助任司祭    オノレ・カブンディ
 

教会はすべての人たちに向けて扉を開いています。心から他の人々の中におられる神に仕えようと望む人に門戸を広く開け、善人も悪人も受け入れます。教会へ行くということは、行って様々な人たちと交わることを意味するので、わくわくする冒険です。神のみ前に坐するに値しない人々をこれほど歓迎し受け入れることこそ神の御心です。神の客人のリストにはすべての人を含みます。通常の社会生活ではとても関わらないような人々でさえ、そのリストに入っています。おそらく私たちが嫌い、避け、見下すような人々、路上生活者、教会の晩餐に来るようにとの神の招き以外にそこにいる権利はないような人々をも歓迎します。
教会は私たちが他の人のために苦しみ、また他の人々の愛を通して癒され、元気を取り戻すための実践の場です。神は、他の人々を赦し受け入れるよう導くために教会に人々を招いておられます。これが神の兄弟愛の招きです。教会は私たちがイエスについて学び、イエスに従うことの意味を実践する機会を与えられる場です。喧嘩、心を傷つける言動は教会とて無縁ではありません。しかし、教会が聖なるものであるなら、どうしてこんなことがあるのか、と問われるに違いありません。
善人も悪人もすべて包み込んでいるので、教会は罪と悪を含んでいるということを私たちは知っていなければなりません。良い知らせは神の霊も教会にあるということです。私たちの頑なな心を転換させてイエスの他の人々へ向ける態度に見習わせようと、神は働いておられます。当然ながら問題は、私たちがいつも、まず先に他の人たちを変えてほしいと神に願うことです。十字架にくぎ付けされた手は他の人を非難できないということを忘れて、私たちは他人を指さし非難します。人々を受け入れ、受容する教会であるためには、私たちは他の人と十字架の道を共に歩み、私たちはみな主によって転換させられるべきものだという事実を受け入れることでしょう。
私たちの教会共同体を真に門戸を開いた歓迎する教会、いるべき場所、皆が安心できるホーム、我が家と呼べる場所にしましょう。見知らぬ人や部外者、「新参者」がいるのではなく、愛し合い、赦し合い、和解に向けて共に働く兄弟姉妹たちの共同体であるべきです。赦しは愛の最高の姿です。十字架のイエスのように、神は手を大きく広げて抱きしめるように、教会は門戸を大きく開いて歓迎するように、私たちも心を開いて赦し、受け入れ、私たち共同体に神が送ってくださった人々と共に歩んでいきましょう。
この一年の歩みを振り返りみて一言「みなさん、ありがとうございました」。