主任司祭  L・ゴーセンス
 

今月、塩谷牧師による宗教改革500年記念講演会が行われれば、典礼では「キリストの御からだと御血」の祭日の祝いもあるので、この二つの「イベント」の繋がりについて考えたい。
「義認」に関してルーテル教会とカトリックに同意があり、洗礼・バプティスマについてたいていのプロテスタント教会とほぼ共通理解が出来ているけれど、最後の晩餐を思い起こす祈り(ミサ・聖餐)についてなかなか共通理解が得られないことは事実である。賛成できるまでは互いの式の場で主の食卓に預かることは禁じられている理由は、一致していないのに、一致のしるし(秘跡)に参加することが偽りになるからである。
しかし反面に、キリスト者はイエスの晩餐を思い起こすことによって分裂からいやされ、いつか一致に達する希望が主に養われていくではないか。そうすれば、一致の実りをまだ表せないけれど、拝領によって一致への道を辿る一歩の体験があり得る。
私は1968年にローマのグレゴリアン大学でエキュメニカル神学の授業で先生の次の話に感動したことをよく覚えている。「この問題の解決を見つけるには原点に戻らなければならない。山上の説教でイエスは教える。『あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい。』(マタイ5:23-24)プロテスタントと仲直りができていない間に、キリストの言葉に従って、全てのミサをストップしなければならない」と教授に反省させられた。教会の決まりがイエスの言葉に相対化されているから、キリスト者は対話のためにもっと自由になるかもしれない。
ただ、どういう風にキリストが与えるそのからだと血(別々でありながら死を表す)が私たちの永遠の命の糧(パンとワイン)になるかについて歴代の神学者たちはそれぞれの時代の哲学用語を使いながら説明してきたが、中世期にトマス・アクイナスはtranssubstantatio、第二ヴァティカン公会議ごろにK. Rahner とE. Schillebeeckxはtransfinalisatioを主張したが、これについても原点に戻るべきだと私は思う。
ところが、ナザレの男は父なる偉大な神に復活させられ、命への導き手と定められて生きている主キリストとしてエマオ村への途中と同じように私たちとともに歩み,その名に集まっている私たちの中におり、聖書を紐解いて教え、パンを裂いて下さる。これを信じているかどうか、共通の理解の秘訣である。だって、聖別の言葉のあと、司祭は「信仰の神秘」と言って、会衆の答えは「パンはキリストの体に、ワインはキリストの血に変えられた」ではなく、「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と会衆はキリストに対する実存的な信仰を宣言する。
こういうようなキリストの最後の晩餐の言葉を言われたパンは、もし残ったら、香部屋の箱に戻さないで大切にされ、病者と臨終の兄弟姉妹のために聖櫃にて保存される。やはり秘跡はどれほどイエス・キリストが命をかけて私たちを愛し、生かしてくださっていることをしっかり思い巡らさせ、イエスらしく互いに仕え合うように招き、教会共同体として築き上げていく。「キリストのからだ。アーメン!」(原文のまま)