっています。いや、それどころか、その闘いの指揮官 になってくださいました。  福音を読むとイエスは、当時の苦しむ人、罪人を助け、罪を避ける方法を教えられました。そして昇天なさってからは、私たちに聖霊を送って、引き続き私た ちと共に闘っておられます。

() 同時にイエスは、死と苦しみをとおして、私たちのすべての罪を身に負って贖ってくださったのです。「贖った」というのは、私たちの罪を取り消して、世界 を、神がはじめにお考えになった夢に取り戻したという意味です。もちろん、その完全な形は世の完成のときに現れるでしょうが、神秘的希望として、もう 既にイエスの贖いはできあがったのです。

洗礼を受けるときに、私たちはイエスの贖いにあずかり、イエスと共に罪に死に、イエスと共に復活するのです。(ロマ6章を参照)。

6.結論
罪は、人間の歴史において大きな問題であり、多くの苦しみの原因ですが、イエスの救いと贖いの方が、より大切な出来事です(ロマ5:15~21)。 それが、キリスト教の希望と喜びの意味なのです。

Q. 最近のイスラム原理主義者のテロ の問題で、マスメディアは聖書の言葉目には目を、歯には歯ををよく引用して、今日のテロの原因は聖書の教えではないかとほのめかします。それは本当でしょうか。

A.『日本人とユダヤ人』(1970年)という本で、イザヤ・ベンダサン(山本七平)はこのことを非常によく説明していますので、参考としてこの本から、それに関する部分を引用します。

――― この言葉はほとんどすべての日本人に知られ、そして知っている人はすべて「撲られたら撲り返せ」の意味にとる。ひどい人は、復讐の公認、もしくは奨励とさえする。

この点では、かの有名な「天声人語」氏も、造反闘志も、町のオニイチャンも差はない。しかしこの言葉は、そういう意味ではないのである。旧約聖書は日本語 に訳されているのだから、ちょっとそこを開いてくれればだれにだってわかるのにと思うし、高名な知識人が、まさか原典にあたらず孫引きをやったとは思えな いが、まことに不思議である。 (中略)

「人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁 者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生 傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。

人が自分の男奴隷あるいは女奴隷の目を打って、目がつぶれた場合、その目の償いとして、その者を自由にして去らせねばならない。もし、自分の男奴隷ある いは女奴隷の歯を折った場合、その歯の償いとして、その者を自由に去らせねばならない」(出エジプト記21:22-27)(新共同訳の表記に差し替えまし た)。 (中略)

以上の通りである。説明はいるまい。要は、損害を与えたら、自国民であろうと他国民であろうと、相手がユダヤ人でも朝鮮人でも、奴隷でも、男でも、女でも、正しく損害賠償せよ、ということなのである」―――(引用終わり)

本当は、この”目には目を、歯には歯を”という言い方は、旧約聖書よりも古いものです。紀元前1600年ごろのハムラビ(バビロニア王)の有名な法典に 書かれています。モーセの時代は紀元前1200年ごろですので、あきらかにモーセはこのハムラビ法典の言葉を引用したのです。つまり”目には目を、歯には 歯を”は、聖書の言葉というより、ハムラビ法典の言葉なのであります。

この”目には目を、歯には歯を”は、ラテン語で LEX TALIONIS(レックス・タリオニス)といわれるものです。辞書によれば、レックス・タリオニスは次のように説明されています。
レックス・タリオニス:同害刑法、復讐法
犯罪を犯した者が、その害悪と同一の害悪を刑として受けなければならない。

私は、この「復讐法」という翻訳にはいささか抵抗を感じます。”復讐”はむしろ感情的で、復讐心にあおられて無法に相手を苦しめるようなニュアンスがあるのではないかと思います。

ハムラビ法典のこの言葉の背景を探ってみますと、当時はそういう無法で残酷な復讐が行われることが常でした。”同害”刑法ではなく、むしろ復讐の方が大 きかったのです。多くの場合、ある部族の一人の人の目がつぶされたとすれば、やられた部族は、やった敵の部族全員を殺したものでした。これを日本語で”あ だ討ち”、英語ではvendetta:ヴェンデッタといいます。
 そういう無法な暴力を抑えるために、ハムラビ王は”同害刑法”を定めたのです。同一の償い、賠償。滅茶苦茶な賠償でなく、ちゃんとした法律に則って行わ れるべきであるとしたのです。さきほどの聖書の箇所にも、復讐心でなく冷静に常識的に、害の問題を解決しようとする雰囲気が感じられます。

 また、ハムラビの時代でも、旧約聖書の時代でも、”目には目を、歯には歯を”というのは決して文字どおりのものでなく、あくまでシンボル的な表現にすぎ ませんでした。当時、法律によって一度でも、刑罰として犯人の目とか歯とかを抜いたという記録はありません。その代りに、物々交換の時代には物で、お金の 時代にはお金で、賠償をしたのです。

もちろん旧約聖書の時代でも、また今日でも、”復讐”としての戦争をたびたび起していることを否定できません。害を受けた民族、部族は、引き続き戦争を行ってきました。

今でも正当防衛の戦争は、国際法で認められています。しかしそれらの戦争は、旧約聖書の”目には目を、歯には歯を”という言い方と関係ありません。聖書の言葉を注意深く読めば、あくまでも個人と個人の問題に限られていることが分かります。

本当は、ハムラビ王もモーセも気の毒です。当時のむごい復讐を抑えるために決めた、とてもヒューマニスティックな法律が、今日では復讐の奨めのようにい われているのですから。さきほどのイザヤ・ベンダサンがいっているように、今日のマスメディアも知識人も、書く前に予習を十分にしていないということにな ります。

最後に、質問には直接関係ないかもしれませんが、イエス・キリストが、”敵を愛する”という新しい掟を教えられたことを忘れてはいけません。キリスト教 は、宗教として、復讐を奨めるどころか、愛とあわれみを教えています。でもキリスト信者も、そのイエスの教えをたびたび忘れていると、素直に認めるべきで す。

Q. 初金ミサの由来と意味を教えてください。

A. 簡単にいえば、初金のミサは、イエスのみこころに対する信心を深めるためのものです。

1. その信心の由来をまず取り上げます。すでに中世のころから、幾人かの聖人と聖女は、みこころの信心を信者に奨めてきましたが、特にイエスのみこころのご出 現に恵まれた聖マルゲリータ・マリー・ア・ラ・コック(1647-1690)が、その信心を当時のヨーロッパ教会全体にひろげました。

イエスのみこころ、即ち肉体的な心臓が、私たちの罪のために貫かれても、それでもなお常に私たちの罪をあがなう心積もりであることを、ご出現のときに聖マ ルゲリータは悟ったのでした。 ですから我々の方も、常に自分の罪を悔い改める心を持つように努力しなければなりません。

この悔い改めとみこころに対する愛を深めるために、一つの方法として、毎月の初金曜日にミサに与り、ご聖体を受けるという習慣が生まれました。金曜日であ るというのは、イエスが亡くなった日だからであります。 1956年に、ピオ12世は、回勅をもってみこころに対する信心をさらに強調なさいました。

2. 次に、どうしてイエスに対する愛の方法として、そのみこころに対する信心が強調されていたか、取り上げたいと思います。
どの文化でも(日本でも例外でなく)人間の心は、その感情のシンボルになっています。とりわけ愛のシンボルです。その証拠に、今でも”LOVE”のシンボルはハートです。

しかし生物学者によれば、今日ではむしろ、人間の感情は脳の中で発生するとわかってきました。それでもやはり、脳の中から始まったにせよ、感情は、あきらかに人間の心臓にもいろいろな形で影響することを否定できません。”どきどきする”ようなことです。
また体全身にいろいろな動きがおこってくるわけです。そうしてみると、今でも心臓は、感情の座として考えていいと思います。 ちなみに日本語では”こころ”と心臓が別々な言い方ですが、”こころ”の漢字は、心臓の心を書きます。英語では、どちらもheart:ハートです。

3. 2で説明したとおり、やはり今でもイエスのみこころを、イエスの愛のシンボルとして考えていいと思います。
ヨハネの福音(19:32-36)に書いてあるように、イエスのわき腹(心臓)が刺し貫かれて血と水が流れ出ました。ヨハネはその血にご聖体、その水に洗 礼を認めましたが、イエスのみこころから愛のすべての恵みが私たちに注がれると教えています。 イエスの愛の最高の証しである十字架の死と、その秘蹟であるご聖体は、みこころの信心の根拠といえます。今も我々信者は、みこころに対する信心をとおし て、イエスに対する愛を深めることができます。

4. 次に言いたいことですが、信心は信仰と違って、時代と共に変わることがあり得ます。

私の子どもの頃や青年時代には、みこころに対する信心はとても盛んでしたが、今では、特にヨーロッパや日本などでは、衰えてきたと認めざるを得ません。 昔のみこころに対する信心の強かったことは、当時新しくできたたくさんの修道会が、会の名前に”みこころ”をいただいていることによって分ります。たとえ ば聖心会、みこころ会などです。
この記事を読むある方々には、ここまでの説明は初耳かもしれません。

信仰は本質的なものですが、信心はさきほど言ったように、時代と共に起ったり、盛んになったり、消えたりすることがあります。みこころに対する信心 も、”なくてはならないもの”ではないと言えます。しかし絶対になくなってはいけないものは、イエス・キリストに対する愛と、その秘蹟であるご聖体に対す る信仰と信心です。

5. 最後に、日本ではあまり見られない「みこころのご像」について、ひと言付け加えたいと思います。

見たことのない方に説明しますと、イエスのみこころのご像には、イエスの胸の外側に赤い色の心臓が付いています。もちろんそれはシンボルとしてでしょう が、私たちの目に、よりはっきりとイエスの愛が見えるためです。ちなみに、聖マルゲリータにも、イエスは、そういう姿で出現なさったそうです。

私個人の意見かもしれませんが、日本人には、あまりに生々しい表現として好まれないのではないかと思います。その反対に、たとえばフィリピンや南米など では、そういうご像やご絵が、教会や個人の家によく飾ってあります。彼らにとっては、その心臓を具体的に見ることができるのは、信心を深めるために好まし いのだろうと思います。
国によって、時代によって、信心は違っていていいのです。さきほどいったように、信心は信仰と違って、キリスト教の本質的なものではなく、信仰を深める手段にすぎません。

Q. (1) ご聖体をいただいて、それが消化されるまでの間、どのように過ごすべきでしょうか。            
     (2)
キリストの現存を感得するために、我々はどのように努めればよいでしょうか。

A. まず『カトリック教会のカテキズム』より1374を引用します。
「聖体の両形態のもとでのキリスト現存のあり方は比類のないものです。そのためにエウカリスチアは、他の秘跡よりも上位のものとされ、 『いわば、霊的生活の完成、すべての秘跡が向かう目的』となります。

至聖なる聖体(エウカリスチア)の秘跡には、わたしたちの主イエス・キリストの霊魂と神聖とに結ばれたからだと血、つまり、全キリストが真に、現実に、 実体的に現存しておられます。『この現存を「現実の」現存といいますが、それはそれ以外の現存が「現実」ではないのでそれらを除外するという意味ではな く、神であり人である全キリストが現存するようになるという実体的現存の崇高さのゆえなのです』。」

1. イエスのパンとぶどう酒における現存は、当然のことですが、パンとぶどう酒が存在する間続きます。医師に尋ねたところ、ご聖体のパンとぶどう酒は、食べるとまず口のなかで唾によって、そして飲み込んでから胃液によって、間もなく消化するということです。
そうしてその存在がなくなります。ついでに言いますと、御聖堂の聖櫃に保存されているご聖体のなかのイエスの現存は、もちろんずっと続きます。
ですから、拝領したご聖体の具体的な現存は、時間的にはわずかです。

しかし、この短い現存よりも、ご聖体拝領によって私たち信者が、イエス・キリストとの密接な一致を深めることが大切です。  『カトリック教会のカテキズム』1382「ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主のからだと血にあずかる聖なる会食でもあります。 感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。

聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです。」

2. キリストの現存を感得するために、どのように努めればよいかというご質問ですが、これを少し言い直すと、ご聖体をとおしてキリストとの一致を感得するために、我々はどうしたらいいのでしょうか。

さきほどのカテキズム1374にあったように、ご聖体をとおしてのイエスとの一致は、他の一致の方法、たとえば祈り、キリストの神秘体の一致よりもうん と大切ですから、ミサでのご聖体拝領によるキリストとの一致をできるだけ強く感得することは、たいへん望ましいことです。

3. その方法とやり方を具体的に説明するために、いくつかの点をお奨めいたします。
a.まず、ご聖体を敬虔と尊敬の態度でいただくことが大事です。そのときに、他のこと、たとえば人との挨拶などは避けるべきです。 ついでに、ご聖体を皆さんに配る立場の司祭として、いつも気になっていることを言わせていただきます。

日本人はお辞儀がたいへんお上手なのですが、ご聖体を授ける寸前やまさにその時にもお辞儀する方があります。そうすると、皆さんの手にご聖体を載せるの が、とてもむずかしくなります。本当は全然お辞儀しなくていいのですけれども、どうしてもしたいのであれば、どうか受ける前にしてください。

もう一つ。ご聖体をいただいた後、お辞儀する必要はありません。なぜなら、自分のなかに、すでにイエスがおいでになるのですから。

b.ご聖体をいただいた後、しばらく心の中でイエスと対話することはもっとも大事です。さきほど言いましたように、 唾と胃液の働きで消化さ れて、パンとぶどう酒による現存はすぐになくなりますが、イエス・キリストその方の霊的な  ”消化”は、そのときから始まります。ここで”消化”という のは、イエスの心を身につけることです。
「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべて の聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてつい には、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ3・17-19)

ご聖体拝領の列に加わっている間に聖歌を歌うのはかまいませんが、いただいた後には沈黙を守るのがいいと思います。拝領が終わってからしばらく沈黙の時間があるはずですので、そのときにも、さきに言ったイエスとの対話を続けるべきだと思います。

c.ミサが終わってからも御聖堂で静かに祈りを続けるのが理想的ではありますが、ミサの後はやかましいですし、他の信者とのつきあい、出会いも大切です。さきほど言ったキリストとの密接な一致は、キリストの神秘体の一致を深める一つの方法です。

ご存知のとおり、司祭はご聖体を信徒に配るとき、「キリストのからだ」と言います。その「からだ」とは、実はイエスのからだというだけでなく、キリストの神秘体、つまりすべての信徒、とくにそのミサに与っている信徒を意味します。

私たちは、この「キリストのからだ」という司祭のことばに、「アーメン」と答えます。この場合のアーメンは、「信じます」という意味です(他のときの アーメンは、たいてい「そうであります」の意味です)。それは、イエス・キリストを信じるだけでなく、すべての信徒をも信じる(信頼する、受け容れる)と いうことでもあります。 そういう意味で、司祭が「キリストの御からだ」というのは、イエス・キリストだけのからだになります。

そういうわけで、ご聖体によってできたイエスとの密接な一致は、他の信徒との、また社会に戻って出会う人たちとの一致につながるはずなのです。キリストはすべての人のなかにも現存します。しかし、こういう現存を感得することは、一番むずかしいのかもしれません。

※今回は「復活の続唱」についての黙想です。
続唱についての説明≫
おそらくこの続唱は、中世によく行われた聖劇の一部だと思われます。
その昔の劇のように(能や歌舞伎と同じように)、コーラスと二人のソロ(マグダラのマリアともう一人)の部分があります。
下記に続唱を載せますが、誰が歌うかも書き記しておきます。

復活の続唱≫(典礼聖歌集:351番)
コーラス:(1)キリストを信じるすべてのものよ 主の過越をたたえよう
     (2)小羊は羊をあがない 罪の無いキリストは 罪の世に神の許しをもたらされた
     (3)死と命との戦いで 死を身に受けた命の主は 今や生きておさめられる

ソ ロ(1):(4)マリアよ私たちに告げよ あなたが道で見たことを

ソ ロ(2):(5)開かれたキリストの墓  よみがえられた主の栄光
(マグダラのマリア) 証しする神の使いと 残された主の衣服を

コーラス:(6)私たちの希望キリストは復活し ガリレアに行き待っておられる
      (7)共にたたえ告げ知らせよう 主キリストは復活された
      (8)勝利の王キリストよ いつくしみを私たちに アーメン アレルヤ

続唱の解説

(1)キリストを信じるすべてのものよ 主の過越をたたえよう
主の過越は旧約時代の最も大切な祭でした。その意味は、イスラエル人がエジプトの奴隷状態から救われて、約束された新しい地(国)への旅を始めたことです。

その時、小羊をほふって、その血を家の玄関塗って、死の天使を免れることができました。
この死の天使は、神の罰としてエジプト人の長男を殺す天使です。

今日のイエスの復活は、まさにその過越祭の成就(完成)であります。

(2)小羊は羊をあがない 罪の無いキリストは 罪の世に神の許しをもたらされた
主イエス・キリストこそ、我々のためにほふられた小羊です。その血は私たちの罪をあがなってくださいました。
イエスは「救い主」のほかに「あがない主」とも呼ばれています。

救うとは助けるという意味ですが、あがなうとは命がけで、場合によっては、自分の命をなくして誰かを助けることです。
やはり十字架の死をもって、イエスは私たちをあがなってくださいました。

「小羊は羊をあがない」という言い方がありました。まったくあべこべのパラドックスの出来事です。
つまり、弱い小羊であるイエスは、我々羊をあがなってくださいました。
罪のないキリストは、罪の世に神の許しをもたらされたのです。
小羊のイメージは、無邪気で罪のないものですが、羊である我々は、もうすでに罪にまみれているものです。
その小羊は、我々に神の許しをもたらされました。

(3)死と命との戦いで 死を身に受けた命の主は 今や生きておさめられる
キリストの死と復活の意味です。御父と共に命を造られたイエス、命そのままであるイエスは、死を身に受けたのです。死ぬべき私たちと同じ運命を身に受けたのです。
先日の聖金曜日に、イエスの死はどれほど酷であったかと思い出されました。
思えばイエスは、あらゆる罪の結果で死に追いやられたのです。
ユダの貪欲と裏切り、ペトロの否定、弟子の臆病、祭司たちと律法学者たちの憎しみと嫉妬、ピラトの政治的な臆病と妥協、群集のだらしない態度、我々とすべての人の罪の行列です。

罪のないキリストは、罪のために命を奪われたのです。命の主は、自ら選んで死を身に受けられました。我々の罪の許しのために。

しかし、死を身に受けた命の主は、今や生きて治められる。これこそ今日の祝日の意味ではないでしょうか。
殺された者は、今生きて治められています。復活は、死に対する勝利です。

ここで続唱の雰囲気は一変します。
先程言ったように、マグダラのマリアがここで急に出てきます。
今まで神学的に説明された復活は、本当は歴史的な事実だということを、マリアは保証してくださいます。

(4)マリアよ私たちに告げよ あなたが道で見たことを
そして、マリアは答えます。

(5)開かれたキリストの墓  よみがえられた主の栄光
証しする神の使いと(イエスの復活を婦人に告げる天使) 残された主の衣服を
イエスの体が盗まれたのではなく、イエスが生き返って逃げたのではなく、この世の生活のシンボルである衣服を残して、別な生き方を始められたという意味です。

(6)私たちの希望キリストは復活し ガリレアに行き待っておられる
つまりイエスは、私たちに希望を与え、私たちを待っておられます。
その意味は、私たちも立ち上がって(復活の原語は「立ち上がり」です)復活し、ガリラヤまでイエスに会いに行かなければなりません。

それは、私たちも立ち上がって、罪を捨てて古い人間を脱いで、つまり私たちの古い衣服を残して、待っておられるイエスの所まで行かなければなりません。

(7)共にたたえ告げ知らせよう 主キリストは復活された
つまり、復活の喜びを自分のものだけにしないで、できるだけ多くの人に伝えなければなりません。

でも、やはり私たちは弱い人間ですので、常に神のあわれみがほしいのです。
それでコーラスは、最後の言葉を歌います。

(8)勝利の王キリストよ いつくしみを私たちに アーメン アレルヤ

Q. 毎週主日のミサの中で信仰宣言を唱えます。その中に「聖徒の交わり」という言葉がありますが、どのように考えたらよいのでしょうか。

A. まず、『カトリック教会のカテキズム』から引用します。

946 「聖なる普遍の教会」についての宣言をした後、使徒信条は「聖徒の交わり」という宣言を追加します。この箇条はいわば、前節の説明です。つまり、「教会とはすべての聖徒たちの集まりにほかならないのです」。聖徒たちの交わりが、まさに教会なのです。

947 「すべての信者はただ 一つのからだを形づくるのですから、ある信者の善は他の信者にも伝わります。‥‥‥このように、教会には善の共有のあることを信じなければなりません。こ のからだの最重要部分はキリストです。キリストは頭だからです。‥‥‥したがって、キリストの善はすべての部分に与えられ、この分配は教会の秘跡によって 行われます」。「この教会はただ一つの、同じ霊によって治められているので、教会が受けたすべての善は、当然、共通の財産となります」。―――引用終わり

この”善”とは何でしょうか。古い信者は、まだ元の信仰宣言を覚えていると思います。いまの信仰宣言の「聖徒の交わり」の部分が、そこでは「諸聖人の通 功」となっていました。(ここでいう”聖人”とか”聖徒”とかは、すでに天にいる聖人だけでなく、すべての信者を指しています。この言い方は、聖パウロが 用いた初代教会の信徒の呼び方です)。

通功の”功”とは、くどく、いさおしの意味です。善を積んで得られるものという意味であります。したがって、”諸聖徒の交わり”とは、すべての信者のよい行い(善)は、他の信徒にも通じるという意味です。

そうしてみると、昔の信仰宣言の「通功」という言い方の方が理解しやすかったのかと思います。「交わり」というと非常に意味が広く、通功という意味にはとりにくいかもしれません。

しかし、さきほど引用したカテキズムにはこうありました。「教会には善の共有のあることを信じなければなりません」。したがって、今の信仰宣言にいう 「聖徒の交わり」には、聖なるものの分かち合い、相互に固く結ばれていること、の二つの意味合いがあるのです。具体的にいえば、この聖徒の交わりは、幾つ かの形をとっています。ここで再び『カトリック教会のカテキズム』を引用します。

949 エルサレムの初代教会では、弟子たちは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」(使徒言行録2:42)でした。
 

信仰の分かち合い。信者の信仰は使徒たちから受けた教会の信仰です。この信仰は分かち合いながら、充実していくいのちの宝です。
 

950 秘跡の分かち合い。
 「すべての秘跡の実はすべて信者のものです。事実、すべての秘跡、とくに人々が教会に入る門ともいうべき洗礼は聖なるきずなとなって信者たちを一つにし、イエス・キリストに結びつけます。
 

951 カリスマの分かち合い。
教会の交わりでは、聖霊は教会を建てるため「あらゆる序列の信者に特別な恩恵をも授けられます」。ところで、「一人ひとりに”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(一コリント12:7)。
 

952 「信じた人々の群れはすべてを共有して」(使徒言行録4:32)いました。「真のキリスト者は、自分が所有するものはすべてあらゆる人との共有のものとみなすべきであり、貧しい人や悲惨な状態にある隣人をいつでも急いで助ける心構えを持つ必要があります」。
 

953 愛の分かち合い。
 愛によって行われるわたしたちのどんなささいな行為も、すべての人の益となります。わたしたちは生者と死者を問わず万人との連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです。すべての罪はこの交わりを損なうものです。
 

954 教会の三つの状態。
 主の弟子たちのうちのある者は地上に旅を続け、ある者はすでにこの世を去って(煉獄で)清めを受けつつあり、ある者は『三位一体の神ご自身をありのままに明らかに』眺めつつ栄光を受けています」。
 

956 聖人たちの執り成し。
 「わたしたちの弱さは彼らの兄弟的な配慮によって多く助けられるのです」。
 

958 死者との交わり。
「旅する人々の教会はイエス・キリストの神秘体全体のこの交わりをよく認識し、キリスト教の初期の時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、 『罪から解かれるよう使者のために祈ることは、聖であり健全な考えであるから』(二マカバイ12:45)、死者のための祈願をもささげてきました」。死者 のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることができるのです。―――引用終わり

あとがき
これ以降はやや哲学的なコメントになりますので、読みたい方だけお読みください。我々”個人”と共同体との関係についてです。まず”個人”の意味ですが、Q&A「利己心を捨てる道」の中で細かく取り上げましたので、それをもう一度読んでいただきたいと思います。一部を引用します。

――ちょっと余談に見えるかもしれませんが、利己心といえば、自己・自我(self)の問題も関係します。日本の文化は大きく仏教の思想の影響を受けていますので、仏教の中での自己・自我の意味を短く取り上げます。
『わかる仏教史』(宮元啓一・著)という本の説明によれば、日本の仏教が無我説を強調しているため、自己・自我というと、なんとなく悪い印象を受けてし まうということです。「出るくいは打たれる」という考え方は、日本の文化の中で大きなウェイトを持っています。自分を強調しすぎるよりも、自分をなるべく 低くした方が(低い姿勢)いいと思われています。周りの人に常に気を配って生きることです。その結果、自分のよいところまで押さえることになりかねない場 合が多いのです。
 

ところが、宮元啓一氏は、ブッダの教えは無我説ではないと言っています。無我というより「非我説」だそうです。非我というのは、”我”を間違って考える ことです。ブッダは、我それ自体を否定したのでなく、我に執着しすぎることを避けるべきだと教えたのです。我執をはらうことです。そうしてみますと、仏教 においても”我”は必ずしも悪いものではないようです。――引用終わり

ここまで述べた理論をかえりみて、このテーマ「諸聖人の交わり」にあてはめますと、一人ひとりの人間に”個”はありますが、その個は、共同体の中でしか まことの成長はできません。そして、我々の個の成長もまた、共同体の成長、完成に役立ちます。我々のすべてのよい行いはすべての人に役立ち、我々のあやま ちは共同体全体を傷つけます。我々の完徳も、あるいは罪も、個人だけのものにとどまらず、全人類に影響を及ぼすのです。

そういう意味でも、聖徒の交わりを再認識することは、とても大切であります。共同体のために全力を尽くすことによって、自分自身の霊的、人間的な成長を 増すことにもなるのです。マタイ10:39に書いてあるように、自分の命を得ようとする人はそれを失うとイエスはおっしゃいました。つまり、自己ばかりを 考えて、自分自身だけの成長、幸せを手に入れようとする人は、逆に不幸になり、成長もできません。個人は共同体の中でだけ成長するのです。これこそが、キ リスト教の”愛”の意味です。

分かち合うことによって、あげることによって、もらい、受けるのです。これが、諸聖徒の交わりの意味です。

Q. 自ら命を絶った信者について、キ リスト教ではどのように考えるのでしょうか。

A.1.自殺を客観的に考えて
神の愛の手からいただいた命について、我々信者は、神に対して重大な責任をもっています。自ら進んで自分の命を絶つことは、大きな罪になります。なぜかというと、我々は自分の命の所有者でなく、管理人にすぎないからです。
また、自殺は、自分自身に対する愛だけでなく、他の人、家族、国、属している共同体に対する愛にも反しています。自殺しようとする人は、自分の問題だけを 考えてはいけません。どれほど周りの人に対して悲しみと迷惑をもたらすか、真剣に考えるべきです。また、自殺の方法によっては、他の人の命までおびやかす こともあります。たとえば電車に飛び込んで自殺するなどの場合です。

2.自殺を主観的に考えて
自殺する人の中には神経症の人もあり、また、今後生きていくことに対する心配、苦悩、他の人の手による苦しみ、拷問、あるいはスキャンダルに耐え難いなど、自殺についての自殺者の責任が軽減されるであろうケースは、たしかに少なくないと思います。

昔は、自殺を客観的な”悪”としてしか考えなかったので、教会は、自殺者の葬儀までも断っていました。しかし、近代科学・心理学の発展の結果、近年教会は思い直して、自殺者の葬儀も許し、自殺者に対しても憐れみと愛を示すようになりました。

3.日本でも最近まで、自殺を家族の恥と考えて、その実質を隠すことはよくあったのです。また、自殺者の家族の責任が問われることは、今でもあります。ですから、自殺した本人に対してはもちろん、同じように、遺された家族に対しても思いやりが必要です。

4.自殺した人が、あの世でどういう罰を受けているかを考えるよりも、その人のために祈り、ミサを捧げ、その人のあの世での心の潔め、回心を神に願いましょう。

5.なお、安楽死について知りたいとお考えでしたら、Q&A「尊厳死(安楽死)」をご覧ください。

Q. 洗礼を受けるための要理の勉強を 長年しています。洗礼は絶対受けるつもりですが、今でなくても何年か先でもよいと思っています。「要理の友」を読むと、早く洗礼を受ける方が良いと書かれていましたが、なぜ早い方が良いのでしょうか。

A.1.まず、洗礼の意味を説明します。
洗礼とは、三位一体の神と深い関係を結ぶことが第一の意味です。一種の契約を結ぶのと同じです。

神様(御父・御子・聖霊)は、いつでも、どの人とも深い関係を結びたい気持ちでいらっしゃいます。しかし、我々人間は神から自由意志をいただいていますので、その呼びかけに応えるかどうかは、私たちが自分で決めることができます。

2.次に、具体的にあなたの問題を取り上げます。
洗礼を受けるつもりではいるけれど、何年先でもいいと思っていらっしゃるようです。

洗礼を延ばす理由は、いろいろあります。たとえば心の準備が十分できていないとか、信仰が足りないとか、また、キリストの教えと教会のあり方について疑 問があるとか、はっきりした理由があるなら、洗礼を先に延ばすのは当たり前でしょう。しかし、ご質問を読む限り、それはないような気がします。そこで、ご 質問を言葉どおりにとらえて、洗礼は早い方がいいのか、あるいは延ばしてもいいのかに絞ります。

3.正直にいえば、洗礼をそういう軽い理由で延ばすことには賛成できません。

例えていえば、誰かを愛している場合とか、誰かと友達になってもいいと思う場合、いつまでもその人との関係を結ぶことを延ばすのは、相手にとってもあなた自身にとっても損ではないでしょうか。

ある人と深い関係をもつことは、自分と相手の人生の成長に役立つでしょう。それと同じように、洗礼を受けて、徹底的に思い切ってイエスと深い愛の関係を結ぶことは、イエスご自身にとっての喜びであると同時に、あなたにとっても人生が変わり豊かになることです。

結論として、洗礼を先延ばしにすることは、イエスにとってもあなた自身にとっても、大きな損になると思います。どんな決定にも一種の踏ん切り、思い切ったジャンプが必要であります。是非それをしてください。

Q. カトリックのカレンダーには、すべての日に聖人の名前が書かれていますが、聖人は何百人といるのになぜ聖人カレンダーにはこの人たちが選ばれ、祝われているのでしょうか。増えたりするのでしょうか。教えてください。

A.1.たしかに、何千といる聖人のうち、限られた数の聖人だけがカトリックのカレンダーに載っていて、全カトリック教会でお祝いされています。

現在カレンダーに載っている聖人を、全教会が祝うことは望ましいことであると、ローマの典礼委員会が決めています。しかし、その決定は、いつまでも変わらないものでもありません。たとえば第二バチカン公会議の後、幾人かの聖人の名がカレンダーから消えています。

有名な例は、聖クリストファーです。交通の守りの聖人で、そのメダイは今もよく自動車などに付けられていますが、カレンダーから消えた理由は、この聖人 が歴史的人物でなく、伝説上の人だと分かってきたからです。(伝説であるといっても、意味のないものとは思いません。車につけた聖クリストファーのメダイ を捨ててしまわなくてもいいのです)。

他の聖人の名前が消されたのも、似たような理由です。また、新しい聖人が加えられると、どの聖人かの祝いをやめるのは仕方ないからです。一年には365日しかなく、また、日曜日と祭日には、特定の聖人の祝いができないこともあります。

2.カレンダーに載っていない聖人はどうなっているでしょうか。  全世界の教会カレンダーに載っていなくても、ある国、ある教会でお祝いされています。その聖人が、その地方の出身であったり、その地方の人に愛され、また、人の祈りをよく聴くという評判があるからです。

たとえば、日本の殉教者、聖パウロ三木とその同胞(2月5日)は全世界でお祝いされていますが、聖トマス西と15殉教者(9月28日)は、日本だけで祝われています。

3.また、ある聖人の祝いは、修道会によって行われます。修道会の創立者、その修道会出身の殉教者、あるいはその修道会の会員にとってたいへん良い模範を示す聖人であるなどの理由です。

Q. 先日、某教会の聖体賛美式に参加しましたが、子どもがガサガサし、御聖堂の外に出されてしまいました。 確かに御聖堂は神の祈りの家で静粛であるべきと存じますが、一方でイエズスさまは幼子が近づくのを制止した弟子を叱責していらっしゃいます。以前、聖書の お勉強会で、ここで弟子が制止したのは幼児には律法を守れないためと聞きましたが、まさに1、2歳の子どもにマナーは守れません。よくよく考えますと、そ の年代のお子さんは日曜日の御ミサでも見かけません。幼児洗礼の数からしても、皆さん遠慮されているのかとも存じます。しかしそれでは主日の御ミサにあずかることという教会の規則に反してしまいます。また聖体拝領の直前につれてらっしゃる方もいらっしゃいます。個人的には抵抗を感じますが、そういったことも考えるべきなのでしょうか。 ちなみに所属している教会の神父様からは、怪我をしなければちょろちょろしてもかまわないと、以前おっしゃっていただいたのですが‥。それでも他の方のことも考えれば、ある程度ご遠慮すべきでしょうか。

A. これは、とても大切なご質問です。
私たちも改めていろいろ考えさせていただきました。 幼児のミサのあり方について、幼児の部屋や場所を設けることも大切です。幼児は、長い時間同じ状態でいることは難しいからです。しかし、それがあまりに も隔離されたものとなっては、幼児の賛美が届きません。  幼児は、叫び声や泣き声をとおして主を賛美しているのでしょう。とはいえ、子どもたちを野放しにしていいというものではありません。そこには、節度を もった保護者の存在が必要になります。幼児の機嫌に合わせて静かにさせることも必要でしょう。極端に機嫌が悪いときは、別の場所に連れていくことも必要でしょう。そういう意味で、あちこちの教会に子どもの”泣き部屋”ができています。この問題は、当事者だけでなく、教会全に、子どもたちにミサのすばらしさを学ばせたいという意向がなければいけません。
(ここまで:教会学校リーダーによるお返事)

付け加えますと、マルコ福音書10:13を引用なさっていますが、たしかにイエスは子どもたちを非常に愛し、大切にしておられました。当時は、女性や奴 隷と同じように、子どもたちの立場は非常に弱く、人権がなかったほどです。とくにルカ福音書を読みますと、イエスは、子どもや女性、奴隷などにも、大人の 男性と同じ価値があると、たびたび強調なさっています。

しかし、マルコ福音書のこの箇所は、御聖堂内での子どもの騒ぎとは、直接関係ありません。この箇所は、屋外での場面であり、今日の御聖堂と同じ意味をも つ、ユダヤ教の会堂でのことではありませんでした。イエスの弟子たちが、子どもたちがイエスに近づくのを制止した理由は、イエスのような偉い先生が、たい して重要でもない子どもたちのために時間を無駄にするのは相応しくないと思ったからでしょう。

結論として、やはり我々は、イエスと同じように子どもたちを大切にしなければなりません。ですから、御聖堂に迎え入れるのもいいことだと思います。しかし、さきにいったように節度の問題です。

Q. プロテスタントの教会ではマリア 様のご像などを見ませんが、カトリックの聖堂にはあります。これは偶像崇拝ではないのでしょうか。また、キリスト教のご絵やご像は、いつごろからあるのですか。

A. もうすでに「偶像崇拝について」は、Q&A「偶像崇拝について」で、大ざっぱにこの問題に触れていますので、今回はご絵とご像の歴史をおもな内容として、同時に、ご絵とご像に対する私たちの態度がどうあるべきか、もう一度取り上げることにいたします。

1.ユダヤ教の時代から始めますと、出エジプト記20:4、申命記5:8-10にあるように「あなたはいかなる像も 造ってはならない」「あ なたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と、厳しくご像の崇拝を禁じられています。しかし、神殿と会堂には彫刻があったの ですが、それはただの”飾り”として認められていました。

キリスト教の最初の5世紀においては、ユダヤ教にならって、今でもカタコンベで見られるようなイエスと聖人の絵は、ただの飾りにすぎませんでした。その絵が崇敬されたという証拠はありません。

そのころの司教たちの集まりであるシノドスでは、絵を全部禁ずる決定も下されました。たとえばエピファノスに送られた聖ヒエロニモの手紙でも、そういう習慣は厳しく咎められています。

2.5世紀以降、ご像とご絵は許可されるようになってきましたが、それらを崇敬することはまだ禁じられていました。 ただ、無学の人たちのた めに、聖書の場面や人物、聖人などの絵や彫刻が有益であるため許されていました。とくにグレゴリオ大教皇(在位590-604)は、それをむしろ積極的に 勧めました。

3.ご像とご絵が崇敬されたという証拠があるのは、7世紀からです。その考え方が変化したのは、当時のキリスト論についての公会議において、キリストの人生が、より強調されるようになったからです。

しかし、726年に東方教会では聖像聖画破壊運動が起こって、再びご絵とご像が禁じられました。(クリスチャン神父著『キリスト教の二千年』72頁を参照)

長い論争の結果、ようやく第二のニケア公会議で、初めて正式にご絵とご像に対する崇敬が許されました。ただし、東方教会ではご絵(イコン)だけが許され、西方教会(カトリック)ではご絵もご像も許されています。

4.プロテスタントは、再び旧約聖書の十戒の第二戒にもとづいて、ご絵とご像の崇敬を禁じました。ついでに言います が、ヨーロッパのあらゆ るところで熱狂的なプロテスタントの手によって、数え切れないほどのご絵とご像が破壊されたことは悲しい事実です。これは、第二の聖像聖画破壊運動ともい われています。

5.トレントの公会議(1545-1549)が、旧約聖書の十戒の第二戒と、キリスト教の「ご絵とご像の許可」との 間の矛盾を、次のように 解決しました。  その許可の理由は、我々キリスト信者はご絵やご像それ自体を崇拝するのでなく、そこに描かれている方々に対する崇敬にすぎないからであります。同じ公会 議は、ご絵やご像それ自体を神聖なものと考えたり、それらに対してお祈りしたり、または信仰することは、偶像崇拝と同様であると注意しています。多神教な どでは、絵や像それ自体が崇拝されますが、キリスト教では、その絵や像が表わすイエス、マリア、聖人方ご自身に対する崇敬であるはずなのです。

6.最後に、一つの注意をいたします。プロテスタントの考え方、つまり、カトリック信者が偶像崇拝を行っているという非難には、一理あると認めざるを得ないのです。なんとなく我々信者には、ご絵やご像を本人のように思ってしまう危険性があります。

一つのエピソードを例に挙げます。ある日、私は、ある信者から次のような電話を受けました。「うちのマリア様のご像が壊れて、木端微塵になってしまいま した。直しようがなくて処分に困っています。どうしたらいいでしょうか」と。私が、捨てていいと言いますと、祝別されているのではないかと言われ、ご像が 壊れたら祝別もなくなりますと言ってもまだ納得できないようでした。しかたがないので、私が処分しますから教会に持ってきてくださいと言って、問題が解決 しました。やはり、マリア様のご像はなんとなくマリア様ご自身であるような考え方が、その裏にはあったのです。ついでに言いますと、処分するときには丁寧 に処分すればいいと思います。

ルルドのマリア様や、他にも全世界で特別に崇敬されているご絵やご像は、信者がそれに触ったり、そのご絵やご像に特別な力があるように思われています。それはいいのですが、あくまでもマリア様ご自身の力だと思うべきです。

この場合にも、トレント公会議の健全な考え方を忘れてはいけません。

Q. 今読んでいる小説で、『肉の苦行』というものが出てきました。 教えでは苦行は罪の贖いではなく良い生活へと向かう為の一つのプロセスであるという考え方だという風に勉強しましたが、その『肉の苦行』が出てくる場面は、殺人に対しての罪の償いのような形で書かれているのです。以前観た映画にも、肉欲に対しての戒めとして同じような苦行を強いている修道僧の姿が描かれているものがありました。悪いことをしたという事を贖う為に、苦行を行うということがあるのでしょうか。また、苦行によって極罪が許されるのでしょうか。

A. 苦行は、どの宗教にもあります。
それは、功徳を得るためや、霊性を高めるなどのために行なわれています。

『二つのたとえ話』で、キリスト教的禁欲について説明しました。その他にも、ご質問にあるように罪の償いの方法として、苦行は昔から行なわれていたということです。それを「肉の苦行」といいます。

その考え方の裏には、ある程度、人間の体を軽んずる傾向が潜んでいます。というのは、人間の体が精神よりも劣ったもので、罪の機会になると思われていたのです。それは、プラトン哲学の精神主義と、聖アウグスティヌスの神学に基づいています。

しかし本当は、人間の体よりも精神の方が、罪の機会、原因になることが多いと思います。イエスの教えもそれを裏付けています。(マルコ7:14-23参照)

体の方が罪の原因になるという考え方に基づいて、さきに言及した肉の苦行が、昔から教会の中で、また修道会の中で盛んに行なわれてきました。第二バチカン公会議の前には、ほとんどの修道会に(私の属する淳心会も含めて)肉を苦しめる苦行が存在していました。

そのおもな方法は、鞭打ちや、シリスという粗い毛で作った肌着を着るなどでした。自分の体を頑固な動きにくいロバにたとえて、鞭打ちによってそのロバ が、また活気を取り戻し、一所懸命労働に立ち戻るだろうという考え方でした。先ほど言ったように、やはり体に対する一種の軽蔑が含まれています。ほどよく やれば効果もあるかもしれませんが、第二バチカン公会議の後、そういう苦行はほとんどしなくなりました。だからといって、償いのための苦行そのものをやめ たわけではありません。

ご質問の中で「極罪」という言い方をされていますので、何かの大罪、あるいは犯罪をお考えかと思います。犯罪の場合、正式な裁判によって課せられる罰を、進んで受けることが先決問題です。

次に大切なのは、私たち皆が毎日経験するいろいろな苦しみ、失敗、悩みを、イエスの苦しみにあわせて、自分の罪の償いとして、喜んで神に捧げることで す。また、ボランティア活動、慈善事業、社会運動などに参加して、それらを自分の罪の償いとして行なうことです。また、自分の体と精神の欲望を抑えるため に、たとえば贅沢を避け、美食を減らし、お金の一部を善行のために出すことです。また、精神的にいえば、霊性、あるいは自分の精神を高めるために、本を読 んだり祈りを増やすことです。

結論として、以上に述べたことの要点を考えると、苦行のようなネガティブなやり方よりも、ポジティブな行いをもって、罪の償いを行なうべきだと思います。小説は小説、昔は昔として、今は第二バチカン公会議の後の時代ですので、上に述べた苦行の新しい方法を選びましょう。