主任司祭  L・ゴーセンス
 

皆さん、明けましておめでとうございます。
この新年の間にも宜しくお願いします。罪深い暴力に満ちている私たちの世に来られた無防備の幼子イエスが永遠の命への導き手として再び来られる時にこのキリストとの決定的な出会いを待ち望みながら、今年が皆さんの為に愛に満ちた、張り合いのある年となるように新年の喜びを申し上げます。
去年にカトリック松原教会は小教区信仰共同体として設立されて50周年を祝ったおかげで新しい活気づいてきてお互いの交わりを深め、開かれた教会になろうとする努力を引き続け、困っている人々に「手」を開き、「目」から共感の涙を流し、苦しみの叫びに「耳」を傾けます。こういう「愛の奉仕」に勤める喜びと魅力が周りの人々に伝わっていけば、主イエスの証人の数も増えていくでしょう。願わくは我々の生き方が現代社会の為に啓発の糧、つまりもう一つのタイプの「知育がし」、福音的な「お菓子のセット」とならんことを。
ナザレの男の行いと言葉を通して、神の裁きよりは、むしろ明らかになった「アッバ・お父ちゃん」の慈しみを分かち合うべきであると主張する教皇は特別聖年を設け、損ができる愛と和睦の冒険へ呼びかけています。また、オッサンたちをしりぞけたり、型を破ったりするように特に若者に新しい取り組みを訴えています。このまま続いたら地球が滅びに向かうと警戒し、被造界を大切にするエコロジーに初めての回勅を献呈しました。第二ヴァティカン公会議による革新に基づいてフランチェスコはすべての人々に神の慈しみを示す役を果たさない教会が役に立たないと諭します。言い換えれば、教会は原始秘蹟として神の救いの働きかけの「しるしと道具」と定めています。
多様の部分からできている教会はキリストの体として慈しみの業を続け広めるように派遣されます。ただ、こういう目的に達する為にどうすればいいでしょうか。そこで私たちは、個人としても共同体としても識別の過程を求められています。パウロはすでに「イエスの愛の心で」フィリピの信徒一同のためにこう祈りました。「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(4, 9)
ところが、現代においても「時のしるし」が起こっています。今までノンポリであった若者が去年の5月からシールズの運動を始め、8月31日に安倍政権の法案にはっきりと抗議しました。また、先進都市から読み解く菅付雅信さんは「モノを買わない」という本を出し、「資本主義の先」へ倫理思想を発展させながら、下北沢に於ける「スパルタの塾」から「物欲なき世界」というミニマリズムの姿勢を提案しています。これは山上の説教の「心の貧しい人は幸い」というメッセージから決して遠くないと思います。
春にバート研修生の助祭叙階で始まる今年が新司祭の初ミサで結ばれるように期待しながら、主が今年中一人ひとりの為に求めておられる奉仕はどういう行動であるかを識別の上で悟り、聖霊の力を借りて祈りの心をイエスらしい行動に移せるようにオノレ助任司祭と一緒に松原教会共同体の皆さんに祈り申し上げます。(原文のまま)